nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.2/11_ビジュアルアーツ専門学校大阪・写真学科 @ビジュアルアーツギャラリー、ニコンプラザ大阪 THE GALLERY

ビジュアルアーツ専門学校大阪・写真学科のゼミ別成果発表展(写真作家選考展)と選抜作品展が、それぞれ、「ビジュアルアーツギャラリー」(梅田・堂島)と「ニコンプラザ大阪 THE GALLERY」(心斎橋)で開催された。それぞれで気になった作品をレポです。

 

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【会期】・ビジュアルアーツギャラリー_2021.2/7(土)~2/11(木)

 ・ニコンプラザ大阪_2021.2/11(木)~2/17(水)

 

全部書いてたらしぬので。。

皆さん若いので若さがありました。バランス感覚もいい。

 

 

 

1.@ビジュアルアーツギャラリー・大阪

ビジュアルアーツ専門学校1Fに併設されたギャラリーでは「写真学科・成果発表展」として「写真作家・選考展」が催され、計16名が出展。けっこう広いホワイトキューブで、真ん中に机を置いてポートフォリオを展開していた。人が少なくてゆっくり見ることができた。ありがたや。

 

全体として、スナップ写真、作者の心身に密接した光景、田舎・家族、親愛なる人の肖像などが特集されていた。やはりビジュアルアーツと言えば街に出てのスナップ写真だ。毎年見ているが、路上スナップ文化が受け継がれている。

なお、モノクロ写真も多く見られたが、モノクロならではの不利を実感してしまった。コンテンポラリーな時代感が見失われるだけでなく、先行世代の偉業とどうしても比較してしまい(銀塩時代の写真家は、鬼のように美しいプリントを作っており、マジで鬼です…)、評価すべきでないところだと思いつつもそこで決定的に評価してしまうのを避けられなかった。 

 

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◆森下颯太『シールドステイツ』

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タイトルの意味は不明で、造語のようだが調べても出てこない。「シールド」というのは新型コロナ禍でマスク着用など、防衛に回った社会を指すのだろうか。写真には「新しい生活様式」以降の、街の人々の様子が写っている。

積極的に街中で人間に向けてシャッターを切っている、しかも人物は正面が多く、このややこしく繊細な時代によくやれるものだと感心した。場所を選ばず果敢に撮る行為は今後も(できれば一生)続けてほしい。

一方で、一枚一枚に写り込んでいる人物や周囲・背景の情報は多いはずなのに、情報の密度というか濃さが感じられない。あっさりしている。人物を主題に撮ることが優先され過ぎているためだろうか。スナップの幅というか、もっとノイズを許し、コントロールの効かない領域へと突っ込んでみると、意味は更に膨らむだろう。

 

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◆宮越大記『人馬風趣』

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競馬場にて来場者らを撮るという、ありそうでなかった作品だ。既に誰かがやっているかもしれないが、著名人の事例は今のところ知らない。ギャンブルはデリケートな部分なので、撮ること自体が難しい場所でもある。

学生によるスナップ撮影を可能にしたのは、競馬場という場の変質ゆえだろう。集客のために90年代頃からファミリーや女性にも安心して来てもらえるよう、後ろめたい陰や欲望をぬぐい、健全な公共の場として生まれ変わっていった。賭けなくても楽しい、レジャースポットとしての性質を帯びるようになった。本作にはそんな競馬場の時間が写されている。 

モノクロの風味によって昔の光景かと騙されそうになるが、マスク姿の人々や間隔を開けた椅子などから、直近の新型コロナ禍での競馬場であることに気付く。人々はパンデミック中でも、流行の合間を縫って競馬場を訪れてそれぞれに息抜きをし、癒しを得ていたことが分かった。これは知らなかった。非常時にこそ出る素の欲望や生理を思いがけないスポットで捉えていることが面白かった。

 

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◆三田和佳『記憶の輪郭』

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身の回りや身体のイメージを多数配して、まとまりのある流れを形成している。一見すると抽象的なようだが個々の写真は構成が具体的で、緩いものではない。全体として、壁の中央には額装された写真が斜めに列を成し、秩序を与えている。

