nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R4.10/7~R5.1/22 野口里佳「不思議な力」@東京都写真美術館

「不思議な力」とは、何の力を指すのか? 作者のいう力と、展示から感じた力の2点からレポします。

 

【会期】R4.10/7~R5.1/22

 

物理を感じる展示だった。地球上に働いている見えない力を高い純度で体感した。

 

 

本展示は2014年に発表された<父のアルバム>シリーズ以降の作品が主に取り上げられている。入口には展示タイトルと同名にして本展示を象徴する<不思議な力>シリーズ(2014年/2022年)を、展示終盤にはそれらに連なる初期作品として<潜る人>(1995年)、<フジヤマ>(1997年~)が提示される。

 

展示タイトルでもありシリーズ名でもある「不思議な力」とは、一つには展示図録の論考:石田哲郎学芸員『不思議な力に導かれて 野口里佳の写真と映像』にあるとおり、<父のアルバム>シリーズ制作で見出されたされた「写真には過去と現在という時間の隔たりを超越して、他者に体験したことや感じたことを伝える」力、「一つの家族の思い出を超えた共通の記憶へと変」えていく力を指している。

 

<不思議な力><父のアルバム>は2014年、対のシリーズとして同時展開されたという。父親の死後、撮り溜められてきた写真アルバムを見返して、その写真を作者がプリントする行為を通じて<父のアルバム>は制作された。<不思議な力>の方は、石田学芸員によれば2011年の長女誕生以降、育児などで思うように活動できなくなった作者が、身の回りのものを撮影しても自分の世界観を作品にできるようになったことで生まれたシリーズと言える。

作者によれば、<父のアルバム>以降は作家活動として「第2章」に当たるという。制作された経緯やライフステージの変化を知ると、納得である。多くの写真愛好者にとって(まあ私とか)、「野口里佳」というとどうしても90年代後半デビュー当時の作品、まさに<フジヤマ><潜る人>といった、地球という惑星を感じさせる規模感と人間との2つのスケールを行き来する作品が念頭にある。本展示では、作者の現在形である「第2章」の活動を一望できるよう特集し、初期作品との関係性も示す構成となっている。

 

<父のアルバム>が面白かったのは、作者も書いているように、父親の写真が上手いことだ。単なるノスタルジーではない。故人との関係から家族の関係を内省するシリーズでもない。

 

「プリントを進めていくにつれて、父が写真を撮る人としてなかなか才能のある人だったのではないかと思い始めました。そしてそれはだんだん確信に変わっていきました。」

 

作者の言葉どおり、写真としての説得力を備えつつ、何か今の作者へと続いていく写真の力の系譜のようなものを感じさせる。

撮られているのは新婚旅行から作者、作者の弟、妹が生まれた記録、父親の育てていたバラなどだが、リビングで撮られた母(妻)や幼少期の作者のポートレイトが抜群に良い。余白と距離感が絶妙なのとフィルム写真の空気感も相まって、情感の満ちた「家族」がそこにある。

「作者の父親」という撮り手を伏せて見たなら、それこそ本職の写真作家である作者自身が撮ってレトロ仕上げにしたのかと思うぐらい違和感がない。

 

写真を撮ったことのある人なら分かると思うが、愛情があろうが情熱があろうが良い写真になるものではない。良い写真とは複合的な要素から生まれる。技術と機能に還元することも一定可能だが、この素朴にして満ち足りた家族写真はカメラ雑誌などの指南する技術の巧みさでは説明がつかない。もっと別の種類の、謎の「力」があるのだ。(無論、作者がプリントを手掛けたがゆえに「作品」として昇華されていることは留意すべきだが)

なぜ野口里佳という人間が写真家として写真を撮っているのか、撮るようになったのか。それは突然変異の個人的才能として発現しただけではなく、家庭という場の環境か、家族の関係の中でか、あるいは遺伝なのか、何か目に見えない分子間力として「写真」というイメージ認識や生成にまつわる「力」の作用を父親から受けて、今の作者へと繋がっていった、そのような関連を感じた。その父親もまたどこからか見えない「力」を受け継いでそれらを撮っていたのか・・・。

