nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【ART】R4.6/3~8/21 ブライアン・イーノ「BRIAN ENO AMBIENT KYOTO」@京都中央信用金庫 旧厚生センター

音の空間だったよ~( ´ - ` )

 

※筆者はアンビエント音楽を語る語彙と知識がないため、今回は異常に薄いレポートになります。

【会期】R4.6/3~8/21

 

電子音楽とかアンビエント音楽絡みで名前だけ知ってたけど、全然聴いたことがなかったブライアン・イーノ。京都で大規模な展示が催されたということで話題になり、しかし入場料2千円とまあまあ結構な額だし、アンビエント聴かないしでスルー気分だったが、知人から誘いがあったので行ってきました。

 

京都中央信金の建物。2021年秋に「KYOTOGRAPHIE」サテライト展示イベント「KG+SQUARE」が催された会場ですね。あれは楽しかった。

 

さて今回はイーノ色に染められ、レトロな建物空間が全く別物となっていて、また新たな体験となったのであった。

 

 

1.アンビエント、イーノ、なにそれ。

会場内は「写真・動画撮影はフラッシュ、シャッター音禁止」(配布されたミニ冊子の注意事項)とのことで、「禁止」に係る主語がよく分からなくて、勝手に「動画撮影禁止」と思い込んでいたが、音が出なければ動画もOKだったかもしれない。

なんせ展示が「音」(音楽)と移ろいゆく光や映像で、しかも形がないものだから、現地で「どんな展示だったか」を記録したり、後から語る術を持つことができない。楽譜と混ざり合ったような、音や音楽に特化した記述法があればいいのだが、そんな技はない。

 

しかもアンビエントは私の苦手分野の一つ、ビートがないんで捉えようがない。部屋の壁紙みたいに、なんとなく聞き流して放置しとくには良いが(「環境音楽」なのでそれで大正解なのだが)、「作品」として向き合うとなると、やばい。

 

アンビエント音楽ってなんやねん、という私の素朴な問いに答えてくれるページがあった。エイフェックスツインも入るのか。

tower.jp

1970年代に電子音楽の分野で実験が進み、鑑賞のありようを変化させるものとして「環境音楽」、アンビエント音楽がブライアン・イーノによって提唱されたという。昔って「主張のない音が何となく流れてるだけの音楽」(ひでえ言い方、)って無かったんですかね。人力で演奏してた時代はこういうの無いのかな。

 

しかしこんな音楽どう書いたらいいのか。記号がないから記憶すらできない。視覚芸術の鑑賞・読解にスペック振り過ぎて、聴覚のほうはバカ丸出しでした。電話とか会議って聴いてメモとるだけで全リソース使うから無理なんすよ。ああっ。

 

 ( ^ー^) 解釈放棄します。

 

なお、DOMMUNEで思いっきり本展示について語る特集回があり、合間にイーノ音楽をばんばん流してくれているので、ブライアン・イーノとはどういう立ち位置の存在なのか、どんな音楽やねんといったことは、これ聞いて理解を深めてください。8時間ありますけど。なに、1日の1/3程度です。

www.youtube.com

 

じゃぁ現場レポしましょうね。

 

 

◆《The Lighthouse》

作品鑑賞の順路は、3階まで階段で上がってメイン作品《The Ship》と《Face to Face》を鑑賞した後、2階の《Light Boxes》を観て、1階へ降りて《77 Million Paintings》を観て終了。

 

スタイリッシュな空間になってましたね。

 

こうした廊下や階段、化粧室などの空間や、作品《Face to Face》《Light Boxes》の展示室で流れている音楽、それがこの《The Lighthouse》なんですって。

 

amass.jp

 

( ´ ¬`) ←気付いてなかった人

 

解説にはなかったが、上記リンクのとおり《The Lighthouse》は

 

 

いやこっちがこの作品やと思ってましてん。

 

