nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.3/15~21「不屈の政治家 安倍晋三写真展~産経新聞カメラマンがとらえた勇姿~ in大阪」@大阪城ホール・城見ホール

昨年2022年11月に東京タワー1階で催された安倍晋三写真展」が、大阪でも開催されていた。職場で新聞をスクラップしていて偶然気付いたのだ。追悼、活動の軌跡を辿る展示・・・会期は1週間しかない。慌てて観に行った。 

【会期】R5.3/15~21

 

安倍晋三の写真展。

写真展のインパクトとしてこれ以上のものがあるだろうか。

なぜこれをわざわざ観に行ったかというと、観ないとだめだという気がしたからだ。だめなのである。トートロジーめいてきたな。人の気持ちなんてそんなもんです。いや観ないとだめなんですよ(狼狽)。

 

何故観ないとだめなのか。

無関心を装うことは、私には出来なかった・・・岸田文雄菅義偉野田佳彦では食指は動かなかっただろう。安倍晋三だから観に行くことにしたのだ。

 

わざわざ断るまでもなく私は別に安倍元首相ファンでもないし自民党ファンでもない。だからといってプラカードを掲げるまでの憎悪を抱いているわけでもない。ただ、旧統一教会の問題によって根深い不信感を抱かざるを得なくなり、以前より更に批判的な距離を置いている。

しかしそうは言っても、安倍晋三という存在は社会現象というか国民感情として無視できないものがあった、批判と共にどこか熱狂と愛着が渦巻いていた。そのことは認めなければならない。2012年12月から2020年9月までの約8年間・3代にわたって続いた長期政権において、強い日本という願望を伴い、安倍晋三という人物は比類なき最大の「権力」アイコンへと成長し、支持されていた。その愛され方、親しまれ方はもはや国民的「政権」アイドルであった。そのことは認めねばならない。

 

政治のアイドル。国家というアイドル。そんな人物の回顧的写真展である。

私が普段見ているのは作家・アーティスト側の表現で、すなわち「権力」や「政治」の下になく、むしろ権力やマジョリティから脱したもの、それらを観察するもの、それらに異議申し立てを行う作品である。万を超えるフォロワーから愛されるインスタグラマーの人気写真とも異なる。美の基準や成り立ち、写真表現自体をメタなところから問い直したり疑ったりするような表現を私は常日頃、好んで観に行っている。

だが(ゆえに)本展示は、真っ向から「権力」に属する写真であり、普段私が観ている「写真」と真逆のポジションにある。

それゆえに、写真のもう一つの本質的な姿を表していると言えよう。

写真というもの自体は、極めて中立的で普遍的なメディアであり、それ自体に善悪はない。誰が使ってもよく、誰でも愛でてよいものである。確かに太平洋戦争での反省は活かさねばならない。だが本質的にはどうだ。むしろ普段の生活においては、強い企業や政治勢力など権力を持った側こそが写真や映像を活用して、自身に有用なイメージやメッセージを流通させており、受け手側も一定の好みの傾向や偏りがある。マスメディア的な、権力的な写真の送り手と受け手の間には、何かしらの強くて太い結び付きがある。当然ながら、私が普段観に行く写真表現とは相容れない部分が多い。

だからこそ、権力側の写真・映像表現を全く見ないで「写真」を語るというのは、大きな片手落ちであると感じてきた。どういう権能を持ち、どういう作用をもたらすのか、どんな層からどのように愛でられているのかを観ておく必要がある。

 

そんなわけで、安倍晋三写真展なのである。素直に「見たかったんです」て言うたらええんちゃうんかという意見もある。まあそう言わんで。こじれてまんのや。物事をシンプルにしてばかりいると太平洋戦争になるんやで。ヘイ。

うわあ笑顔。入口のあたりからなんかもう展開が読めるというか、やばい。礼賛であるか。礼賛なんだろうなあ。あああ。私いったいなにを見に来たんやという動揺がある。あちゃあ。

繰り返しになるが私別に安倍さんそない好きでもないんやけど。いや別に安倍晋三に限らず私は人間全般がそんなには好きでもないので、これが大谷翔平であっても羽生結弦であっても藤井聡太であっても”場にそぐわぬ私”を抱えて会場を回る羽目にはなります。つら。せやねん。つらいんやで。あ、冨永愛やアイナジエンドやシシドカフカなら喜ぶかも知れない。女ばっかりやないか。おほほ。レディ・ガガを出せ!!!!!!

