nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】R4.12/3~11 高橋大雅「不在の中の不在」@建仁寺塔頭両足院、HOSOO GALLERY

デザイナー/現代美術家・高橋大雅(タイガ・タカハシ)の「初の個展」。2022年4月9日に当の本人は亡くなっている(享年27歳!)が、本人「不在」を感じさせない存在感があった。高橋大雅という存在を1ミリも知らなかった筆者が手探りでレポする。

 

【会期】R4.12/3~12/11(両足院)、R4.12/3~R5.3/12(HOSOO GALLERY)

 

 

現代美術の世界というよりファッション界の方での著名人だったらしい。京都での展示情報を調べていたら「高橋大雅」という未知の名前にやたら出くわした。かなり注目すべき存在のようだ。と思ったら故人であった。合掌。

 

展示は3会場同時展開で、建仁寺塔頭両足院の「不在のなかの不在」(R4.12/3-11)、総合芸術空間「T.T」の「時をうつす鏡」(R4.12/3-11)、HOSOO GALLERYの「Texture from Textile vol.2 時間の衣―高橋大雅ヴィンテージ・コレクション」(R4.12/3-R5.3/12)から構成される。

このうち今回、両足院とHOSOO GALLERYの2つを観に行った。

なぜ「T.T」を飛ばしたかというと、完全に忘れていたというか、両足院の和の空間とHOSOO GALLERYで吊り下げられたジーンズのビジュアルがインパクト大だったからだ。ばえる写真によわい私。幸いにというか「T.T」は常設のショップなので、今回のインスタレーションを抜きにしても、会期後であっても高橋プロデュースの空間と高橋作品は鑑賞できるだろう(言い訳)。

www.fashionsnap.com

 

「T.T」はまた行きます。泣いてる顔に見えてかわいい。

 

 

建仁寺塔頭両足院(室内)「不在の中の不在」

「入場無料だというのに行き止まりだらけではないか」、白い布を掛けた板は奥ゆかしい立ち入り禁止の札めいていて、これはどこに行けばよいのかと畳の上でウロウロしていたが、これが作品だった。《陰翳礼賛》、布に見えたのは石膏である。

 

なぜ布に模した作品が?

高橋がモチーフにし、魅せられていたのが布のドレープだったという。

 

まだ芸術(ファインアート)という概念が誕生する以前、古代ギリシャ彫刻、ルネッサンス期のミケランジェロ作品、日本の仏像など、異なる時代背景や土地で作り出されたにも関わらず、いずれも美の共通認識として、布のドレープが描かれていると気付いた。

(コンセプト文より)

(一番上の金色の作品名は《天衣無縫》

素通り出来ないものがあった。確かにファインアートにしては漠然とした、自然条件にも似た、人の手を介した制作物である。重力と肢体が布に起こした、自然と人為の折り重なる姿形。「ドレープ」、服飾、布というテーマを知って納得させられた。

アート、美術、石膏―彫刻という観点からこれらに接するときと、逆に「衣服」のドレ-プとして見るときとで受ける感触、連想するものは異なるようだ。前者から行くと「自然」物と人工の手仕事との融合体に見えるが、後者から行くとこの平面作品は「衣服」の彫刻化、結晶化したものに見える。

 

私はすっきりした衣服を好むので、ドレープを主デザインとして用いた衣服を着用したことがなく、それがここ現場での体験に偏りを生じさせ、「衣服」として見る視座を持つことがなかった。じゃあなぜ今唐突にと言うと、「ドレープ 衣服」でGoogle大先生に画像をお尋ねしたら色々納得したためだ。

 

 

《天衣無縫》は鏡面の台の上に置かれたガラス作品で、畳に4枚並んでいる。

《陰翳礼賛》のドレープとまた違った趣、湖面に張った氷のような表情を浮かべている。さきの《陰翳礼賛》が重力の襞なら、この《天衣無縫》は水・氷の波か。現代美術の面と、自然に模した無銘の作品という面があるように感じる。眺めていて、誰の作品なのかを感じなかった。その意味ではファッションであり禅なのかもしれない。吉岡徳仁の作品とは透明感や自然観において、似ているようで作家性・名称性において根本的に異なる気がする。

 