盆栽と石(水石っていうんですかねこれ)が2階と3階の踊り場、4階に続く階段の客止めに配されており、予想外の展開に「?」。これが作品なのかと思っていた。ちがうんかい。そうかい。

 

だがアンビエント音楽を聴いていると、始まりも終わりもストーリーもなく、つまり起承転結や、何者かとの主従関係や、何なら主語・主格なども無い感じは、「和」の感覚・世界の在り様と近いものもあるのではないか、とも思うようになった。勿論ここが「京都」であることを分かりやすく意識した西欧的なコラボだと捉えるのが自然かも知れない。

なんせ、自分で端末やWeb画面を操作して曲を「再生」するのと違って、展示では、空間に既に流れている――始まりも終わりもないアンビエントの中へと身をどぼんと浸して沈めにいくことになる。よく聴いてて知ってる曲ならいざ知らず、そうでなければ前後左右も、ストーリーもなく、全ては水の中のように。ああ。

 

改めて見たらこれすごく京都っぽいなあ。お寺の「これ以上進んではいけません」結界の石。

 

 

◆3F《The Ship》

真っ暗な部屋に、青白く浮かぶスピーカー。入ってすぐの正面と部屋の隅、壁際にスピーカー。青白いのはスピーカー。彫刻作品か、映像でも投影しているのかと思ったが、スピーカー。青白いので気分は海中。沈んだ時の中。

 

部屋の真ん中に四角い椅子があって、鑑賞者が座って音に浸る。

会場が暗すぎて入ってすぐわけが分からなくなり、座っている人にぶち当たる。ドガァ。破壊。破ンビエント。すんませんすんません。

 

流れている曲には以下のような解説が付されていた。

タイタニック号の沈没、第一次世界大戦、そして傲慢さとパラノイアの間を揺れ動き続ける人間をコンセプトの出発点とした作品。音楽、インスタレーション、そして作曲という彼の仕事の主な3つの側面が集約されている。

 

( ´ ¬`) うそやん。

 

確かに真っ暗な中で青く光ってるし、深く沈むようなボーカルがわああんわあああんと響いているから、沈んでるしタイタニックかなと思った。どぅーんどぅーんどぅーんどぅーん。

 

いかに YouTube等で客観的に、一曲一曲の全体像を把握した上で、しかも突き放して聴いていると「形」が分かるが、四方八方から音が「響き」として満ちている空間でこれを聴くと、「音楽」という感じすらしなかった。ものの尺度としての時間と、ものの相対視をもたらす光の無くなった「空間」ばかりがあった。スピーカーに囲まれて全身で聴いていると、音楽という「形」は把握できなくなる。

 

コンセプトの「タイタニックうんぬん」というのは、歌詞のことか。英語わからんのです~。残念。しかしボーカルが坊さんの読経みたいだったりして、歌というよりも言葉そのものを詠じていて、意味を離れた響きになっていく。意味から解き放たれた世界があったとしたらそれは何だろうか。

 

これは五体を忘れるべく意識の焦点を手放して、可能な限り電子的な禅をやるべきです。独りで行ったり各自勝手に行動できる仲の人と行くと吉かもしれません。波… 時間… 我… 

 

 

◆3F《Face to Face》

3つの顔が延々と変わり続ける映像作品である。解説には『実在する21人の人物の顔をそれぞれ1枚の静止画に収めた小さな写真群から始まった』とあり、ある人物から次の人物への変形がシームレスかつじっくりと進むため、どの時点の顔もゴールとしての固定された「個人」にはならない/変化する全ての過程・瞬間がある別々の「個人」を指すことになる。

 

この4枚の写真は、上2枚は1分以内、後はそれぞれ1分+α後の「顔」の様子だ。同じ経過時間でも、あまり変わらない顔と、急激に変貌する顔がある。

変化のアルゴリズムは不明だが、21人の実在人物の顔を拠り所とし、その順序がランダムだとすれば、次の変化先が現在からかけ離れた特徴の顔であるか、わりと近い顔であるかで変化の度合いは異なるだろう。個人Aから個人Bへの変化時間すらランダムだった場合は、それこそ無限に「顔」が生成されることになる。というのも、同じ個人Aから個人Bへの変貌であっても、見えるもの・見え方が全く変わるからだ。

