nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.4/1-7/23_「荒木経惟 花人生」@何必館・京都現代美術館(KYOTOGRAPHIE2023.アソシエイテッド・プログラム)

2002年の展示から21年ぶりの開催となる「花人生」展。荒木経惟と言えばその幅広いキャリアと仕事量にも関わらず、女体と花、死とエロス、と、「花」は強烈すぎるぐらいにアラーキーの代名詞として定着してきた。そのため今ここであえて観るべきか否か、躊躇すら催させた。

 

本展示は「KYOTOGRAPHIE2023」の「アソシエイテッド・プログラム」として位置付けられていた。が、会期がKGに比べて極端に長いこと(KGは4/15-5/14の1ヶ月間)に加え、テーマ性、世界観、なにより作家像が今回のKGテーマ「BORDER(ボーダー)と直接には関わってこないため、私の中では完全に切り離された展示となっており、別個に回ることにしていたのだ。

 

タイトル、題字、キービジュアルを見ればもう、いつもの、変わらぬアラーキーだ。女性器を思わせるフォルムで、胡蝶蘭の赤紫色をした窪みと突起のクローズアップが、こちらをじっと見ている。女体と花。生と死。最盛、円熟から下りゆくところの美。一秒とかからずアラーキーだと分かる。芸術。ゲージュツ。古き昭和の前衛芸術家の煽り、求道、私写真の極致、生物的本能に触るように強い誘因を伴う。

 

展示はカラーとモノクロから構成される。1967年から2002年までの作品で、彼岸花(1967、モノクロ)、「色景」(1990-2001、カラー)、「近景」(1990-1996、モノクロ)、「花曲」(1995-1998、カラー)、「死情」(2001、モノクロ)、「色情花」(2001)、「花画」(2002、絵画)の7シリーズ・約150点である。

1階エントランスには大伸ばしの花、2階・3階は個別の額装作品、5階は小部屋の壁を無数のポラロイドで覆い尽くした「ポラ曼陀羅華(まんだらげ)」となっていて、締め括りに相応しい圧倒的な密度だ。

 

観ていると様々な念が起こる。「感動する」という簡単なものではない。「エロス」という単純な情動などでもない。複雑な振幅に晒される。

 

作品を離れて「アラーキー」「荒木経惟」を想起し語るときには、かなりの距離を置いたところから、半ば批判的に、つとめて冷静に接するのが常だ。なぜか。

まず圧倒的権威であること。そして1970~2000年代に挑発的に攻めた表現が今の時代にそぐうかは疑問符も大いにあるということ。それでいて作品は強力に作用し冷静ではいられないこと。この3点が大変だ。

 

見る側、語る側としてはそのパワフルかつ複雑な存在を一言では定義できず、接し方を定め難い。底の見えない溜め池の周りに、安全用のフェンスを張り巡らす市役所のおっさん、自分自身の心性をそのように感じる。戦後から高度成長期を経て、食の確保、増産、欲望の拡充が終了し、全てに倦んで表象を愛でる時代を更に過ぎて――複雑さと繊細さと切実さが身に迫った現在においては、アラーキーはもう古いからか。礼賛することは危険ですらあるからか。エネルギーが過剰すぎて手に負えないからか。

理由は十も百も挙げられよう。だが荒木は人工的なコントロールの効く溜め池ではない。底なし沼であり地中の何処まで深く続いているのか見当もつかない。作品と一対一で向き合うと、理屈が通用せず、逆に飲み込まれて早々にこちらは立ち位置を失い、擂り鉢状の沼に足を取られて引きずり込まれ、小市民的な心性は剥がされ、溶かされる。

荒木のいう「エロス」と「タナトス」は被写体の雰囲気や演出を指すだけに全くとどまらない。陰りの兆した花、枯れた花を撮っているから熟女的なエロスとタナトスなのだ、などと理解するのはあまりに分かりやすいが、作品に入っていくとそうとは口が裂けても言えない。確かに被写体・モデル(ここでは人間はおらず全て花だが)に要求される生と死の舞台も色濃いだろうが、むしろ現在の生存に関わる設定を揺るがされているのは鑑賞している「私」である。確実にこちらの規範的理性や手続き的な設定を奪いに来る、遠目に腕組みをして観客のままで居ようとする態度を許さない引力がある。舞台を観に来たらハプニング的に巻き込まれて自分も脱がされていたようなものだ。

