写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真イベント】R2.9/21_THE BACKYARD_PITCH GRANT 最終公開審査 @将軍塚青龍殿

2020.9/21(月)、ドキュメンタリー写真家・岡原功祐氏の主催する「PITCH GRANT」(ピッチ=プレゼン、グラント=助成金最終公開審査が催された。

1次審査を突破した10名の作家が一般参加のオーディエンスに対してプレゼンを行い、オーディエンスが投じた票を集計し、上位2名が10万円ずつ助成金を受ける仕組みだ。

 

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投票で選ばれた栄えある2名は、横山佳奈恵『Unbreakable Egg』豊田有希『あめつちのことづて』に決しました。おめでとうございました。

 

 

 

 

ちなみに主催者の岡原功祐氏は、写真作家として「KYOTOGRAPHIE 2019」に『Ibasyoー自傷/存在の証明』を出展していた。空間も含めて、とても印象に残るドキュメンタリーだった。 

www.hyperneko.com

 

 

0.会場のようす

会場の青龍殿は丸山公園の裏に立つ東山、ほぼ山頂に位置する。

審査は18時の開始で、拝観も終わっているためバスが出ておらず、タクシーで行くしかない。めちゃめちゃに山道なので徒歩だと三条駅から1時間かかる。仲間に声をかけてもらえて本当によかった。。4連休のせいなのか、GoToキャンペーンの効果なのか、とにかく車の渋滞がなかなかのものだった。久しぶりの

渋滞。くるまがうごきません。

 

青龍殿の後ろには、京都市街を一望できる壮大な木造の大舞台があり、ちょうど夕日が沈むところだった。合掌。

 

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この中が会場どす。

 

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中どす。この巨大な青龍殿でプレゼンが行われる。オーディエンスは定員50名と、「密」に配慮した、余裕のある人口密度。お陰様で贅沢な空間を堪能できました。徳が高くなった気がする。(気のせいです。)

 

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なお、審査終了後に、主催者の岡原功祐氏より本プロジェクトの目的と、一次審査で留意した点について説明があった。

 

グラント(助成金)を創設してプレゼン審査を行う目的は、岡原氏自身がパリでプレゼンに苦戦し、チャンスを逃してきた苦い経験があったためだ。人前で自分の作品について簡潔に説明し、プロジェクトについて伝えるためチャンスを設けるという、「教育プログラム」の意味合いを持たせているという。一次審査員による事前の応募者向けWebセミナーも、その一環である。

本プロジェクトの年齢を「35歳以下」 に限定した点については、資金が限られていることもある(本プログラムは基本的に寄付によって成り立っている)。が、より若い年齢の人の方が、自分のプロジェクトに割けるお金がないためだ。それは本当にそうです。はい。

よって審査も、作品の完成形を以て評価するというより、現在進行形あるいは予定のプロジェクトについてプレゼンし、「サポートしたい」という思えるかどうか、作家支援の趣旨が主となっていた。(そのため私は、作品の完成度よりもプロジェクトの先を見たいかどうかで投票した。)

 

岡原氏が力を込めて説明したのは、一次審査員の構成についてだった。メンバーは5名で、新井卓(アーティスト・映像作家)、片岡英子(ニューズウィーク日本版フォトディレクター)、松本知己(T&Mプロジェクトディレクター)、喜多村みか(写真家)、天田万里奈(キュレーター)、この人選は「男2人:女3人」で意図的に構成されている。

それは2020年の現在にあっても、国内の著名な写真賞の審査員はほぼ男性で占められており、今の社会を反映していないという疑問があったためだという。現代に活躍する作家を選ぶプロセスに女性がいない状況は是正されるべきとし、今回のような構成がとられた。岡原氏は、社会的な意味合いを考えながらTHE BACKYARDを運営していきたいと語り、本イベントを締め括った。

 

 

では以下、実際の発表順で各プレゼンの概要を紹介しよう。

普段のように、作者のプレゼン内容と私の感想とがごった煮になったレポートだが、ご容赦いただきたい。赦。

また、作品の写真についても、プロジェクターの光とカメラ露光の関係で、本来の作品の色味から外れていたりするので、堪忍されたい。忍。

 

