nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【ART】R2.12/4~R3.3/7_2020年度 第4回コレクション展(三島喜美代、中村裕太)@京都国立近代美術館

企画展「分離派建築会100年 建築は芸術か?」とほぼ同時期に開催されていたコレクション展の大部屋で、三島喜美代のコミカルかつ高クオリティな「割れる」新聞・雑誌、空き缶がごろごろと転がっていた。非クールなポップさが楽しい。

合わせて、「エデュケーショナル・スタディーズ」企画として中村裕太、安原理恵が石黒宗麿(いしぐろむねまろ)の陶片に触覚で向き合う仕組みを作る。

 

f:id:MAREOSIEV:20210111211952j:plain

【会期】2020.12/4(木)~3/7(日)

 

 

三島喜美代の作品は何度か見たことがあって、一発で印象に残る。でかい、精緻、ありふれたものを再召喚する、の三拍子で来られると、記憶に刺さるのだ。

遭遇したのは天王洲アイルでしたね。歩いているとホテルの横に巨大なゴミ箱がそびえていて、中には空き缶を精緻に模したオブジェが入っている、ありふれたものを手仕事で再度召喚するやり方は地味に衝撃があった。

www.e-tennoz.com

 

作家キャリアは長く、1932年生まれ、高校卒業後から油彩を出品したり、吉原治良に支持した画家・三島茂司から影響を受けたり(のちに結婚)、1950年代あたりから精力的に活動していた。が、そのユニークな作風が世に広まり、だんだんと一般人の目に触れるようになったのは2000年代以降のような気がする。2005年に直島に巨大なくずかごとごみの作品が置かれたのは2005年のことだ。

benesse-artsite.jp

そして2021年6月27日にはEテレ『日曜美術館で特集『三島喜美代 命がけで遊ぶ』が放送された。すごいですやん。脚をめちゃめちゃ傷め、毎日痛み止めなどの薬を飲んでは体を差し出しながら日々制作に勤しむ姿が印象的でした。本人は「楽しんでる」て言ってたけど。

この放映は、森美術館で今年4/22から開会中の展示『アナザーエナジー展:挑戦しつづける力 ― 世界の女性アーティスト16人』に選出されていることを受けたものでもあるだろう。

 

www.mori.art.museum

 

齢80を超えてから世間がその魅力に気付いて、どんどん評判が盛り上がるという、超・右肩上がりタイプのアーティストだ。大器晩成型って言っていいのかな。いやでもそれだけのことを若いうちから延々と積み重ねてきたんでしょうね。皆さんもがんばりましょうね。 

 

◆三島喜美代:空き缶

今回の会場では、実物大に近い(少し大きい)くず入れが2つ、中身は酒類の段ボールケースを詰めたものと空き缶のものとがある。印刷が精巧なのでフェイクかどうかわかりづらいが、近付いてよく見ると、全て陶器で作られていることが分かる。「ごみ」と「印刷メディア」の両方を彫刻化した作品である。

 

f:id:MAREOSIEV:20210111212127j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210111212152j:plain

<かご 2017>(2017)

 

もう本物ですやんこれ。

 

段ボールの質感やばいぞ。

 

三島作品がリアリティに優れているのは、印刷の再現クオリティの高さに加えて、「ごみ」としての立体性――歪みや凹み、無造作な重なりにあるだろう。くずかごと空き缶を一つの連結した・まとまった作品として作るのではなく、個々の「ごみ」彫刻を上から上から投げ入れた、無造作に集積された状態だから、その陰影やランダムな重なり方に真実味を感じるのだ。「ごみ」というものの習性をよく研究しているなあと変な感心の仕方をしてしまう。

 

本物のゴミとの違いは、本物は人の目を誘引せず、逆に視線を滑らせて目に留まらなくしてしまうのに対し、三島作品はなぜか視線を吸い寄せる。質感が微妙にしっとりしていて、光・眼差しを吸うためなのか、印刷の再現に何か違和感を覚えるからか、微妙なサイズの違い(実物よりどれも一回りは大きい)に無意識で引っかかるためか。まだそのあたりは謎である。

 

f:id:MAREOSIEV:20210111212218j:plain

これはふれあいコーナー。触ったらしっとりしてました。陶器ですからね。そして重みがある。陶器ですやん。これは床や壁に投げつけたら割れると思う。

 

そう、「割れる」というのが重要で、1970年頃に新聞を陶器で作り始めたのも、「割れる新聞」という着想に作者自身が面白さを感じたためだという。当時、紙媒体の印刷物が大量に刷られ、あらゆる事柄が新聞や雑誌として展開され、そしてすぐに廃棄されていた。今のスマホ画面のようなものですね。

大量にあらゆる・同じものが刷られて瞬間的に消費され消えてゆく状況に対して、大切に扱わなければ割れてしまう――割れない限りは存在し続けるものとして作品提示した。それが独自性になったのだと。思います。

