山羊の肺は、戦争で何もかもを失った沖縄を支えた、女たちの体と息吹を象徴しているのかもしれない。
平敷兼七の写真は初めてではなく、2018年2月にニコンサロン大阪で開催された「ニコンサロン50周年記念 ニコン・コレクション展「6人の星座」」で数点を観ていたのだった。
まだ写真を本格的に始めてから2年弱の頃で、事(人)の軽重も分かったような分からないような時期だったが、娼婦なのか実家のオカンなのか何なのか分からぬ裸の女性や、「好きな男が女の所から出てくるのを朝まで待っている女性」(タイトルママ)、取り出された「山羊の心臓」などのモノクロ写真には只事でないものを感じた。
焼きは優し目のグレーで、やや引き気味の画角と相まって、誇張やドラマチックな起伏のない描写ながら、それゆえに返還されて間もない1970年代「沖縄」の姿が印象に残った。
今回の展示では、写真集『山羊の肺 沖縄 1968-2005年』から「海の人々」「『職業婦人』たち」「俑」など40点近い写真プリントに加えて、写真集、そして『美風』などの写真同人誌がフルセットで紹介された。豪華な特集である。特に、後述するが『美風』シリーズの開陳は非常にレアな機会となった。ありがたい。
「山羊の肺」というタイトルの印象がとにかく強いが、まさに内臓的な、肉体の内側をえぐるビジュアル表現は肺の写真《殺された山羊の肺》ぐらいで、多くは1970年代前後・沖縄の風景、人であり、特に夜の商売をする女性、そして太平洋戦争の痕が強く印象に刺さる。
極めて内臓的な響きのタイトルと内臓(肺)そのものの1枚が全体を象徴していると考えるなら、目に見えている「沖縄」の表面的な光景から腑分けし、中身をえぐり返すとき、そこに見えてくる――沖縄の内側にあるのは、戦争と女性だったということになる。
沖縄を語ることは難しい。沖縄の何かを語ることで立場が生じ、それ以外の立場が語れなくなる。まず沖縄自体の言葉の立ち位置が複数あり、外部日本(内地)の言葉にも複数の立ち位置があり、活動によっては交わっていて、全方向的な目配せを行うことは不可能だ。
沖縄は常に近くて遠い。大阪―沖縄間は飛行機で片道2時間前後と非常にアクセスが良好で、実際に何度か行っている。気候が全く異なり、異国情緒すらあるのに日本語と日本円と右ハンドルでフリーパス、観光者には極めてウェルカムで安全で、完全に日本の一部として振舞うことができる稀有な土地だ。
しかし遠い。歴史、米軍基地、日本政府の対応、その賛否や地元感情の話となると、途端に困難が伴う。事の次第をニュースサイトで追ってまとめることは出来る。だがそれらについて自分の言葉で何かを言うことはできない。言語化しようとすると必ず自分がどの立場に立っているかが問われる。むしろどう言語化しようとしても立場が自然と作られてしまう。その逡巡や気遣いや混乱から、自分が決定的に外部の人間ということを否応なく突き付けられ、複雑な事情を引き受けることの困難さによって自ら言葉を閉ざしてしまう。
なので日和ったポストモダンかぶれ者めいた両論併記的なスタンスでしか書けないが、沖縄とはどういう土地だったのかというと、日本が始めた太平洋戦争に巻き込まれ、日本軍を送り込まれて最前線の戦地と化し、日本軍と米軍の双方に蹂躙された後、敗戦後は日本の行政権から分離され、米国政権下に入り、1972年に本土復帰した。日本の国土面積の0.6%に在日米軍の70%が集中するという歪さを抱えたままで――という土地であることは念頭に置いておこう。
平敷兼七の撮った時代はまさに沖縄返還前後である。
1948年に沖縄県今帰仁村に生まれ、沖縄工業高校デザイン科を卒業した後、上京して東京写真大学(現、東京工芸大学)に入学。退学して東京総合写真専門学校に入学するも、学園紛争で閉鎖となったため、その間から沖縄の離島の撮影を始め、個展や『カメラ毎日』への作品掲載など写真家活動を行った。1972年に学校を卒業すると沖縄に戻り、1985年には石川真生、嘉納辰彦ら沖縄の写真家と写真同人誌『美風』を創刊する。
平敷の写真は淡々としている。何も糾弾したり告発していないし、何か具体的な要求をしてもいない。だがそこかしこに沖縄の状況が写り込んでくる。
東松照明のあまりにも有名な言葉「沖縄に基地があるのではなく、基地の中に沖縄がある」を引くなら、「沖縄に政治と戦争があるのではなく、政治と戦争の中に沖縄がある」という事実が、平敷の写真には表れている。