 

1.横山佳奈恵『Unbreakable Egg』 

助成金ノミネート作品☆

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卵のようで、そうでないような、いびつな表情のものが次々に現れる。「破卵」(はらん)という、規格外の卵である。卵というよりじゃがいもや里芋のように、凸凹が目立ち、ゴワゴワと皺が寄っている。売り場のパックに混じっていたら気味が悪くて買わないだろう。 

だが個々に光を受けて造形を見つめられる時、それらは基準から「破」れた存在ではなく、個性として浮かび上がる。

 

作者は2017年から地元の淡路島の養鶏場で働き、商品として出せない「破卵」の存在に出会う。いびつな形状は人に「食べられないように」与えられた特性ではないかと思うほど、その魅力にのめり込む。それがタイトルに込められている。

人工的に管理された自然物(鶏)の管理が及びきらず、基準からこぼれ落ちたもの(破卵)を一定数生み出すというのは、原理的に必然であり「当たり前」のはずだが、工場の生産ラインと化した現場では、それらは不適格として、消費者の目につかないところで選別され、別枠で扱われていた(マヨネーズ等の加工品として利用される)。本作はそれら破卵を正面から「命」と捉え直し、「割られないように、食べられないように、あえていびつな形で産まれてきた卵」と捉え、個性の肯定という形で明るみに出している。

 

写真1枚1枚の作品としてのフォーマットの完成度があること、自然と人為が混ざり合うバロックな造形物への着眼点が面白かった。アートとドキュメンタリーの両方の性質を備えていた。

本作を見た後では、スーパーのパックの卵のほうがアブノーマルに一瞬見えた。過度に「基準」に合わせて内面も外面も整った、製品としての命である。

 

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2.大村祐大『A flower on the rock』

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夢を追い求めて生きて、たとえ夢に破れても人生は終わったり意味がなくなるものではないというメッセージを、他者の人生を追うことで紐解いてゆく試み。

本作タイトルはその人物、力士の四股名「巖乃花」(いわのはな)から取られている。

 

学生時代に相撲で頭角を表し、スムーズに角界入りを果たしたものの、肝臓を病むなど不調に見舞われ、相撲界からは引退。その後、料理人(ちゃんこ料理屋)に転向し、日々ノートをつけながら研鑽を続けた。だが人生から相撲を完全に手放した訳ではなく、地元で相撲教室を主催するなど縁の下で支える活動し、新聞にも載った。

 

作者自身が陸上選手を目指していたが、大学で周りにスター級しかいなかったことで挫折し、こうした人物について関心を寄せることとなったという。

観客にとって無縁の人物像について、過去の資料を元に肉付けして我が事として感じさせるのは、なかなか難しいところも感じた。直系の家族の物語、人生の掘り返しと継承という作品はよくあるが、「かつて、ある界隈でそこそこ活躍したけど今や誰も知らない人物」への共鳴から焦点を当てているのは面白かった。ただ感情移入が難しかった。

 

と思っていたが、こうして書き起こすにあたってリサーチしたところ、やはり元力士「巖乃花」は、作者の実の父親であった。プレゼン時は、距離のある第三者として終始伏せられていたが、やはりそうでしたか。ここで腑に落ちたと同時に、「親とか子といったベタな前提がなければ、作品には入り込めないのか?」という新たな問いが生まれてしまった。手強い。

 

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3.波多野祐貴『Search for His Home』

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旅で訪れた台湾の街角スナップ、人物とのすれ違いの出逢いの作品『Call』シリーズから派生した、関係性を深掘りしてゆくプロジェクトである。新型コロナの流行によって台湾へ渡航・撮影できなかったため、企画の構想・今後の展望として発表がなされた。

 

本作は「私達の故郷はどこにあるか」という問い掛けがテーマとなっている。台湾を旅している時に知り合い、仲良くなった現地の夫妻(作者は「お父さん、お母さん」と呼ぶ)が、日本語で喋ってくれたこと、日本の姓名を持っていること、それは1930年代後半~1945年に行われた皇民化政策によるものだということ、そして男性が初めて日本に旅行した際、日本を「懐かしい」と感じたエピソードなどから、作者は「故郷」というテーマの着想を得た。

