nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】2019 写真学科 作品&プレゼン祭!受賞者展「まばたきを忘れるほどの、」@ビジュアルアーツギャラリー・大阪

【写真展】2019 写真学科 作品&プレゼン祭!受賞者展「まばたきを忘れるほどの、」@ビジュアルアーツギャラリー・大阪

6名が参加するグループ展。前回、HIJU GALLERYのグループ展に参加した面々が多数参加。いずれの作家も鮮やかに日常の世界を描写する。

【会期】2019.11/2(土)~11/23(土)

 

全員分を書けないのですいませんすいません気になった作品を抜粋です。特に前回グループ展で「あっ」と思った作品を。

 

(参考)今年10/21~28、HIJU GALLERYでのグループ展 

www.hyperneko.com

 

前回と比して、今回の展示で個人的に明らかになったのは、展示空間・環境や見せ方が変わると、伝わる内容が大きく変わるということだった。あたりまえや。いや、頭では分かっていることだが、改めて実感した。そのため作品から読み取った内容もまた変化している。前言撤回になってしまうことをご容赦されたい。まあHIJUの展示で触れていたから、理解が深まっていることは間違いない。

 

■末安 笑菜《主役》

夜の都市の中で主役を張る女性。撮影者と同年代、仲間なのだろうか。親近感というより、シンクロ性を感じる。というのも、セルフポートレイトのような人物写真なのだ。まるで被写体を務めるモデル自身が、自分を遠くから見ているかのような視点である。自信に満ちた表情とポーズは、素での最強感の表われなのか。虚勢や演技なのか。それとも、(私たちは)こうありたい・あってほしいという期待を込めてか。統制のシンボルである制服をまといながら、統制された皆とは同じ流れに与せず、独りで立っている。私(たち)は私(たち)だ、あなたたちでは、ない。そのプライドの表明だと感じた。

 

■九鬼 昇汰《俺》

11月のHIJU GALLERY・グループ展に参加していた作家。その時より作品の見え方がクリアになっていて驚いた。作者自身の複製(マネキン)が目の前にいることの奇怪さが、よりコミカルに映える。

作者の分身・「彼’」は、顔写真を張り付けられ衣服を身に付けさせられたマネキンであり、分身にしてはぎこちなく、明らかに人間ではない。だが、周囲は「彼’」を作者そのものとして受け入れている。このズレと、ズレたままのフィット感によって、個人はそれぞれに家族や日常において「役割」を担っていること、逆に、役割性によって個々人は居場所が確保されていることが浮き上がる作品だ。

 

 

■池田 万悠夏《水槽》

同じ作品で、壁面の展示とポートフォリオの両方があったが、その見え方は大きく異なった。

額装された写真の展示はよくも悪くも、一点ずつがA3ほどの一枚ものとしてまとまっていて、都市の風景写真、ということに収まっていた。しかしポートフォリオは、めくるのが少し重いぐらいの大画面で、余白を切り詰め、見開きでビジュアルが迫り、光を帯びており、そこでタイトルの言葉とビジュアルとが繋がった。都市の光景が湛える光の面、膜、層が写し出されていること、それは真空の水槽のような空間であることを物語っていた。都市が備えるガラス面や照明の光といった層構造が、写真によって浮かび上がってくる。大画面での展示で、要素を絞り込み、光の層がしっかり出せれば、作者の意図は伝わるのではないかと思った。

 

 

■池田 万悠夏《200》

《水槽》と同じ作者が、同じく都市を舞台に、また異なる切り口から4枚の作品を提示。前回のグループ展でも同じ作品での展示があった。

前回のグループ展では立体物の側面に写真を貼り付け、オブジェのように展開していたが、腰より低いぐらいの位置にあったので、中身を詳細に見ることはできなかった。

今回は壁面に並んでいることで写真の中身が分かり、趣旨がタイトルと合致した。撮影の舞台は大阪・梅田のグランフロント付近、ここは高層階からの視点が地上と噛み合う場所が多く、梅田にしては珍しく縦に拡張された、複層的なフィールドとなっている。作者は新しい梅田の風景を捉えたわけだが、タイトルにある通り、200㎜望遠レンズによって切り取られたこれらの光景は独特な無人感を漂わせている。そこには作者の意図や私性はなく、あたかも空中からドローンが撮ったように機械的で、誰がどう見ているのかの主格が喪失している。人力ドローン写真。野口理佳の鳥のような視座ともまた違う現代の眼、展開が楽しみだ。

 

 

■野垣こころ《はじまりは透明》

溢れるような光、溢れ出す光をそのまま掬い出した作品群。前回のグループ展の時よりも展開面が横にも縦にも広がったことで厚みが出たのと、恋人らしき近しい人物との物語が他のビジュアルに巻き込まれて散らばり、謎が増した。輝きそのもの、輝きを受けて光を帯びるイメージの群れと、今の作者にとって輝かしいものたちのイメージとがせめぎ合う。個人的には今回のように、直線的な物語では説明がつかない展開の方が、他のカットが脇役ではなく同等に「見る」べきものとなるため、面白い。 

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写真はいいですね。公共の場でアホほど撮りましょう。間違いなく写真は下火になっていますが、撮るやつがおらんようになると、「表現」の必要性がこの世からまた一つ無くなってしまうことに繋がっていくので、ぜひとも滅茶苦茶やっていただきたいです。つらい。

 

 

( ´ - ` ) 完。