変化のスピードが遅いとそもそも「変化している」ことに気付かず、認識・同定したある時点での顔を基本として見てしまい、別のところへ意識をやってまた意識を戻した時に別物になっていると気付く(=ハッとするまでの「顔」は同一人物と見なしている)ことになる。逆に、時折やたら変化が速い時があったが、特徴の離れた顔へ短時間で移行するため、急激に髭が生えたり、眼鏡の輪郭が浮かび上がる、おでこに線が入って毛髪が増えたり減ったりするなどの動きがあった。この場合は「移行中」となり、同定されるべきある「個人」は保留中という感じだった。

 

最も大きな変化、落差を覚えたのが「若い女性」と「年老いた男性」のように、「年齢」と「性別」という2軸における対極への移行だ。ことに皴と髭は大きな視覚的変化をもたらした。この時、交わるはずのない特徴を併せ持つ「顔」が生成され、実に不思議な、現実離れした存在と見つめ合うことになった。

アンビエント音楽、エレクトロニカの「攻め」た部分の片鱗か。穏やかに流れ、移ろいゆきながら、急激に、時に異様な表情をもたらす音楽…。

 

これに更に「人種」の軸による変数もあろうが、サンプルの顔写真ではさほど人種的な種類の幅はなかった。

データの蓄積と学習によって人の「顔」の画像データを変形する、架空の肖像を生み出すというのは、写真でも珍しくない手法で、お馴染みですらある。違いは、こちらでは生成し続ける動態そのものがテーマであることだ。しかしうまくバランスが出来ていて、老人、おっさんの顔が3体並んでずっと続くということはなく、女性がばんばん入ってくる、これにより何か昂るものがもたらされている。それが無ければ死の世界だ。色味のない、凹凸のない、ともすれば青白い、動きのない人物の顔写真…デジタルデスマスクだ。そこに「女性」が混入してくる、すると明らかに性、生命力が宿る。エロスとは何か? なぜ老人やおっさんはデスマスクなのか? そこは「写真」とは異なる気がする。(写真家の撮る、様々な尊厳や背景を含めたポートレイト等とは違うものを指す)

 

 

◆2F《Light Boxes》

薄暗い部屋を色の光が満たしている。3点の平らなライトボックスが色の光を放ち、色は移り変わっていく。ボックスは四角形の組み合わせから成り、抽象絵画に似ている。

 

色がじわじわ変わっていくんすよ。

光がはっきりしていて、図形の仕切りが分かりやすい分、あまり「抽象絵画」との関連は感じなかった。視覚的には明瞭で具体的だったので、マーク・ロスコカジミール・マレーヴィチと同じものを感じるか? これはやや難しい問題で、今後の宿題にします。

だがこれを「光るボックス」ではなく、室内に流れる音楽と色の移ろいとして、変化し続ける体感として捉えたとき、その体感とは一体何か? といえば、喜怒哀楽や快・不快などに分類できないもの――抽象的、としか言えないかもしれない。目が色の光に満たされるとき、精神に何が起きているのか? 何かがあるからじっとその場にいたのだった。意識の矛先を向けてもとどめようのないところにいて…

 

抽象とは何か? これは宿題にします。宿題多いな。

 

 

◆ラウンジ

ラウンジは休むところって感じで、ちょろっと中覗いてくるっと出てきてもうたんでもう覚えてない。音が流れてましたよ。酒は置いてなかった。夜の部とかで踊らないclub化したら面白そうですね。現世をかなぐり捨てるように、こう。ははは。

 

 

