今年のKYOTOGRAPHIEには異端児が潜んでいた。建仁寺・両足院の中川幸夫(なかがわ・ゆきお)展示である。そもそも写真家ではない。
作品の迫力と生命力を表すときに「血が通っている」だの「触れれば血が流れだしそうな」と形容することがあるが、中川作品は、事実として花が血を流している。平静ではいられない。
これは一体何なのか?
KYOTOGRAPHIEにおいて本展示を企画した華道家・片桐功敦(かたぎり・あつのぶ)の熱意と気迫が、写真展に訪れたアート民たちに、ぞわぞわとした化学反応を生じさせる。60年近く昔に「重森三玲が放ったテロリスト」は、片桐氏によって、今度はアートの場へと再び放たれたのである。
これらは他のKG出展作品とは異なり、写真作品としての良さを味わうというよりも、写真によって留められた、或る作家の生の記録と対面するものであった。血を流しているのは、花か、中川自身か。その両者の凄まじいせめぎあいの末に、彫刻とも舞踏ともつかぬ「いけばな」が姿を現す。
中川幸夫は戦後・昭和の日本で、華道界最大・最古の流派・池坊に所属しつつ、作庭家・重森三玲の結成するいけばな革新集団「白東社」の一員として活動。しかし前衛的な表現は池坊に認められず、33歳で脱会。後、パートナーの半田唄子と共に「前衛いけばな」という新境地を、孤独で貧しい日々の戦いの中で、切り拓いていった。
なんて。
言葉にすると、何と簡単なのだろう。文章を書くのが毎日嫌になるのは、まさにここだ。しかし書かねばならない。人の記憶は残酷で、如何なる素晴らしい怪物との出逢いのことも、あっさり忘れてしまう。人も社会もそうやって、尋常ならざる化物のいたことを忘れていく。書かねばならない。自分自身のためだ。この男のことを少しでも覚えておきたい。
今でこそ我々は発言、発表の場を自由に選択できる。プラットフォームを選択し、複数のアカウントを使い分け、所属コミュニティを渡り歩くことができる。権威・伝統に所属するのも、反・脱権威を声高に叫ぶことも自由だ。
しかし中川幸夫が身を立てようとしていた昭和20~40年代に、プラットフォームの選択権はない。権威は強力であった、いやそれどころか抗争状態にあった。華道界では誰もが、戦後日本の文化・伝統の第一人者として名を打ち立てるための壮絶な戦いが繰り広げられていたようだ。この点は華道界の戦後史を描いた「華日記」(早坂暁)が参考になるだろう。 早く届かないかな(発注済)
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私は生け花の世界に踏み入れたことはないが、例えば相撲や歌舞伎で「我流」や「前衛」があり得るか? と想像してみると、ただ事ではないことが分かる。今ではスーパー歌舞伎でワンピースが好評を博してはいるが、現代と昭和は基本的に似て非なる日本だと考えるべきだろう。権威が力を蓄え、巨大な権力へと構築されていく時代(=昭和)において、中川の活動は邪魔だったか、あるいは黙殺されたか。前衛を推す重森三玲、勅使河原蒼風らの存在は、池坊にとって無視できなかったはずだ。事の詳細は、やはり「華日記」で読むことにしよう。
池坊を離脱した中川幸夫とパートナーの半田唄子は2人、無所属で東京での暮らしを営む。それは食えない暮らしだった。池坊の看板を掲げられない前衛華道家は、己のための活動をぎりぎりのところで行う。
活動といっても、生の花であるから、「作品」として形に仕上げても、しばらくすれば枯れてしまう。他の芸術分野との圧倒的な違いが、保存が不可能であること――「作品」として生まれた瞬間から死んでいくことだ。
そこで中川は写真を用いた。かつて白東社にいた頃、撮影を担当していた土門拳から、その術を学んでいたのである。
これが「いけばな」だという。まさか。
眼を疑った。まさに前衛彫刻の部類ではないのか。花や植物をモチーフにした、岩やガラス、金属から成る立体造形作品ではないかと思ったのだ。逆だった。生きた花や葉を、無機物の素材と戦わせ、新たな舞踏を生み出していた。
その尋常ならざる迫力と緊張感を生み出しているのが、写真の文体だろう。土門拳に撮影術を学んだと言われれば、納得できる。真正面から対象を受け止め、目一杯にフレーミングして画面に収め、余白を切り詰め、力を湛える。被写体と一対一。土門の向き合い方に似ている。
無音の舞踏、生まれた瞬間から死に向かう彫刻。 見ていて実にぞわぞわした。「これが白菜!?高菜!?すごい」とか「この肉汁はチューリップらしい」「畳が黒い」などと、私たち来場者はとりあえず口にする。本心は皆、そこではない。ボキャブラリーが、衝撃に追いつかないのだ。
この作品タイトルはまさに「大野一雄に捧ぐ」(1999)で、「舞踏」の第一人者・大野一雄へ捧げられたオマージュとなっている。1991年にテレビ「美の世界」で共演したことから二人の関係が深まった。これはまさに花が、前衛芸術表現を取り込み、生け花の「型」を食い破ったものと言えよう。
中川幸夫、あるいは彼を見出した重森三玲が試みたのは、華道という厳密な伝統と規範によって守られた「型」から、その主体であり素材である「花」を揺さぶり、目覚めさせることだったのではないか。
他の分野における前衛芸術運動のエネルギーを「花」に流し込み、自らの生命によって立ち上がる主体として仕向け、「美」のテロリストとして世に放つ。武器は、己の体と血だ。1940~50年代、アンフォルメルの気運が世界に巻き起こり、絵画においては、画材や色そのものがキャンバスを覆い、反逆し、「絵画」というフォーマット自体を食い破るといった運動があった。抽象絵画である。それと同様のことを、華道において中川幸夫は成したのだと思う。