 

入場料が1000円します。

( ´ ¬`)あかん。千円あれば1ッ週間の昼飯がまかなえます(実話)(個人的事情)。やばい。これは気合を入れないとだめだ。

しかしこの日は平日(金曜)の昼下がりだというのに結構な来場者があり、しかも老人だけでなく若い人も30~50代もおり年齢層はわりとバランスがよい。一体どういうことだ。私のように午後休をはめたりしてわざわざ大阪城ホールにまで足を運んだというのか?千円払ってまで??

確かに京橋のオフィスビル街がすぐ傍にあるのと、本町などからも地下鉄ですぐ来れるので、1~2時間休を取って観に来ることは十分可能だ。だからといって千円払ってわざわざ観に来るものなのか??(千円に拘る小物のアカウントはこちらです) 安倍晋三、亡くなってなお恐るべき男である。

2006年、第1次安倍内閣前後の写真がマジ若くてびっくりする。若かったんやあ。当時52歳。40代前半ぐらいに見える写真もある。

 

展示は「選挙」「仲間」「外交」「拉致」「自然災害と復興」「国の守り」「スポーツ」「国民栄誉賞の8テーマと、「秘蔵写真」として安倍氏の傍にいた人物ら(荻生田光一自民党政調会長/当時・官房副長官西村康稔経済産業大臣昭恵夫人など)の提供する写真群から構成される。

また、間にビデオ上映として演説の練習光景、正論大賞贈呈式での受賞者へのメッセージ、朝霞駐屯地の観閲式での訓示などの姿が映し出された。

 

「秘蔵写真」以外は全て産経新聞社カメラマンの撮影であり、要は報道写真である。何なら「秘蔵写真」も公務やセレモニーのワンシーンを切り取ったもので、少し角度と距離感が違うが報道写真の亜種のようなものである。なので「どんな偏った個人崇拝的な写真を見せられるのだろうか」と身構えていたが、新聞・ニュース等で見慣れたフォーマットの写真ばかりで、杞憂に終わった。

 

それゆえに痛感したのは「総理大臣」という職務・職責の凄さである。どこをどう切り取っても仕事しかない。プライベートが存在しない。乗り物での移動中や結婚式その他のセレモニーも要は公務の一部である。全部公務だ。

仕事の幅もべらぼうに広い。選挙活動、予算・法案の策定、国会答弁、外交あたりのイメージが強いが、外交一つとっても「日本」の顔として他国の要人と接しなければならない。それだけでも多忙なのに国防や自然災害の被災地で飛び回っている。仕事仕事仕事のオンパレード。安倍晋三」という個人の功績が凄かったことの振り返りであるとともに、「総理大臣の仕事内容」を具体的に可視化した展示でもあった。そのへんはさすが報道写真なのでフラットに見ることができた。

痛感したのは、この職務・職責を真正面から果たせる人間というのは、内閣総理大臣というのは超人的であるということだった。責任は重いわ、行動範囲が地球規模だわ、地方も中枢も諸外国も、庶民も政敵も身内も各国首脳も相手にして、うまいこと相手を立てながら、言うべきことは言って立ち回らないといけないわ、超人である。何を食べて育ってきたらそんな気力・体力が得られるのか見当皆目つかない。まむしとか食ってたんですかね。私など職場で問い合わせの電話とメール3~4本受けただけでテンパってだめです。あかん。残業や(雑魚)。仮に「月1億円やるから来月から総理大臣やってくれ」と依頼されても絶対にやりたくない。総理大臣の年収は4千万円超らしいが、常人には全く割に合わない職業である。あかん。

私など(しつこい)、展示を観に東京に行って帰ってくるだけでぺろんぺろんに疲れて倒れているし、何なら家でブログ記事を書いているだけでもぺろんぺろんである。書いてなくてもぺろんぺろんである。生産性と影響力は総理大臣のはたらきの1億分の1ぐらいである。写真を観ていてそういうことをやね。思ったわけだ。嗚呼(遠い目をする)。安倍氏のごとき仕事を果たせる人間というのは一体どうなっているのだろうか。むり。超人である。あと私は自己肯定感をもう少し高めた方が良いと思った。はい。佐川急便かゼリア製薬かアルプス技研に研修を受けに行くべきでしょうか。いやどす。来世の宿題にします。