約束事としての見る・見られるの線引き、対話や契約で取り決めた物事、人間の役割とか善悪、快不快、タブーの領域に関する了解事項を、あえて侵して撹乱させるのだ。日頃は社会のシステムと規範に則るがあまりに不活性になっていた生命力を駆り立てる。それを革命に絡めた理論武装や闘争ではなく、手法や様式の破壊でもなく、「性」の力を横溢させることで実践しているのがアラーキー流「芸術(家)」の本懐なのだろう。(前衛いけばなの中川幸夫、詩人の吉増剛造などとの関連、差異は確認したいところだ。)

 

ゆえに令和に生きる身としては常々、それに心酔し崇拝することのないよう注意を払っているのだが、やはり作品の力は強大である。「性」を溢れんばかりに孕んだ「花」が迫ってくるのは、こちらの生命力の本性と、写真の生命力のポテンシャルの2つを揺さぶるためだ。

特に写真の生命力、ポテンシャルについては言葉が及ばない。荒木はあまりに無造作に日常生活動作の一つとしてパチパチ撮るので過小評価してしまいがちだが、荒木のフィルム写真の撮影・現像・プリント技術は、改めて凄いと思った。ピント、色味、露出、etc、どこをどう四則演算すれば人間が痺れ、興奮し、さめざめとするか、見る側の情動を知り尽くした上での職人仕事をやっている。全てが見えている人の仕事だ。1枚の写真がとりうる表現の幅を出し切っているところに畏怖を感じた。

特に「死情」のモノクロ写真は極限にあった。メイプルソープの張りつめた緊張感を和の情感で緩めながらも、グレーの透明度の硬質さを以って、枯れる花の「死」への傾斜を永遠に留めている。私自身もフィルム写真をやっていたからこの技術の凄みは、彼岸の差として実感した。本展示の写真集ではモノクロ作品が完全に潰れ、特にグレーが叩き潰されていたので、全く別物である。結局買ったが。

 

荒木経惟」という存在は言うまでもなく大きくそして重い。あらゆるものを撮ってきて、いまだ現役で撮り続けている大御所、日本写真界のレジェンド。かつ日本の現代写真そのものでもある。そして多くの私写真家フォロワーを生んだ。その人生と世界観の核にして象徴とも言うべき「花」と向き合うのは、現在進行形で変容し続けている「写真」を知れば知るほど重荷となる。

この20年ほどの間に細かく繊細に取り決めてきた、様々な正しさを定めた視座がかき乱される。社会的、対話的な取り決めが融解し、死の風で冷えて固められ、設定は曖昧になり、己が内から立ち上がる色と香りの念や記憶にやられる。

直接的な性欲や情欲ではない。快感の形や色でもない。写真による「表現」、写真の持つ表現力の、ある方向の極をきわめるものだ。

複製装置であるにも関わらず人間にとって重要かつ逃れ難いもの――生命力の漲るところと、生命が火を失って徐々に萎びて降下してゆく、下りのエネルギーを如実に、目の前に現わしている。

様々に、多彩に微細に多角的に多視点で分化していった「荒木以後の写真」に慣れ親しんだ身体を、アラーキーの「花」は強烈にリセットさせ、あの小劇場へと引き戻すのだ。煮え立つような、体温が一気に数度上がるような、むせかえる小舞台へ。

 

細分化と多極化がそれなりに仕上がったはずの私が、写真的原点へとリセットすることを運命づけられ、逃げられないように感じてしまう。「写真」を知れば知るほどにそうなる。だから観に来るのが億劫だったのだ。権威である老写真家に頭を垂れるのが面倒だからではない。自分の多様性やコレクトネスを否定されるからでもない。「結局、写真は、この時代いちばん凄かったのではないか」などという、まるで学生の感傷のような実感に囚われるのが一番厄介なのだ。その念こそ私から現在性を、今と未来の作家を肯定しようとするエネルギーを奪う危険なタナトスであり、荒木の遺した恐るべき遺産ということになる。

この権威と衝動と闘わねばならない。

 

 

( ´ - ` ) 完。