構成の力があるからイメージが散逸しないのだ。

作者が今見ている光景と、脳裏で想起されているヴィジョンとの交錯が表現されているのだろうか。記憶というのは、個人的な経験則では、事実に基づいた記録的なものと、いつどこで覚えたか分からないが象徴的に宿した幻夢のようなヴィジョンとがある。それは遠い昔の記憶や夢の残影が混在したものかもしれない。本作がそのことに言及しているのかは不明だが、二つの記憶の違いについて思いが至った。

黒いメタルの額装を施された写真はしっかりと像を捉えながら、「今・ここ」から距離の離れた向こう側の時空を見ているかのようだ。目の前の光景の方がむしろ、動きに満ちていて不確かだったりする。瞬間的に過ぎ去る時間を捉える写真。作者は踊りに携わっているのか、バレエの衣装や練習の姿が見える。踊りという行為と記憶との関連となると、踊りを知らない人とはまた異なる形をとるだろう。これは身体言語の話に繋がるし、現実と舞台=架空という2つの世界の関連についての議論にもなる。

 

それぞれの写真のサイズ・配置が変わるとまた異なる意味や物語が現れるだろう。青黒い海と白い波の1枚が記憶と今とを深く結びつける、強力なスイッチになっている。興味深い作品だった。

 

 

◆中尾睦美『充たそうとするモノ』

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すぐ隣が三田氏の『記憶の輪郭』で、両者とも似たような雰囲気と構成の展示だが、三田氏が繰り出す「記憶」の距離感・遠近や構造に比べると、本作の時間の振れ幅は目の前の「今・ここ」で一貫している。サイズの大小あるが全て「今」の光景におけるリズムとして配されている。

手と指のイメージが繰り返される。自身がピアノ奏者か、近しい人がそうなのだろうか。すると、写真に置き換わった光景や時間は、いや、光景や時間を写真に転換することは、楽譜を書くことと相似形で、その写真を大小をつけて配置するのは演奏と同じ行為として読むことが出来る。

さきの三田氏『記憶の輪郭』も同じように、舞うという身体音楽的な行為を写真で置き換えた表現と読むことが出来るのかもしれない。三田氏のバレエの身体性と、中尾氏のリズムは二人一組の視覚的連弾となりうるだろうか。

私に音楽的素養がないので、これらのイメージ群から曲を想起することは出来なかったが、光に満ちていること、柔らかく優しい光であること、都心部に比べると味のある鄙びた光景であることなどから、望郷の念や生まれ育った地元への思慕、家族への想い、生きていること自体の確認と肯定の念、などを想像した。 

 

 

◆馬出聖也『塵積もれば人に成る』

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SNS等でモデルを募って撮られた5名の人物写真。身内の仲間ではなく外部の人間として対峙して撮っているのが、間合いや輪郭の強さ=緊張感から伝わる。

月並みな言葉だがこの5人は相当に個性的だ。一筋縄でいかなそうなキャラであることが写真で一発で分かるしキャプションを読むと更に納得する。私が街を歩いていてもこんな人達が潜んでいるとは気付いていなかったし、毎日かなりの頻度でTwitterを開いているが、こんな居ること自体が自己表現みたいな人には出くわさない。いや出会っていても気付いていないしお互いに姿を全開にすることがないのだろう。恐らく個性のクラスターごとに伝わり合うモスキート音のような波長の信号があって、それを送受信し合える間柄でしか真の姿で出逢ったり対話できないのだ。

 

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ここには撮り手と被写体との間で結ばれた協働による自己演出がある。インベカヲリ★の人物シリーズが念頭にあるため、演出という行為もその人の素顔であり本音だと見なすべきだと考えている。むしろ演出という形でないとペルソナのワン・オブ・ゼムでしかない「素顔」なんて出せない。本作には素の姿があって気持ちよくて、WebやSNSを含めた広義の「ストリート」に希望が持てた。

 

 

◆劉驍『LOBOTOMY』

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何が写っているのか、そもそもこれが写真なのかどうかも分からない。床に近い低い位置に掛けられ、私の身長では観るのが辛く、何より工作も絵柄も粗いのと、なのに2作品しかなく、試作品なのか何なのか判断できない。