 

「故郷」とは「場所」なのか、それとも心の中にある「記憶」なのか。台湾に生まれたはずのこの男性は遠く離れた、一度も行ったことのない日本を「懐かしい」と言った。物理的な場所ではなく、心の中に「故郷」はあるのではないか。

作者は台湾の随所で撮ってきたスナップ写真を見返した時に、そこに日本統治時代に由来のある建物や空間を発見する。何度も通っていた台北の老舗のスイーツ店はかつて花街だった。当時の建築はまだ残っており、風景に写り込む。故郷とは何か、どう可視化するかを作者は模索している。

 

場所・風景と記憶の関係性は多くの作家が取り組んできたテーマだ。例えば広島はまさにメッカである。東松照明はノスタルジックな想いも交えて沖縄から台湾、東南アジアの島々へと南下していった。スナップによって現地の人々を匿名化しながら瞬間的な出会いを重ねていた作者が、その像の同定と、自己の想いの掘り下げを試みるときに何が可視化されるのか。また、私達日本人にとっては台湾を見ることは、過去に「日本」が転写された光景・自国の分身の面影を見ることを意味する点でも興味深い。

  

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4.トミモとあきな『マモノ』

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プレゼンでは「写真と記憶」というキーワードが重視されていたが、先の波多野氏とは異なり、記憶を持ちながら生きる主体としての個人、それが出会う外界の見え方が争点となっており、ある主体の見え方から逃れるように流動化する外界のビジュアルに対し、写真でのアプローチを行っている。

作者自身が写った2枚の写真が例に挙がった――1枚は他者の視線から撮られた、記念の集合写真。もう1枚は自己の視線による自分自身の像。その二つは全く異なる、別人としてのイメージを成す。それらの折り重ね、交錯

本当の記憶とは何か。記憶は捏造されているのではないかと作者は問いかける。捏造とは、この世界のリアリティが写真などのメディアを介して獲得されている(=剥き出しの他者や外部という「リアル」によってではない)ことを指すのだろう。

 

作者は、日常に潜む、認識を逃れるような瞬間、名を付けられない場面との遭遇を「マモノ」と呼んでいる。主体としての確からしい視座から見た世界が、認識の外側の生々しさ、予期の出来なさによって突き崩されるところで垣間見える光景である。

 

真っ先に須田一政森山大道を思い起こした。スナップ、日常、認識の内と外、外界という領域の格闘については、先行者の思想、実践が相当に分厚い。魔界との付き合いは、主体と外界の関係を問う近代以来の哲学の命題そのものでもある。創作活動を営む者にとっては日常世界の範疇でもある。それらは魔物なのだろうか。

逆に、最初に事例として提示された作者自身の像、「自分」というものの見え方が、他者と自分自身とで大きく異なることを掘り下げてゆくと、魔物に出逢える気がした。「一人」の人物を構成・同定しているのは、自・他の認知によって「捏造」された様々な「その人」の像が重ね合わせで成立しているということへの言及。オリジナルの自分が実はドッペルゲンガー自身でもあった、というところに焦点を強く当てたなら、スナップでもセルフポートレートでもない領域で、やりたいことが出来るのではと感じた。

 

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5.杉山有希子『CRASH』 f:id:MAREOSIEV:20200922182232j:plain

作者が体調不良のため欠席、よって審査対象からは外れ、作品とステートメントの紹介だけ行われた。

 

一発で引き込まれる驚異的なビジュアルの強さ。光の荒野の中で、飛行機が滅びるに身を任せている。

強い既視感があったのは、本作は「KG+2018 Award」に出展されており、カタログに参考画像としてこの写真が小さく載っていたからだと後から気付いた。作品自体は見ておらず、サムネイル画像の記憶しかないのに、それを体が覚えていることに驚いた。本当に力のあるビジュアルだ。

 