あまり近付いて覗き込むと作品に蹴躓いて転びそうなのと、自分の顔が鏡面に映るので、庭園を背景にしながら観るのが良い。だが離れすぎるとドレープの襞が見えなくなって白い板になってしまうので角度調整をしましょう。庭の紅葉がきれいでした。

 

 

回廊を伝って隣の大部屋に行くと、引っ越し直後の部屋のように、がらんとした空間に数点の作品が置かれている。

引っ越し感がある。うちの家をいいふうに言うと(だいぶいいふうに言うと)、現状こういう感じで畳とふすまと少量のモノだけがあり、親近感がわきます。無論こんなばかでかい家などではない。おっ 

あれ、

あの木片みたいなものは何だ。祈る僧に見える。すいません僧ですか。

 

 

木片なのであった。だが使い込まれた円熟みのある丸みが、ただの木片ではないことを物語っている。あっこれお寺のパーツですかね。

 

∴ お寺のパーツ。

 

当麻寺(612年建立)創建当時の木造残片》である。

 

www.taimadera.or.jp

 

いやそんな・・・ 寺レベルが高すぎる( ´ ¬`)

どういう経済原理が働いているのか分からないが、これは高橋の個人コレクションである。うそやん。本展示で一番驚いたのがそこ。なんでも10代の頃からヴィンテージ衣類やら骨董品を収集していたというのだが、地元の小さな自社で取り壊された鳥居や建物の欠片を貰うのと、千年以上昔の寺の欠片を持っているのとは話がだいぶ違う。財力が。いや。財力だけでも足りない・・・政治力なのか、なんだ、生まれ落ちた星がそもそも違うのだろうか? 幼少期からハンター試験にでも受かっていた人物ぐらい違う。

 

配布された展示冊子によると、高橋大雅のテーマとして「応用考古学」と独自に名付けた思想がある。「過去の遺物を蘇らせて未来の考古物を発掘する」、要は古来からの伝統の工芸、時間経過による偶然性などをひっくるめた不完全性によって生まれる「美」を探求する姿勢である。

過去の文化や伝統を顧みて「美」を掴みましょう、というのは、「理論や思いとしては分かるけれども、(いやいやわかってますがな、)」というのが定番なのだが、高橋大雅は1910年代の服飾や古美術などを実際に多数コレクションしており、実行と集積があるため半端ない説得力がある。若くして並みならぬ審美眼と財力を行使してコレクションをやるというのは、超絶技巧や奇想奇才を発揮し作品を制作するのと同じかそれ以上に、超人的な行いである。だってお金ないもん普通(怒り)(戸惑い)(嘆き)(戸惑い)。歴史的な木片を買う金あったら単焦点1本増やしてますて。実家が太いにしては太すぎる。謎である。

 

すごい高級なかつおぶしみたいなのが展示されている。もうあまりの経済格差や出自の差を目の当たりにして脱力しているため、かつおぶしにしか見えていないが、気持ちを持ち直して冊子を確認する。

《本展の作品の出発点となった秋篠寺(776年建立) 伝救脱菩薩像の衣紋(高橋大雅所蔵)》とある。これまで見てきた「ドレープ」の着想源であり象徴となるものだ。西洋東洋の別を問わず、古代の衣服や神々しき存在に用いられてきた「美」の形である。

 

冊子にはこうある。

今作品の出発点は、秋篠寺(宝亀5年(776年)建立)に安置されていた太白天という仏像の遺品を高橋が購入したことに始まる。高橋が入手した伝救脱菩薩立像(729~749年)の衣服の断片は、以前は収集家として知られる無量亭虎三郎、後に古美術商の川瀬洋三が所有していたことが知られている。

 

うわあちゃんとした由来のやつ。由来のちゃんとしたものであることが改めて分かった。やばい。

資産家の爺が趣味で買ったんちゃいますよ、何歳で買ったか分かりませんけど、なぜ菩薩像の衣の一部を若き個人が所蔵しているのか、選ばれし者の持つ力とは具体的にどういうことなのかを思い知って痺れていたわけですが、落ち着けこれがドレープだ。かつおぶしではない。つみたてNISAぶっこもうかなあ。いや。

 

 