◆1F《77 Million Paintings》

トリを飾るにふさわしい作品/空間。暗くて広い部屋の中を 1人1シートで係員に案内されて深々と着席、まったりと鑑賞。教会のステンドグラスのような液晶モニター13枚の列が、正面に大きく掲げられている。それは卍型のように右巻きの渦を成し、刻々と色と模様を変えていく。時の流れ、季節の移ろいの真っ只中に立っているように、変わってゆく。

 

音・光・像が人の手を介さずに生まれ続け、変化し続ける。

 

本作の初出は2006年3月「ラフォーレミュージアム原宿」で、同年発売された同名のCDは、PC上でイーノが手掛けた写真や絵画などの作品映像がランダムに映し出されて移り変わってゆき、同時に音楽もいくつかのレイヤーをランダムに配合、つまり毎回異なる音と映像が生成されるという代物だったそうな。

 

www.youtube.com

 

展示はまさに次々に絵柄が移り変わり、「これは一周するとかそういうものではない、ずっと未知の絵が作られ続けるのだ」と実感。終わりがない。

やはり動画・映像というと「終わり」と「始まり」のループ構造を前提にして見てしまう。ここに「絵画」「彫刻」などと「動画」「映像」との決定的な認識の違いがあり、後者はまだまだ「始まり」から「終わり」へと向かう一方通行の放たれた矢にすぎず、基本的にはその矢の発射をループさせているにすぎないとも言える。本作はその構造を覆すものだ。

また映像といっても、1枚のスクリーンやモニターを介して映し出されたものの中身を見るのと話が違い、ここでは中央1枚+3枚組パーツの上下左右4セットというパターンの組み合わせを見ることになる。モザイク画に近い。つまり《Face to Face》や《Light Boxes》と同様、サビの無い音楽のように、その映像には個としての定まった形やクライマックスが存在しない。指し示しようもなく、全瞬間が「その」作品である。

 

12分ほどの間に撮った写真だが本当にどんどん変わっていく。見ている間は「あ~ 変わっていく? 気がするな~」「線が増えてきたな~」と、意識と記憶が明瞭なつもりでいるが、振り返ってみればこんな体験をしていたという自覚がない。夢やトリップのようだ。意識を離れて自動的に動き出す脳の、瞑想的迷走というか、そう非ブツ理的トリップの脳裏模様。「意識」の一部を取り出してシャーレやビーカーに入れておいたらこういう集合と分散のネットワークで自律的に動き出すのだろうか。

 

本作の名称「77 Million Paintings」は、7700万通りの映像の重なりを生成することを意味している。誰がどういう単位で数えたのか知らないが、7万でも7700万でも構わない。数が大きいというのは良いことだ。仏教なんて数の世界だ。自我や個体は巨大な数の深遠へと拡散し「無」と成る。だがここには千差万別の色と形が「有」る。有機的な、人(イーノ)の手による痕跡を伴った色と形である。一体これは。

 

( ´ - ` ) 何だ。

 

 

だからこれは《The Ship》と《77 Million Paintings》で1時間ずつ耽溺、瞑想、没入するべきですね。ただし心身のコンディションをハイ気味に持っていってないと寝落ちする可能性大。速攻で落ちていびきをかいている方がいました。それはそれで正解かもしれないが、さすがに寝てしまった人に幻覚を見せるまでの力はないので注意が必要です。寝落ちして初めて知覚できる音楽・映像とか誰か作ってほしいな。そこは人類の宿題にします。

 

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はい。1時間半ぐらいいた気がします。面白かった? かよくわかりませんが、人と来ていなかったら鑑賞方法・滞在時間はまた変わったかも知れません。

 

ここまで書いておいて、〆に人様の書いた記事を勧めるというのもなかなか気が狂ってますが、この「建築とアートを巡る」サイトさんは曲や建物、演出について詳しく書いていて参考になります。

www.artarchi-japan.art 

 

よいアンビエントを。

 

( ´ - ` ) 完。