作者は京都、ロサンゼルス、ニューヨークで、役目を終えて自然の中で朽ち果ててゆく飛行機、車、廃船を撮っている。そのスケールがとにかく大きい。現地ロケだけでも相当なリサーチと準備が必要なのではないか。これらの機体は単体でうち棄てられたものではなく、特に飛行機は荒野に何台も何台も崩れた体を横たえている。使用後に爆破され棄てられた戦闘機らしいが、まさに墓場だ。いったいどうやってこんな場所を見つけ、撮影に繰り出すことが出来たのか、謎が多い。

 

近赤外線カメラにより、植物が白く写り、近未来ともSFともつかぬ世界に見える。だがこれは現実だ。鉄が剥き出しの機体は生きているように生々しい。優れているのは世界観やディテールの描写だけではない、ドローンでの空撮などアプローチも加わり、完成度もスケールも段違いだった。もし審査に参加していたら、審査順位はどうなっていただろうか。

 

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6.山西もも『Cast in』 

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工芸分野の出身である作者は鋳物、鋳造の作品を手掛けてきたが、熔けた鉄を型の中に流し込んで形を作ることと、カメラという箱に光を取り込んで像を得る仕組みとが類似していることを指摘する。タイトルの「cast in」は「鋳造する」の意味だ。

 

2019.6~8月にかけてパキスタンからカラコルム山脈に旅に出た作者は、「どうすればこの世界の光を、より純粋に鋳造できるのか」と、恣意を交えず光を取り込んで写真に現したいと考え、技巧に依らず光を扱える手法としてピンホールカメラを思い付く。風光明媚を美化するような写真には違和感を感じたためだ。道で拾った小物でDIY。光を取り込めれば何でもカメラになるという発想を実行するところが面白い。

 

像が不鮮明な方が記憶の旅に出られるという。

私はこれまで個人的に、一眼レフで出来るだけフラットな形状や光景を複写する方が「より純粋な光」と考えていて、ピンホールや使い捨てカメラはピントも合わずぼやけ、様々なノイズがごりごり出る点が、逆に恣意・感傷を大いに招き入れてしまう(=不純)と考えていた。しかしカメラの機構を光の鋳造器になぞらえると、その見方は変わった。シャッターすら切らないという原始的な手法に、ホンマタカシや佐藤時啓がなぜ注目したかを考えるきっかけになりそうだと思った。

 

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7.菅泉亜沙子『風が吹き、土に着く』

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トミモと氏と同じく日常景のストレートなスナップから、主観の意図の外側へアプローチしようとする試みだ。こちらはモノクロで、自分にとって見ず知らずの土地に迷入し、歩き回る中で遭遇するものに眼を向ける。その意味では、何の変哲もない日常景ながら、作者にとっては初めて関係を取り結ぶ「非日常」の初手が写っていることになる。

タイトルに込められた意図は、風=「季節や気候によって変わること」、土=「その土地、町や国で生活すること」である。都市景というよりは、自然の作用によって変わりゆく光景、風景に着目していると思われる。

 

何気ない・名付けようのない光景に向かってシャッターを切るとき、作家は何に出会っているのだろうか。何がそうさせているのだろうか。それこそ自身のルーツ、故郷に似たものを感じ取っているのかもしれないし、逆にそうした魂の故郷、実家に舞い戻ってしまうことを忌避した結果、都市の片隅で夜を明かすように認識の隙間や迷路に分け入ってゆくのかもしれない。私的さを除外することで逆説的に見えてくる「私」があるだろうし、除外に徹した時に現れる光景は「自然」の何を写し出すのか、興味深いところだ。

これは一定の数を展示で見る必要があると思った。言葉では掴めないところに滲み出るものの連続性や転調から鑑賞者が何を得るのか、未知数である。

 

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8.折田千秋『Image picture』

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不特定多数の人に写真を提示し、それぞれのイメージで、合うと思う色を選択してもらい、Photoshop上で色を当て、像を色で再構築するプロジェクト。個々人の主観が分岐する、その広がり自体を作品としている。

 

題材 / 撮影舞台となるのは茨城県ひたちなか市ひたちなか海浜鉄道の車窓から見える風景だ。本作は現地の現代アートプロジェクト「みなとメディアミュージアム2019」の出品作である。実際の鉄道利用客(那珂湊駅で2日間、駅の待合室を利用する人に声をかけた)に、色のイメージを答えてもらった取り組みである。