建仁寺塔頭両足院(庭園、茶室)

室内をあらかた見たので、いちど受付カウンターに戻り、お履物をめして庭園のほうを回りましょうね。いいお庭ですからね。作品があります。

 

《時間の天衣》、係員に言われるまで気付かなかったし、言われても何秒も「え・・・?」「あります?」と気付かなかった作品。玄武岩。みごとに溶け込んでいる。両足院で展開することを初めから想定された作品群であるように思われた。「今回展示される作品の数々は、両足院のために特別に制作されたものである。」いやマジですか。マジだからこうなってんよな。アーティストの初の個展が建仁寺の両足院ていう想定おかしくない?? 超人ですか??? 嗚呼。選ばれし者は実在したのか。よよよ(ハンケチを噛む音 

 

お庭を歩いて正面から出くわすと、彫刻として姿を現すのであった。先に和室のかつおぶし、こと「秋篠寺の菩薩像の衣紋」で「ドレープ」の美の原型を見ておくと、これらの像が何を言わんとしているかが分かる。原初、太古のモチーフを繰り返し、今の手と素材で作り上げることで、「美」に迫ってゆくのである。美とは何か。何なんでしょうね。毎日考えてますけどわかりませんね。手強い。仕事が手につかない。つけや。ぜんぶ美のせいだ。

 

はなれの茶室にも《陰翳礼賛》プロトタイプがある。にじり口から覗き見ます。

 

 

これで両足院は終了。紅葉がきれいでした。作品が色々と配置されていながら、和の空間や緑や紅葉に目が行っていたので(そうは見えない文章でしたが)、良い展示だったように思います。

 

 

◆HOSOO GALLERY「Texture from Textile vol.2 時間の衣―高橋大雅ヴィンテージ・コレクション」

場所は地下鉄の烏丸御池に移動、「HOSOO」の旗艦店舗である「HOSOO FLAGSHIP STORE」2Fのギャラリーに向かう。Twitter等で、ジーンズたちが宙に吊り下げられ、黒い床にその姿が反射している写真が掲載されていて、かっこよくて痺れたのだ。近未来感に弱い。

 

行ってみたら想像以上に衣服のコレクション展だった。

 

 

( ´ - ` )

 

服・・・・・・。

 

 

服です・・・・・・・。

 

 

登山系アウトドア着で身を固めすぎて早10年、ヴィンテージ衣服の良さや意義が全く分からない人間になってしまいました。これは価値が全く分かりません。困った。大人になったら分かるかなと思っていたのに、大人になっても老人になっても分からないことはたくさんあります。

冊子や他サイトでの紹介・解説を読んだところ、「高橋大雅は10代の頃から1900年代の服飾などを収集し、当時の布地や縫製を研究して100年後にも生き残る服作りを目指している」という。

 

100年。

 

 

( ´ - ` ) そんな先のこと考えたことあらへんぞ。

刹那的に通勤電車に乗って寝たり起きたりの日々をミニマルに繰り返している社会人(会社人)には持ちえないスコープである。

いや人によりますわね。100年後にバトンを渡すための仕事をしている人たちも沢山いる。酒の場でそんなん言われたら泣いちゃいますが。泣かないように100年前を見ることで、100年先を見るための眼を鍛えようと思います。高橋大雅と言うてることが一緒になってきた。

歴史を振り返る・研究するというのは、視線・視座の射程距離を伸ばし、見る単位を伸ばすということに繋がるわけです。哲学のフレームを獲得・搭載するということです。ジーンズを見ててもそこまで思わなかったですが、冊子を読みながらこうしてブログを書いていて「ああそうか、あの高級古着店みたいな空間は100年前と100年後を繋ぐ場だったんだ」と納得するに至りました。自分の言葉で考えによって出来事や状況を書くというのは、考えの咀嚼・消化・摂取に繋がるようです。ジーンズ寒いから冬は履きたくない。はい。

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何だかんだで面白かったですね。何でも面白がる人間なので参考にならないでしょうけれども、なんか若くして桁違いに審美眼や行動力や経済力がすごい人がいたことが知れてよかった。桁違いの人間を知っておくことは重要です。生きる希望とか指針になりうるからです。

 

 

( ´ - ` ) 完。