が、気になる試みだった。

支持体の内側や外側へと侵食する試みは重要だ。現代美術では日常茶飯事である。プリントと額装の織り成す技術と調和の美も大切だが、秩序の破壊が垣間見せる未知なる領域も見逃すことはできない。

作品としての風格と扱い方が伴えば一気に化けていく気がしている。勿論そのためには、支持体を物理的に切り裂く以上に深く思考・哲学で切り込む必要がある。ルーチョ・フォンタナで写真は死ぬのか裏返るのか転生するのか見てみたい。

 

 

◆榮由海夏『郷』

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1枚1枚の写真の力が最も強かった。6枚一組、タイトルからすると作者の実家や故郷への思いを現したものだろうか。だがここには感傷や思い出とは別の領域のイメージがある。強い。湿度の高い空気が肌に、眼に張り付くような色調。個人的に南国の空気が好きな体質なので、お湯の中を歩くような空気の歪みはたまらない。記憶と入り混じった光景としてのブレやとろみは主観とは別の生き物となって立ち上がり、それぞれのカットは光景の動物化を催す。松の木に鴉のような青黒いものが掛かっている。死骸が紐に吊り下げられているのだろうか。眼前を歩く人物の手と装備品が爬虫類のようにぬめぬめと光る。こうしたひとつひとつの動物的なシーンが「強さ」の直感に結び付いている。 

 

 

計15名が出展。うち5名はさきのビジュアルアーツギャラリーとダブル展示である。キャリアもまだ浅いだろうのに(基本的にカリキュラムは2年間らしい)、2カ所同時で展開できるだけの作品を撮っているのが凄いし、意欲ある生徒に積極的にチャンスを与えていることが素晴らしい。

 

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展示数がすごいので、会場の真ん中に1本壁を入れてスペースを確保し、フロア中央に机を置いてポートフォリオを並べていた。会期初日のためか生徒・関係者らで賑わっており、会場全体のカットは撮れなかった。

作品としてはやはりスナップ主体で、街中のスナップ、日常生活の中での「生」の実感をテーマとしたものが多い。こちらでは出展者全員の短文のステートメントをまとめた紙が配布されていて有難かった。

 

 

◆廣岡亜依『ALL MINE』

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展示位置が入口すぐで、受付カウンターと人だかりに挟まれ、あまりちゃんと見ることが出来なかったが、ビジュアルの鮮やかさとスピード感に目を引かれた。

イデア・構図の引き出しが多く、それらを次々に繰り出すところにコマーシャル的な力も感じた。読み手の感性・欲求に応える力だ。奥山由之の仕事を連想する。作家や被写体など個人の内側へと潜行、落下するものではなく、次へ次へとスライドしてゆく。スライド感は「繋がり」とも読み替えられる。被写体となった人たちとイメージを協働制作している水平性が写っているところが特徴的だ。

本作は作者がこの先に色んな人生経験や、他の圧倒的な創作物に触れていく中で、「私」を独りで極めねばならなくなったり、あるいはもっと深掘りした個の世界を協働演出することに迫られた際に、赤鹿麻耶のような形態へと化けていくかも知れないし、ファッションやPVを作るような方面で力を発揮するかもしれない。

 

◆三田和佳『まどろみ』 

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『記憶の輪郭』とダブル展示だが、こちらはトーンがより暗くて深い。やはりバレエの舞台とその外の日常光景から構成されていて、その二つの世界の構成力がより強かった。

ここでの主役はダンサーと黒猫だ。ステートメントでは悪夢を題材とし、目覚めた後も夢の世界が現実に尾を引いている時のことについて語っている。バレエの舞台=リアルな虚構は確かに、現実の裏側へと連なる夢のようだ。舞いが終わると陶酔から覚めてしまう、覚めた後も完全にこちら側へと戻ってくるまでにはタイムラグがある。三途の川を渡るようなものか。水面や光沢のイメージはその中間帯を連想させる。

二つの世界を行き来していること、そのナビゲーターとして黒猫が置かれていることなど、ビジュアルだけでなく構成力の確かさが味わい深かった。

 