一体どこからそのエネルギーが生まれるものなのか。
作家個人の歴史を見てみると、幼少期に脊椎カリエス(結核菌が脊椎に入る疾病で、膿が産出され、背骨の湾曲を来す)にかかり、身体面での大きなハンディ、コンプレックスを負っていたという。
作品作りにおいては、前衛をやるにも基礎が大事、ということで、23才から池坊に入会し伯母から手ほどきを受けてきた。しかし1951年、33才の時に池坊の公募展に「ブルース」という白菜を立てた作品を応募するも、審査員から「わけがわからん」とはねられ、落選。革新的な現代造形表現を志していた草月流・勅使河原蒼風のみが満点をつけるものの、中川の取組が家元から否定される、決定的な出来事となった。
これ以降、中川幸夫はどの流派にも属さず、生涯を通じて孤高の戦いを続けることになる。この二点は彼のバイタリティの源泉を知る上で重要かもしれない。
個人のハンディキャップと表現行為の情熱とを安易に結びつけることはしたくないが、シンプルな現実問題として、現状に不満のない人間が、多大なコストを払い続けて、しかも評価の枠組みから離脱してまで、表現活動を行うだろうか? 常人では見えない目線でこの社会を生きたとき、意外なまでに生きづらさや嘘が満ちていることに気づくものだ。松葉杖をついたり車いすで通勤することなどを想像してみると分かりやすい。
彼には「美」を巡る大きな「体制」、大人の事情や方便といったものが見え透いていたのかもしれない。「作法」としての生け花には完璧なセオリーがあり、花や葉の向け方、切り出す長さ、高さ、「真・副・体」の型など、全てを守った上で「崩す」世界である。しかしそれが花の持つ命や美しさなのかというと、必ずしもそうではない。 むしろ、見方によっては、花のポテンシャルを抑制し、殺して成り立つ「システム」なのかもしれない。
型、ルールは強く、そして美しい。長年かけて先人たちが模索し発見してきたノウハウを凝縮した体系、つまり正しい文法や方程式のようなものだ。それ抜きに何かを記述しようとすると、破綻したり冗長が過ぎてしまう。表現の世界では特に、型による鍛錬や、系譜の継承が不可欠とされている。完全なオリジナルなど存在しないのだ。
それを分かっていたから、中川幸夫は10年近くも池坊で真っ当な生け花を学んでいた。異端とは初めから外部に居るのではなく、体制の内側から発生するものなのだ。
しかしその結果、このような、チューリップの血肉の塊が生まれることになるとは、誰にも想像できなかっただろう。中川自身ですら、計画的にこんなものを世に送り出したわけではないと思う。根拠はないが、あくまで、「花」や「命」と対峙し、権威や常識と格闘した末に生じた、結果論ではないか。あまりにも、凄まじすぎるからだ。その凄まじさは本物であり、荒木経惟や大野一雄、瀧口修造らを刮目させ、呼び寄せることとなった。
当初、こんなにあれこれ書く積もりはなかったが、映画「華いのち 中川幸夫」を観たことで、認識を改めることになった。変な熱気と言うか、一人のテロリストの生き様に触れてしまったことで、自分の中のプログラムに書き換えが生じてしまったようだ。
体制、権威にモノ申すのは難しく、その枠組みから離れて活動を行うことは、もっと難しい。
評価されないし、一部の界隈で評価されても、食っていけない。映画では、前衛の理解者の間では非常に高い評価をされていても、生計をたてるのには非常に苦労があったことがよく分かった。喫茶店やキャバレーに花を提供し、電車賃を惜しんで家まで歩き、食費を削って花を買うといった、厳しい生活が語られていた。恐ろしかった。
その他、お金がなくて花が買えないので、一本だけ買った花をパートナーの半田と二人で順番に生け、これを「相対生け」と呼んでいた。勤め人の私からは想像の出来ない、恐ろしい暮らしである。
デビューも遅い。37歳で作品集の自費出版、38歳で上京、40歳で東京で初個展。59歳で作品集が高く評価され、平成に入ると徐々に展示回数が増えていくが、その間の経歴のブランクに恐ろしいものを感じる。細かい活動はあったのかもしれないが、世の人が定年退職するぐらいの年齢まで、あまり目立った経歴が年表に書かれていないことを見ると、日々を一体どうやって暮らしていたのか、そして当初の燃えるような表現意欲をどうやって生かし続けたのか、謎である。発狂しそうなものだ。
共に映画を見た友人が指摘したのは、パートナー・半田唄子の存在である。半田もまた、郷里の福岡で、華道の家元であった実家から、前衛いけばなを学ぶために、全てを捨てて関西に出てきた。そして中川幸夫の作品に衝撃を受け、彼を生涯のライバルと見定めたのだった。中川より10歳近く年上の半田は、配偶者となった。最強のライバルが、最も近しい同志となった。中川が売れるようになるより早く、1984年に先立った。
「もし中川幸夫が完全に一人だったら、孤立無援での表現活動は、難しかったと思う」私達の見解は一致していた。逆に言えば、この世界にたった一人でも、強烈な個で結ばれた理解者がいれば、創作活動は可能である。そんな、願いにも似た気持ちから出た言葉だった。
良い映画でした。
ちなみに映画では、アラーキーの存在感が空気をかっさらいます。中川幸夫の展示会場でもこの人がガハガハ笑っているから、誰の展示かよくわからない。この人もたいがい怪物だな。
良い映画でしたよ。皆さんも法令の範囲内でテロリストになりましょう。
( ´ - ` ) 完。