モリカケなど色々と問題は多かったが、というか問題がありすぎてインガオホー的に山上ショットが炸裂したとも言えるのだが、では直ちに全ての活動成果を否定できるかというと、そう単純な話ではないことは理解できた。総理大臣がコケたら諸外国との付き合いもコケる、するとパワーバランスが崩れて良いように使われたり出し抜かれたりするのだということが想像できた。総理大臣という職の人が「日本」の社長として「世界」の経営ゲームで戦っているのだった。

 

だんだん中学生の社会科レポートみたいになってきた。肝心の写真について言及すべきなのだが、いかんせん新聞の写真なのであまり突っ込むところがない。「美化されている」「美しすぎる」と言えばそうなのだろうが、政治や外交、国家の経営というのはえてしてそういう世界で、大人のゲーム、イメージの駆け引き戦争であるから、美化のたぐいは織り込み済みと見なすべきだろう。

展示の写真は「皇室アルバム」と双璧を成すぐらい360度公務である。公務 × 報道であるから、言うまでもなくブレッソンやR・フランクのような純粋な写真的面白さ、即興的な予測不可能さ、破調などとは別の次元の写真である。

面白がるポイントがあるとすれば結局、中学生の社会科・公民の授業の延長上というか、「内閣総理大臣のしごと」「国のやくわり」の言葉やイメージの中身を埋め合わせるものとして写真が機能するところだろう。

 

途中に観客撮影用パネルがあり、各国要人らと安倍氏と共に写れるとあって、人気を博していた。

世界経営ゲームの卓である。

強いて挙げるなら、この親しみに満ちた笑顔の場はやばい。私は腹筋に力を入れた。極めて有能な政治家や経営者らは、必ずこちらを蕩けさせてノーガードにし、心を掴んでくる。映画『東京2020オリンピック SIDE:A・B』に映された森喜朗とバッハ会長がそうだった。あの映画で学習したものだ。射程距離内に入ると笑顔と人懐っこさでいつの間にか心理的距離をゼロまで詰められていて、懐柔されてしまうのだと。たとえ映画や写真であってもその力が及ぶのだ。安倍晋三もその類の傑物であることが、写真に写された雰囲気と、会場を熱心に観て回る観客らから見てとれた。

この展示はプロパガンダとまでは言わなくとも、安倍氏の功績や精神への敬意と思慕を通じて、それらを継承する政府=自民党を全肯定し、国民と親密に心を通わせる場――自民党のマインドのど真ん中へ接続する場となっていたことは言うまでもない。実際、来場者らは真剣に1枚1枚のパネルを鑑賞し、親しい人、大切な人を想う表情で記念写真を撮っていた。エモーショナルな場である。

繰り返しになるが、当方にはあまり安倍氏に思い入れはないし、プラカードを掲げて非難するほどの敵意もなく、今後も自民党の公認を得て選挙に打って出ようなどという野心もなく、マジでなんかすいませんという感じで観て回っていた。ただ安倍氏の最期はあまりに無茶苦茶だったので残念ではあった。それもこれも自民党と旧統一教会との根深い付き合いの産んだ闇、そのツケを一身に負う形になったわけだが・・・いや、その話は一旦ナシにしよう。

 

個人的に面白かったのは「秘蔵写真」コーナー安倍氏の傍にいた人物らが私的に撮った写真の公開である。報道陣の及ばない私的な位置と距離感から撮っているのだが、表現者でもない同じ政治関係者が公務、公務のさ中に撮ったものなので、意外性はなく、「少々画質のよくない報道写真」と呼ぶべきフォームと質を備えていた。中にはもっと、公的には見せられないような面白い・型を脱した、権威の脇腹を突くようなカットもあったのかも知れないが、ここでは公務/報道写真のバリエーションとしての指摘写真が披露されていた。

私的な場でも政治家がぞろぞろ集まっている。ベンチャーの社長が24時間365日仕事のことしか考えてないのと同じで、この人達はいつでもどこでも政治をしている、政治家なのだということが分かる。なのでプライベートは政治を語る場であり、プライベート写真も政治の場となり、報道写真の亜種になってしまうのだ。なんという言語世界か。

 

観終えて何だか疲れてしまった。内閣総理大臣」という社長業の凄さ、対・国民、対・諸外国に全方位的に接する究極のサービス業としての多彩さ・多忙さを目の当たりにし、いちいち我が事として想像してみた時に、1ミリも真似できません到底不可能でございますという実感に襲われ、ぜーぜーしたのであった。また、どの写真も写真的面白さとは別の次元――「政治家の言葉」に呼応するフォーマットで撮られ、完結していて、ぜーぜーしたのであった。

 

 

( ´ - ` ) 完。