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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】志賀理江子「ヒューマン・スプリング」@東京都写真美術館

【写真展】志賀理江子「ヒューマン・スプリング」@東京都写真美術館

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寄せては返す波のように写真の映像が押し寄せる。ニンゲンの営みと死、喪が交錯し、2つのサイと2つの個が鮮烈な色とともに現れては混ざり合ってまた消える。そしてその果てに、3つ目の「個」、共有された地霊のような個人の像が浮かび上がる。

 

 

本展示は徹底的に型破りで、まず会場に入る前からロビーに作品が散りばめられている。

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青いトーン、水の中で、人々が眠りに就くように沈殿している。それは311、東日本大震災津波に呑み込まれた人たちにも見えるし、被害を受けて行き場を失い都内の真っ只中あるいは現地の避難先で折り重なって一夜を明かす人々のようでもある。全ては生から喪へ直結しているし、そのどちらもが折り重なった状態である。

直線的な時の流れはバラバラに砕かれた。その後の世界を生きていることを突き付けられる。忘れつつあるが、あのとき、圧倒的に私たちの日常などというものは砕かれ、呑み込まれてしまったのだった。

 

会場に入ると大きな写真パネルが並んでいる。寄せては返す波のようにパネルは圧倒的な重量、質量と情報量とで場に満ちている。展示としては区切られたそのワンフロアのみだ。いつもなら第3、第4コーナーと巡回してゆくところ、観客はただ1つの空間で作品と向き合い、作品の中を漂うことになる。

それは通常の、額装された「写真」「作品」ではなく、志賀氏が撮影時に企画し立ち上げるのと同じく、立体的に演出された「場」そのものだ。TOPのこれまでの展示で、ワンフロアのみで語り切って〆て、そして出口へと誘う企画を自分は他に知らない。おそろしく潔い。が、その実、作品の世界はおそろしく深い。

 

作品は立体パネルと化しているので、写真の見え方は1パネルにつき4面あり、それぞれに異なる場面の写真となっている。最も特異なのは進行方向から真逆の面の写真だ。それは顔に赤いメイクを施された裸の男性?の上半身である。この者が全てのパネルに貼り出されている。折り重なるように、響くようにその者が立ち現れる。背後には青く光り輝く海を伴って。

 

赤と青。

 

どこまでも本作は色と密接だ。

青は水、ひいては津波、そしてそれがもたらす「死」の世界を表している。人々は抗うことすらなく青に呑まれ、青の中を漂う。青の中は、津波に呑み込まれた後の人々の姿を思わせ、同時に、避難先で折り重なって眠る人々の「生」の停滞をも孕んでいる。水は生命の根源であり、この世界の理の重要な源である。青の中で人々は得も言われぬ法悦を噛み締め、また、祝詞を唱えるように神妙な様子をも見せる。しかし圧倒的に、人々の生や意志を奪い去った後の、零度の世界を見せている。

 

2つのサイと3つの個。

サイの1つ目は「災」。青が象徴する、東日本大震災津波によって呑み込まれた土地、暮らしである。写真には波が飲み込んだ命がうつろっている。

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2つ目のサイは「祭」、儀式である。人々の営みの最たるものだ。半ば定型と化したそれは生きる喜びを楽しむと同時に、生者が「喪」を体現し向こうの世界に最大限折り合いをつけつつ関わる場そのものだ。作中では車座になった地元民の祝祭の卓や、酒宴の果てに陥る眠り(≒死と避難)などが現れる。「祭」、ハレは徹底的に演出的であり、志賀作品の文体の根幹とリンクしている。

 

生者の血、熱、脈動を赤が引き受ける。最も演出的でありつつ、志賀作品では赤が最重要のエネルギー場となっている。これがなければ志賀作品はただただ自然の猛威に頭を垂れる、人類の弱さだけを物語る教訓譚、あるいは単なるヒューマニズムになっていたかもしれない。あくまでヒトは生きる。ヒトは生物である限り、無謀さを乗り越えて生きる。ヒトに限らない。名もなき草も瘤のようなオブジェもその他の有象無象も爆発的なものを秘めて生きる。赤はその生命の熱を宿す。それは「祭」の熱へと結ばれる。

二つのサイが結ぶ地点をまだ整理できないが、場を形作る色の中で、死の青へと至る過程あるいは抗いのように「土」色が濃厚に立っている。徹底的にケの場、純粋に生きる状態。死に呑まれ喪に服されるもっと手前で、死への傾斜に抗う体がある。死、陶酔の青と、祭、生命の極致の赤の間に、産み落とされた生が転落しつつもがく姿として土の色がある。土が、二つのサイを結びつける。

 

これらの関連する舞台からは、二つの個を感じる。ひとつは作家の、もう一つは私たち個人の「個」だ。

志賀氏は2006年から東北入りして作品制作を開始、2008年11月には移住し、現地に密着しながら制作をおこなった。そして2011年3月に東日本大震災によって圧倒的な死、喪失を体験した。志賀氏自身は生き延びているが、明らかにそこで氏の中そしてその周囲には、とてつもない死があり、それに伴う喪があったことだろう。その作品世界に接する私たち鑑賞者は個々にそれぞれの立ち位置から、あの時経験した「個」の喪失を想起する。

 

これらの渾然として混ざり合い循環しせめぎあう波の向こうに行き切って、はたと振り返るとき、一斉に立ち現れる者がいる。全てのパネルが、同じある人物を映し出している。第三の個である。だが、その存在は、単数形・現在形であるが、人称が特定できない。あなた? 彼? 彼女? きみ? わたし? わたしたち? 誰でもなく、誰でもあるような「個」が立ち現れている。 


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その存在は歓喜と生命、祭の赤を宿し、もがきねじれながら生きる土の色から成り、そして死と喪の青を背後に立っている。東北という地が歴史的に秘めてきた情念と文化、生と死の連綿と連なる世界観を体現した、地霊のように感じる。

あなたは誰なのですか。ずっと前からそこに居たように思うし、今さっきそこに現れたようでもある。あなたは、私たちが間接的遠隔的に体験した死と、残されたものが引き続き今を生きてゆかねばならないという日常とを緊密に繋ぎ合せる、メビウスの輪を結ぶ者であるようなのです。

 

私は混乱している。ここは何処なのか、私は何を言っているのか。その第三の「個」は静かに、しかし言葉にならない声で何かを語る。聴こえないぐらい低く、海や空や土と溶け合った声で語っている。

その声を聴きたいと思う。既に聴いてしまっているのだと思う。いつか完全に忘れ去ってしまうと知っている。だからこうして愚にもつかない、ひどく遅れた言葉を連ねて、その声へとたどり着こうとする。そうしなくてもそこにあるのだろう。それでもそれでは聴こえない。いや既に聴いているのだろう。どっちだろう。わからない。


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(・_・)完。