nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】R6.2/14-3/2_今井祝雄「ビデオテープガーデン」@+1art

黒いでしょう。ビデオテープなんですよぜんぶ。

 

 

関西の現代美術(家)となると、今井祝雄(Imai Norio)の名と作品に必ず出会う。

具体美術協会」最年少メンバーとして参加した(1965-72)ことで知られるが、とにかく作品の点数が多く幅が広く、私が観てきたものを列挙しても、パブリックアートとしての大きな屋外彫刻、ポラロイド写真での自撮り、テレビ画面の写真、街を移動しながら撮影した写真と8ミリフィルム、アクリルと綿布を用いた白く膨らんで盛り上がった絵画、等々、枚挙にいとまがない。

 

中でも印象に残るのはやはり写真、記録メディア関連の作品である。私が写真の学校(大阪国際メディア図書館・写真表現大学)に通っていた時には「現代美術」の講座として、ポラロイド写真を用いた時間と記録を扱う表現を実践したりした。それは対象物を写し取り、「美しく」高解像度で仕上げる「写真」とは全く異なる概念と形のものだった。

 

また、直近で印象深く残っているのは、展示「風景論以後」東京都写真美術館、2023.8/11-11/5)の出品作阿倍野筋》、《Walking/Abenosuji》、「Red Light」シリーズで、文字通り大阪・天王寺の南、阿倍野筋を徒歩や路面電車で移動しながら写真と8ミリビデオで記録した作品だ。1枚の写真で見ればそれは街中のふわっとした風景スナップだが、カットは連続していき、ある一定時間に・一定の距離を「移ろう」視座がそこに現わされていた。それは私達が普段の歩行や交通機関の移動で目にしている「風景」であり視界そのものなのだが、時間と空間とそれらを移動することとは視覚上意識されていない、いや意識されたものだけを突出して見ていて、他の物事は棄却されており、カメラだけはフラットに独自の「風景」を記録・出力するのだと実感させられた。

 

今井作品はそのように時間と空間におけるメディアの記録性と我々の認知・知覚との関連を問うものが多い。今回の展示はまさに「ビデオテープ」、映像記録メディアそれ自体を剥き出しにして扱っている。

 

ギャラリー空間の床一面に繁茂している黒いもの全て、ビデオのテープである。ケースから抜き出されたテープが芝生のように床から生えている。

観客は透明なアクリル板の上に乗って自由に振舞うことができる。

会場設営時にはテープがまだ盛り上がっていてアクリル板はその上に反発されるように載っていたらしい。だがこうして会期末には板の重みや来場者が上に乗ることで、沈み込んで馴染み、安定した形になったという。

 

その量はテープ約100本分にも上る。

ビデオ自体は作者が譲り受けたものだという。テープも並べられていたが、背表紙には手書きで映画の名前が綴られていた。

 

それらのコンテンツもビデオ自体も過去の産物で、映画はオンラインでサブスク視聴するものとなった今、DVDでの所有・視聴すら面倒臭いものとなっている。ビデオは一体何世代昔の映像文化と呼ぶべきだろうか。

ビデオデッキとテープが家庭に手ごろな値段で供給されたのは80~90年代で、私も幼少期に恩恵を受けた。だがゼロ年代以降、家庭にデスクトップPCとインターネット接続が備わるにつれ、テレビを見ること録ること自体が縁遠くなり、映画の再生はDVDに取って代わられた。ゆえに90年代後半以降に生まれた世代はビデオテープをそもそも知らない可能性が高い。

 

本展示はそうした映像記録メディアとしての時代性、メディアの時代の変遷を考えさせられるものであった。

もし同じものをビデオ全盛期に見たらば、テープの中身、何が記録され、何が再生可能であったのか、それが作品化されたことで何が再生不可能となったのか、の方に意識が及んだだろう。そして中身・再生可能性を捨ててまでオブジェクトとして「モノ」と化すことで、新たに浮かび上がるのは何なのか、映像記録を再生しない「テープ」は何を映し出すのか、何を録画しうるのか、等といった想起がなされたであろうと想像する。

 

だがあまりに暮らしがビデオテープから縁遠くなってしまった。

日本中の家庭の映像記録メディアとして、とめどなく一方通行で流れる映像を蓄積できるインフラとして備えられていたものが、たった20年ほどでまさかここまで廃れ、生活実感や身体から去ってしまうとは思ってもいなかった。(うちの老齢の両親ですらこの10年近く、テレビ放送を予約機能で外付けHDDに録画している)

今、メディアはモノでなくなり、サービス・契約の形で、電波や配線として存在している。

本作はそれ以前の姿、「ビデオ」という映像インフラについて、そもそも「在った」ことを思い出すための場になり、若い世代にとっては新しい出会いの場となっただろう。メディアとしての性質や情報について問うよりも、ビデオという存在の再認識、記憶の整理が催されたのだった。

 

黒い光沢を湛えてうねり、豊かに膨らんだテープの床は、近未来の庭園のようにも見えた。レトロフューチャー紙一重の未来感かもしれない。触ると意外と柔らかくふわふわとしていた。磁気テープは繊細な素材だったのだ。

 

焼け野原の戦後から、僅か半世紀でここまで到達した80~90年代の、過剰に高度な発達を極めた情報都市空間の最後の姿を思わせる。なぜかそれはもう、とても懐かしく遠く感じる。モノとしての最高度を極めた文明の姿をしていた。

懐かしかった。レトロなのに、あの時代は、凄かったと。

 

( ´ - ` ) 完。