写真は、空、木々の集まり、田んぼ、の3つの色のレイヤーで構成された、とてもシンプルな風景だ。列車が走っている映像を見ると、実際にそんなデザインそのもののような風景がずっと続いていた。

 

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大体の人は写真の見た目の色味で、Photoshop上の色を選択しているが、面白いのは人によって選択の基準が違い、必ずしも写真の色味を正しく再現しようという動機を持たない人も見られた。写真は青空だが、例えば「夕陽の時の景色が綺麗だから」「自分はピンクが好きだから」という選択も入り込む。

配色は予想外にばらつき、時折とんでもない色が選ばれていることが新鮮だった。慣れ親しんでいる民主主義制度下で、実は静かに棄却されていた「少数の民意」までもが等価に可視化されたということなのか。色を選ぶ際にも、3秒で直感的に選ぶ人がいれば、10分かかる人もいるらしく、全く一様ではない。

 

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そうして人々の選択で作り出された色のパターン「image picture」は、作品として列車の窓に貼り出された。現実の風景と対のものとして、リアルの空間に投げ返されるのは面白い。

 

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同様の手法で、茨城県北茨城市で開催された『桃源郷芸術祭』にも出展。ここでも選択された風景の「色」は独特なばらつきを見せた。

 

写真そのものを作品化するのではなく、写真によって引き起こされた鑑賞者(いや、まだ作品ではないのだから、鑑賞ですらないのかもしれない)の反応結果を作品としている点が非常にユニークだ。それは「写真を見る」ことの意味に迫るものでもある。眼前の映像から色や形の情報をその通りに受け取っているとは限らず、人は個々に見たいものを見、誘発されて生じたものを見ているということになる。そして先にも触れたように、普段の「民主主義」的な手続き・システムの中では「ない」ものとして伏せられ、棄却されている「個人」のものの見方、「ずれ」が露わになること、この他者との距離感が言葉ではなく「色」で現れされる、そのソフトさが意義を持つと感じた。

 

 

9.片岡俊『穴を掘る』 

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人と自然との関わり、人為的なものと自然との重なりを風景から見出だし、写真に撮る活動を続けている。

原点は2015年9月に発生した「関東・東北豪雨災害」で、群馬県に滞在していた作者は自然の猛威を体感し、雨、水に対して恐怖心を抱くまでになり、同時に「自然」の存在と影響に目を開されることになった。この時の作品が『吸水』というシリーズである。

だが自然が人間界に影響を及ぼすとき、普段は埋もれている人為的なものが姿を現す。雨が降ると水が溜まり、小さな池のような水溜まりが複数発生している。これらは植樹のために開けられた穴で、雨水によって穴が可視化されたと捉えることが出来る。

 

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こうした作者の発想は、雨や水害という単一の事象を超えて、広く「風景」全般から自然と人為の重なり合いを見るというテーマに至った。北海道根室市のユルリ島、鎮守の森、和歌山県大地町に転がっていた10mの丸太など、様々な事例が紹介された。「自然」の代名詞に思える森や島、日常景すら、人工的に整備され保全されてきたり、人工物が紛れ込んだものが実は非常に多いことに気付く。

人工と自然の関係を問うことは、「どこからが”自然”か?」というグラデーションへの問い掛けである。全ては人工、人為だと割り切ってしまえるだろうし、いや、まさに雨や風などは人為が及ばない。

 

そのような濃淡への問いは、日々の生活の中ではロスが大きいため、目を向けること自体省かれている。

事例が多岐に亘り、何にでも当てはまりそうだったので、これらをどう形にするのか、どこでゴールを迎えるのかの想像がつかなかった。

それは逆に、真に手付かずの「自然」と呼べる場所はほとんど「ない」ことの反証となるのではないか。もしあるとすれば、人が容易に立ち入れない原生林や火山で出来たばかりの島ぐらいしかない。作者の取り組みの集大成として行き着くところには、「自然」という大きな舞台装置(=虚構)の側面に回り込むような見え方があるのか、あるいは「自然」という概念の再定義が生じるかもしれない、そんな期待を抱いたりした。

