写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展/KG+2020】(烏丸御池~烏丸四条)【No.52】八木夕菜、【No.44】スーサム・ライ(黎雪沁)、【No.43】逢坂憲吾、【No.55】四方伸季、【No.27】横山隆平

KYOTOGRAPHIE 2020・サテライト展示「KG+」、今回はNo.1~62と、S1~S5までの計67プログラムが展開している。

( ゚q ゚ ) どうやって回ろう

 

R2.9/26(土)で回った烏丸御池~烏丸四条あたりの展示:八木夕菜、スーサム・ライ、逢坂憲吾、四方伸季、横山隆平の展示をレポです。

 

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横山隆平『WALL stanza』より

 

 

<参考>地図

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以下ナンバリングはこの黄色の番号です。

  

 

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◆【No.52】八木夕菜『Landscape of Kishira』@MOGANA

ホテル「MOGANA」の1F、入口すぐのフロントを抜けて、漆黒の宇宙ステーションのような通路を進むと、途中にロビー、突き当りに小さなギャラリースペースがあり、映像と写真プリントが展示されている。

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「MOGANA」は無国籍な空間のしつらえが際立っているが、おそらく外国人観光客に向けているのだろう、日本の「和」をかなり意識的に発信しており、ロビーには日本の伝統・美についての図録や写真集が並ぶ。八木夕菜の作品もまた、日本古来の風景を眼差す、静かで力強い写真である。昨年の「KG+」にも同会場で参加していたが、天照大御神が祀られている京都の日向大明神と島根の日御碕神社の二つを特集し、建築物がゆらゆらと揺れる映像を発表していた。 

www.hyperneko.com

 

本展示は、写真が様々なサイズで、1点を除いては額なし。写っているのは「自然」の風景だ。展示はやや薄暗いため一枚ずつを覗き込みながら鑑賞した(本ブログ掲載もあえて明暗のトーンを暗いままにしている)

写真には森や岩、川が写っている。タイトルの「Kishira」は地名:鹿児島県肝付町岸良、大隅半島の東部に位置し、縄文時代からの照葉樹林原始林が残された地域があり、作者は古代の森の中で本作を撮影した。

 

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八木作品には原生林の全体像が分かる説明的なカットはなく、「原生林」という単語も写真からは思いつかない。被写体らは何気ない場所や岩などだが、何かがある。巨木、巨石、柱、山そのものに、かつて人々は神が降りてくるとして信仰したというが、どうやら写真に写っているのは、神的な気配が現れる場についてであるようだ。それらに、信仰心が入り込み、依り代となったのであろう。

 

特に岩の写真は、何か言葉の及ばないものが宿るための受け皿であり、人知の及ばないところからやってきた乗り物であるように見えた。その知覚体験には、現場の光や空気感も大いに影響していたことだろう。月光に照らし出されたり、陽射しを浴びているとき、当時の人々にとって、とてつもなく逃れがたい形・存在となって、その亀裂や起伏、膨らみやツヤは、浮かび上がって見えたのだろうか。

 

現代はこうして、写真機や学説などを用いてその昂ぶりを冷徹に処理できる。しかし心身ともに何も持たない状態だったなら、その昂ぶりとも震えともつかない感覚は「神」と呼ばざるを得なかったのではないか。そんな想像をした。

 

 

 

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太陽が空と地を染め、影が山や都市を覆っている。不安や抑鬱、動揺を感じることがあっても、空から輝きをもたらす太陽の光は守護天使のように、内なる恐怖を克服するための希望をもたらしてくれるという。

タイトル、ステートメントで「恐怖に打ち勝つ」という趣旨がずいぶん強く打ち出されていたのは、作者の故郷が香港であるためだ。5年間のパリ滞在を終えて、2017年から香港に戻った作者は、その後ますます強まる中国当局の圧政による多大な民主主義の困難、特に若い世代の置かれている厳しい状況を無視できない。作者は憂慮しつつも、闇に隠されている何物をも光が打ち勝つ――真実と正義が明らかになると強く信じている。

「すべてはうまくいく」と。

 

香港のSFのようなビル群が銀色に光っている。その足元で起きている民主化デモと当局の動乱や、街の全てを書き換えようとしている中国政府の思惑などは、霧消しているかのように見える。それはずっと昔から変わらない姿で、まるで1997年にイギリスから返還された時のまま、時を刻んでいる。

 

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◆【No.43】逢坂憲吾『枯花』@ペルマナン京都

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2008年から撮られてきた、枯れた花のシリーズ。私が訪れた時には会期終了後で、展示作品は2点のみとなっていたが、「枯れた」状態も「生」のひとつとして捉えていることが伝わった。

自然光で撮られているのだろうか、風合いがナチュラルで誇張などがない。空気に溶け込むようにそこにある花。このままで肯定された姿ゆえか、「枯れている」という状態も意識することがなかった。