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児玉花菜『break out』 

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都市空間のモノとモノ、空間とモノとの境界面が撮られていて、プリントは露出オーバー気味で色情報が飛んでいる個所も多い。物理的にも質感としても厚みの無い平面、空虚さが逆説的にリアリティを持つことを表そうとしている。

だが情報量そのものがなければ「見る」こと自体が成り立たない。伊丹豪の平面的なビジュアルが凄みと説得力を持つのは、ワンショットごとの持つ解像度などの圧倒的な情報量ゆえだ。空虚とリアリティを写真として同居させるための技術的工夫か、あるいは情報を持たないことの必然性、「ない」こと自体の意味が出れば面白くなるだろう。それはデジタルネイティブならではの、物理とWeb空間(=平面)という2つの母国を持つことについての考察に繋がる。

 

◆竹内瑠花『今日にさよならする前に』

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エモーショナルな光と色に満ちた作品群からは、写真を撮ること、表現を手にしたこと自体の喜びとやりがいを十分に感じる。作者の独白が挿入されているためでもある。『数ある表現の中で、なぜ私は写真を選んだのだろう。』、私自身も日々問うていることだが、改めて言葉として突き付けられるとその真っ直ぐさに思わずドキッとする。

1枚1枚の写真そのものはそれこそ何気ない日々の輝きで、多数のフォトラバーズ(写真愛好家と書くと昭和世代のようで抵抗があるのでこう呼ぶ)が撮っているものだ。ここに作者の生の言葉が加わることで、作品群は意味を宿している。「この人は何を思ってこの写真を撮ったのか」を踏み込んで見ようとする動機となる。

それは自分より若い世代が何を考えているのか知りたい、という年寄りの欲望なのだが、しかしもっと根本的に、色んな意味で写真の困難な時代で、あえて写真を選んだこと自体に向き合っている、その姿勢に惹かれたのだ。

何気ない写真ほど、作者が何にどれだけ向き合っているかが重要だ。「美しい」「綺麗な」「エモい」ものを超えた何か、作者の声を見たいと思っている。

 

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◆今村優波『今を生きた証』

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佐内正史HIROMIXのことを凄いと言わざるを得ないのは、ありふれた何気ない日常を何気なく撮ることを万人に解放し、それが写真作品として「アリ」となる評価の土台を決定的なものとしたことだろう。(佐内の写真はまったく「何気なく」撮ってはいないが。) その意味で90年代の系譜は今もバージョン改定されながらもずっと続いていると言える。ある個人が、権威でも天才でもない、無名で無力ないち個人が、なんら特別でもない「生」の日々を、自分で肯定することを「アリ」としたのだ。

本作からはそのような土壌を実感する。他の多くの出展作品も同様である。写真に限らず才覚のある者は、ばんばん動画を上げたり著名人と繋がったりアワードで高く評価されたり起業したりして、どんどん世に出ていくだろう。そうでない「普通」な者たちはどこでどう「生」を見つけ、それを愛したり認めたりすればいいのだろうか。自己発信と自己プロデュース、 自己デビューの時代だからこそ、逆にそのプレッシャーとジレンマは20年前より強いかも知れない。写真は解を与えてくれるだろうか、解の手助けをしてくれるだろうか。そのようなことを考えた。

 

 

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面白かったです。

ただ、写真と私生活のほかに、何かもう1つ持っていないと、それ以上は写すものがない、写らないのだということも非常に明確に分かりました。これはセンスや才能の問題ではない。人生・社会経験がまだ浅い分、3本目の柱がない。三田知佳氏の作品が圧倒的に構造的な奥行きを持っていたのはその柱(=バレエの舞台というもう一つ別の表現世界)を持っていたためだと思う。

まあ今後生きていく中で、音楽やPVを作る方に目覚めるかも知れないし、ラボで細胞核や遺伝子をいじくるようになるかもしれない、暗号資産に精通するかもしれない、ワープア問題や労働条件に怒り狂うかもしれない、フェミニズムに目覚めるかもしれない、冤罪や交通事故でしぬほど苦しむかもしれない、そういう感じで3本目の柱が自然と生まれてくるので、気長に写真をやっていってほしいなーと思いました。

 

 

 ( ´ - ` ) 完。