戦争とは太平洋戦争の痕跡に止まらず、その後も米軍基地が見定めて射程圏内に収めてきた朝鮮戦争、ベトナム戦争、東西冷戦の有事・・・に連なる力の体制であり、政治とはそのあまりに強大で明確な力を受け容れて抱えるしかない日本/沖縄の事情である。
そんな沖縄の光景の中で、夜の性の仕事に就く女性たちの、仕事中ともプライベートな現場とも、息抜きともつかない姿が印象に残る。時代ゆえか現在想像する水商売や風俗の店と全く異なり、襖・畳・布団の間、店なのか家のアパートなのかも分からないところで女がいて、決して洗練されているわけではない体、装いで、けれどもどこか親し気でタフな姿に、シャッターが切られている。
平敷の写真は女の肉体や、体仕事に密着しているわけでもなく、従事の前後、合間の一呼吸ついた表情がある。だから写真は断片的で詩的なのだと思った。基地の傍でこういう感じの、店と住居が混ざったような物件が小さな集落のようになっているのを、沖縄でも福生でも見たことがある。
写真からも、実際に土地を見たりした実感からも、生活することが性商売、体の従事と不可分であり、そしてそれらは基地と全く不可分であることを実感する。女たちの体、性の仕事はこの島の中で、まるで基地という筋肉と骨格に絡みつく臓器の一部のように見える。それは体内の奥深く、暗いところで体液を纏いながら、人知れず/誰もが知っているとおり、肉体に活気をもたらすべく作動しているようだ。
写真同人誌に掲載された複数のテキストに、敗戦後、日本でも米国でもなく取り残された沖縄人らが、どうやって食いつないできたかが書かれていた。生きる術が何もないのだ。そのままではただ飢えるだけだ。ではどうするか。
女が娼婦となり、体と引き換えにアメリカ人から煙草をもらい、それを売って生活費に換える。もらえる煙草は2、3箱とか大した量ではないのでまた体をさし出す。後に「モトシンカカランヌー」という沖縄の方言を知った。「元手がかからない」という意味だ。女の体は、女であるというだけで、金になり、生活になる。そうやって女たちが、沖縄を食わせてきたのだという。十代そこいらのひどく若い女子も。沖縄経済の根源に女たちの体があったのだ。
平敷兼七の写真はそうしたことを静かに告げている。
写真同人誌の方では、平敷兼七は発刊メンバーの一人であって、複数名が撮ったり書いたりしているためにもっと直截に歴史について語られている。沖縄経済と女・性は米軍基地というあまりに強大な力と資本の直下にぶら下がっている。どちらが主体なのかまるで分からない。沖縄県という行政区が正常に稼働するようになってからは、女と性を取り締まり、売春街を浄化するようになった。しかし敗戦からしばらくの間は、女が体で沖縄を食わせていたのだ。女がいなければ基地はどうなっていたのだろうか?
沖縄では山羊を昔から食していて、明治~大正にかけて飼育数を伸ばし、飼育頭数は全国の65%にも上っていた。戦後は乳を得るためにも盛んに飼われたという。高い栄養価からヒージャーグスイ(山羊薬)などとも呼ばれ、肉だけでなく血や内臓も全て使った炒め物や山羊汁が重宝されてきた。
山羊の肺は、沖縄を支えた女たちの息吹を象徴しているのかもしれない。
『美風』全巻をはじめとする『沖縄を救った女性達』『南灯寮』『UCHINANCHU』といった写真同人誌が生で見られたのは、実にありがたかった。『美風』は上の写真のように、1号から7号までは学校の文集のように、完全に手作りで編纂され、写真も青焼きや白黒コピーで刷られており、まさにZINEの先祖のごときパワーがあった。
何よりもパワフルにこちらをぶん殴って来たのが石川真生の写真である。毎号毎号、強烈に目に飛び込んできて、有無を言わさず「沖縄」や「女」の生命力を叩き込んでくるのが、石川真生の写真だった。
他の巻も前述のとおり、沖縄の歴史、戦争や基地と不可分な状況について言及していたりするので、手元でテキストをじっくり読みたいところだ。が、初期の手作り版などは100部しか作られていなかったりして、まあ普通の写真集の相場では手に入らない。
2009年10月の作者没後は、娘の平敷七海氏が「平敷兼七ギャラリー」を開設し、作品の管理も行っているという。今回のレアな同人誌も、娘氏が保管していたからフルセットで開陳してもらえたのだった。やはり確かな管理人の存在は重要であると実感した。感謝です。
( ´ - ` ) 完。