 

しかし予想外に激しく面白かったのが、店舗「ペルナマン京都」だった。欧州から仕入れた、日本では見ない自転車、鞄、ノート類が豊富で、デザインに込められたコンセプトなどを聞いているととにかく挑発的で、非常に刺激された。

 

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紙のような不思議な質感で作られた鞄。こんなん見たことない。

 

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ノート類は2~4千円台と結構高いが、とにかく表紙・側面・中身のデザインが良すぎて困る。下手な字で書いてダメにするのが超怖い。どうしよう。2冊買ったけど、まじでどうしよう。わああい。

 

◆【No.55】四方伸季Shikata Nobutoshi)『奥能登郷愁歌』@光画 京美堂

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【KG-No.1】片山真理の展示(嶋臺ギャラリー)からすぐ近くに位置する。まさか屋外・京町家の外壁面に、直でモノクロ写真を展示しているとは思わなかった。雨風はどうなるのだろう。

 

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作者は学生時代から作家活動、光学機器メーカー勤めからプロ写真家へ転向し、元ニッコールクラブ事務局長、JPS会員、現在もカメラ雑誌で連載など、まさにカメラマン人生を歩んできた。瞬間を逃さず、骨太の構図で切り取るスタンスに納得した。

能登は海からの風がとても強い。厳しい自然の表情には、その中に生きる人々の営為も写り込む。情景を取りつつ、情緒的なわけでもなく、自然が偶然に生み出す造形や構図の妙に対してシャッターを切っている感じが面白かった。それが最も現れていたのが、坂道を独特な機械で下っている、ほっかむりを被った老婦人の姿だ。車輪の付いた謎の運搬具を歩行器のように使って、座りながら降りてくる。その姿を、構図の美によって捉えていたのが印象的だった。

 

 

◆【No.27】横山隆平『WALL stanza 映像に或るものを拭い去るとき、確からしさ、は、やがて。』@藤井大丸6F 特設スペース

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藤井大丸の6F、メンズファッション階の一角に都市のグラフィティが姿を現した。都市の壁を撮ったモノクロ写真なのかと思いながら近づいてみると、質感が写真とは全く異なっている。その平面は濡れるように粒々が立っていて、塗料を吹き付けたように毛羽立っている。

 

作家ステートメントの書かれたフライヤーを貰い、作家自身からも技法について少し教えてもらったが、一般的な写真のプリント技法とは掛け離れた工程の繰り返しだったので詳細は全く理解できなかった。うろ覚えだが、元となるのは街のグラフィティを捉えた写真だながら、それをプリントした像を洗って剥がし、その痕の上から更にプリントをするという作業を繰り返す。そうして作成した写真を特殊なプリンターで出力すると、このような独特の立体感のある、スプレーによる生きた像となるらしい。この技法は他に類がないとのことだ。

 

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グラフィティのイメージを写真で記録・提示するのではなく、写真で記録されたグラフィティの像を、より現場の手仕事に近い形で重ねて描き、立体性を立ち上げている。グラフィティの立体性とは、図像を描くのに都市の様々な壁面にエアロゾールスプレーを振りかけことで生じる暴力的なまでの物性であり、また、ある絵やタグもその上から上から次々に描き込まれては掠れて消えてゆく・あるいは風雨に晒されるがままとなる、その暴力的な複層性と新陳代謝であろう。

 

photoshopで像を重ねたり、逆にストレートな写真を起こすのではなく、作者が印刷会社とタッグを組み、物理的な技術・作業にこだわるのは、グラフィティやストリートに対する想いが、「写真」の枠組みを上回っているためだろうか。

しかし作者はステートメントの末尾で「その物体はそれでも写真でいる。」「僕はストリートフォトグラファーだった。」と反芻しながら締め括るように、スプレー缶ではなく、カメラを手にしていることを強調する。これまでの活動もストリートでのスナップであり、昨年のKG+出品作でも同じグラフィティを題材にしながら、仕上げは写真であったと記憶している。よりストリートに物性の面で密着した「写真」を模索しているということだろうか。

 

本物のグラフィティの本質は民主主義の拡張というかグレーゾーンの無限拡張にあり、公共物のみならず民家や店舗への汚損・侵害をしばしば引き起こして問題になったり、描き手の腕・センスの巧拙が如実に出る(ひどいものは本当にひどい)ところ、本作では職人仕事の丁寧さ、調和が特徴的である。そして誰の空間も侵害しない(=他者の建築に依存しない)。あくまで規定された「平面」のフォーマット内で完結できる点が「写真」なのだろう。両者の性質の交錯が面白かった。

 

 

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リアルの都市空間が、この作品のように、暴力的なセンス・本性をどこまでも備えてくれていることを――まだ都市の過剰な安心・安全の口実による監視的支配により、民意や自由が「死んでいない」ことを、期待したい。

 

 

( ´ - ` ) 完。