 

 

「力」のもう一つは、<不思議な力>シリーズで最も顕著に見られる、重力や光のような目に見えない物理の力、地球上に満ちている力を指す。むしろ<父のアルバム>以外のほぼ全ての作品が、理科の観察・実験のような物理的要素の写真である。

 

科学全般に言えることだが、特に「物理」は目に見えない。

光、気圧、風、重力・引力などは、透明で目に見えず、それらが極端に変動した際に心身の変調として知覚されるほか、普段属している場から距離を置いたり切り離されたり、計測器を用いたりすることで「力」が「在る」と判明し、実感するのが常である。

普段の私達はそうした力を織り込んで順応しており、前提とした状態で、無意識で日常生活を送っているので、あまり意識されない。あえて飛び上がって宙に浮いたり、緩衝材が差し挟まったりすることでそれらが「在る」と判明する。

幸いにも日本には明瞭な四季の移ろいがあるので、まだ形なきものを敏感に捉える機会に恵まれているが、それでも重力や光そのものを日常から取り出してしげしげと見つめたり知覚するには、少し工夫がいる。一方で、誰もがふとした時に、レースカーテンやガラスから差し込む光、反射する光、屈折から発せられる鮮やかなプリズムなどを目にし、少しばかり見とれ、心を動かされ、写メで撮ったりする。普遍的に関わっていながら、それゆえに関わりは断片的で、刹那的である。

 

野口作品ではその目が幅広い領域に及んでいて、そしてシリーズ展開によって繰り返し扱われため、芯の強いものとなっている。

最初のコーナーの<不思議な力>は主に光、重力、磁力、浮力など「力」の働いている場面を率直に、高い純度で切り出しているのに対し、<きゅうり><ヤシの木><さかなとへび><クジャク><クマンバチ>《アオムシ》《虫・木の葉・鳥の声》といったシリーズでは昆虫など小動物や植物の姿と動きを通じて、自然界に存在する「物理」を見つめている。

普段目にする動植物は「自然」として外界に溶け込んでいるが、これらの作品では、動植物が自然界に働く「物理」の力から受ける干渉の中を飛び、伸び、揺れ動いている。フラットに一体化しているように見えて、実は動植物は、風や重力や気圧などの力に拮抗しながら活動しているのだ。万物が作用と反作用との拮抗・均衡の中で潰れずに存在し続けているのと近い。一見、光と空気感がエモーショナルだが、刹那的ではなく、見えざる力がそこにあることが分かる。

 

こうした自然=物理干渉の力と、人間とのダイレクトな関わりが示されているのが、初期作品である<フジヤマ><潜る人>である。<フジヤマ>は地平線の向こうから夜明けが迫りつつあるカットの1枚だけだが、<潜る人>のダイバーらを見ていると、富士山の稜線を登る人達が小さく写された他のカットを想起させられた。

これらはスケールが人間サイズから地形全体に及ぶため、地球という惑星と私達人間との間で働くマクロな力を現わしている。対して、「第2章」である現在形の作品は、身の回りの動植物や手元、リビングやキッチンで働いているミクロな力を現わしている。

 

 

全体を通じると、地球という星に働いている「力」の存在を感じた展示であった。

展示では物理の力の方に目がいったので、<父のアルバム>で扱われていた「写真」にまつわる眼差しや想起の連なってゆく力については、後から図録を読む中で、制作・展示の経緯を知る中で意図が理解できた。

 

物理は、計算式をやらされると意味不明ですが、こうして目で見ると面白いですね。高校1年の2学期に中間テストで30点切ったので、それ以来やめましたが、計算式をしないで済むなら面白いですね。あのときの物理の老教師の説明がマジ意味不明で、化学の若い先生が要約してくれたらクラス中が「そういう意味だったんか!」「○○先生が物理やってくださいよ!」とざわついた記憶があります。自分語りが長くなりそうなのでやめます。

 

これまであまり野口作品をちゃんと観てこなかった気がするので、改めて見直していきたいと思いました。君は富士山で<フジヤマ>を撮れるか。

 

( ´ - ` ) 完。