 

 

10.豊田有希『あめつちのことづて』

助成金ノミネート作品☆

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2012年、熊本県の山間部の集落で水俣病の症状が確認された。水俣病チッソ水俣工場が垂れ流した水銀が原因で起きた「公害病」で、1950年代半ば、不知火海八代海)で獲れた魚介類を摂取することで体内に水銀が蓄積され、多くの被害者を出した。当初の調査では被害地域は沿岸部であるとされ、水俣病特別措置法の救済対象地域もそのように設定された。

しかし水俣の海の幸は、市街地から遠く離れた山の中にも行商人によって流通していた。2012年の件は民間医師団の検診を受けたことで症状が判明したのだが、医師団は潜在的な被害者の掘り起こし活動をしていたのである。その後も様々な地域で被害者の存在が発覚し、一時金の支給に結びついている。

 

作者はその集落:黒岩地区で撮影を行っている。

バイトしながら撮影して、今で5年になるという。純粋に、山に囲まれた集落の雰囲気や世界観に惚れたという面も大きいだろう。だが作者が、否応なしに向き合うのが「差別」である。社会全体において、水俣病被害者を取り巻く差別。それだけではない。同じ被害者の中にすら救済認定の有無、救済内容の程度が複雑で不公平感がある。被害者認定の枠組みはピラミッド型で表現される。症状を訴える患者が何万人といる中で、法に基づく「認定患者」は僅かに約3000人。その下に年代を追って2度の「政治決着」対象者や裁判で賠償が認められた原告が広がり、補償内容も異なる。

さらに、水俣病には大きく二種類:急性症状を発するもの(初期に多く見られた症状、激しい痙攣や言語障害など)と慢性型(麻痺、しびれ、感覚障害など)とがあり、後者は見た目に分かりづらく、疑われるなどして理解を得にくい。その上、症状は一様ではなく被害者によって異なる。病と差別によって何重にも苦しむことになる。

 

この集落の住人らは慢性型の水俣病であった。時の流れによって症状が消えるのではなく、加齢の衰えによって症状が負担となる、厄介な病だ。

作者は自身の生い立ちにおける記憶から、差別に対するシンパシー、撮られる側の痛み・撮る行為の暴力性を踏まえた上で、集落の人達の理解を得て、中に入り、写真を撮る。ジャーナリズムとは別種の、共鳴によるドキュメンタリーである。

 

人里離れた田舎、集落はノスタルジックで友好的な幻想を常に孕む。テレビ番組を初めとして、様々なメディアがそのように好んで描く。だが「ポツンと一軒家」のような幸福な出会いが全国に溢れているものだろうか?  しかし作者は現実に立脚している。レッテルによってイメージされる「水俣病水俣」ではなく、「水俣水俣病」、そして「今の水俣」を撮りたいと作者は語る。集落の人数が減り続けているためだ。

  

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我ながら知らないことばかりだった。水俣病は昭和と共に終わったものだと思っていた。本作のプレゼンでは、集落の人や風景のモノクロ写真が何枚か示され、それと見ただけでは「水俣病」には気づかなかった。長年埋もれていた社会問題を可視化し、当事者らの日常生活に寄り添い、実態を伝えるという古典的な役割が、この時代にもまだ写真(家)に求められるとは。

 

水俣病という病が新型コロナとも全く別の疾病であることも注目すべきだろう。しかし構造も性質も全く違うのに、人々・世間の反応は共通して(=忌避、差別、排斥、etc)いたりする。

何が病なのか? 病とは何か。挑戦的なテーマを孕んでいると思った。

 

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とても面白く聴講&拝見させてもらった。浅はかに好き勝手書いてて申し訳ない限りだが、改めて皆さんの作品と、生の展示などで向き合いたいと思った。

 

なにより若手世代で写真をガチンコでやっている人に出会えたのが喜ばしかった。インスタ映えするフォトジェニックな写真を好む若手は大量にいるが、泥臭く、マニアックで、ともすれば不毛かもしれないような、未踏の領域に挑む「作家」の存在は、レアです。またぜひ、お会いしたい。

 

 

( ´ - ` )  完。