 

◆三島喜美代:雑誌やチラシや新聞

f:id:MAREOSIEV:20210111212016j:plain

大部屋を正面から見たようす。中央の巨大な台に、古雑誌とチラシの作品を配している。向かって逆側、撮り手の私の後ろ側左右に、缶ゴミのくずいれ作品と古新聞の束の作品がある。

 

f:id:MAREOSIEV:20210111212040j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210111212103j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210111212241j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210111212359j:plain

<びら 2017>(2017)、<コミックブック 2017>(2017)

 

雑誌やばいぞ。

 

チラシはさすがに1枚ものにしては分厚く、モノとしての存在感があるが、漫画雑誌の側面、中身のページの再現度は尋常ではない。どうなってんのこれ。古新聞の束の作品もそうだが、厚みと堆積の質感は本当にすごくて、全体的にニスを塗ったように色がくすんでいること以外は、驚異的な精緻さで再現されている。

だが本物に限りなく似ていながらも、根本がどこか全くの別物で、この作品を観ているときの心境は「大量に量産されるはずのものを、手間暇かけて作家が自作している」ことの意味へと向かう。そうして大量生産・大量消費の意味、コンテンツの意味、印刷メディアというものの機能などについて思いを馳せていた。

 

工程としては、シルクスクリーンで印刷物の複製を特別なフィルムに転写し、それを薄く伸ばした粘土に貼りつける。粘土版を圧したり挟んだりして歪ませて形をつけたら熱する。プリントフィルムは約400度で溶け出し、プリント部分だけが残り、印刷物を模した陶器が完成する、ということだ。これは『日曜美術館』で知った。制作方法を知ったところで、この実物感は理解を超えた力がある。認識がバグる(気持ちいい)。一品ずつ手で描いているのかと思っていたが、さすがにそうではなかった。

 

手作業の温もりのようなもの、どこか手の地肌を感じさせる質感があって、陶器だからなのかプリントフィルムと合わさることで偶然そうなるのか、モノとして唯一性がにじみ出るので非クールなのだ。思うに大量生産・大量消費という現象自体を手作りで再現している。ウォーホルのような記号性とは真逆のものだ。

 

f:id:MAREOSIEV:20210111212306j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210111212333j:plain

<新聞2017-2018>(2017-2018)

 

新聞もやばい。

やや質感が厚手の布っぽいので、本物よりはボタッとした印象があるが、こうして展示作品としてではなく、不意打ちで現れた時に、作品と気付くかどうか、正直自信がない。

86~87年にニューヨークに滞在したことが英字新聞に結びついているのだろう。滞在中も捨てられたゴミの写真を撮りまわっていたというから、消費と廃棄という営為、現象に作者が強く惹きつけられていたことが分かる。

 

f:id:MAREOSIEV:20210111212423j:plain

<パッケージ 78>(1977-78)

 

だがこうして様々な形態の新聞紙や段ボールがあり、一概に「大量生産・大量消費」と「紙印刷メディア」の批判的作品とも言い難いところがある。どちらかと言うと私達の生活において、大量生産された印刷メディアがメタモルフォーゼを来し、形態や役割を流転させてゆくこと、その可変性に目を向けているようでもある。

この作品などは新聞紙と段ボールは瓶を守る「包み」であって、廃棄物ではない。かと言ってメディアとしての効力もない。「割れる新聞」が着想の発端ではあったが、割れることと引き換えの作品ではなく、ブリコラージュ的な利活用による変性と絡み合っている。

 

 

◆三島喜美代:初期作品

初期作品もあった。

 

f:id:MAREOSIEV:20210111212447j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210111212535j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210111212508j:plain

順に<作品63-5-A>(1963)、<Work-64-Ⅰ>(1964)、<断章Ⅲ>(1966)

 

なにこれかっこいい。

1960年代の三島喜美代は、カンヴァス上での平面コラージュ表現を行っていたのだった。ここでは新聞や雑誌は直接千切って貼り付けられ、予期せぬ造形を生み出すために一役買っている。シュールだが、シュルレアリスムにしては狙いがスマートな気がする。音楽? リズムと流れがあるねんな。

これピカソとかブラックがやってたコラージュとどう結びつく? コラージュの系譜を知らないので「うむ、普通にかっこいい」以外の語彙がないのが残念です。これらは発表当時かなり注目されたという。

が、「コラージュ」というジャンル自体は他にも作家が複数いるので、凄いんだが唯一無二の存在とまでは言えないだろう。ここから「割れる新聞」という活字メディア彫刻=唯一無二の作家、へとジャンプして新境地を切り拓いたのは本当にすごい。一体どれほど作り続け、考え続けていたのだろう。こういう超・飛躍は日常的に格闘している人間にしかもたらされないものだ。

 

でした。( ´ - ` )

 

 

◆エデュケーショナル・スタディーズ02:中村裕太『ツボ_ノ_ナカ_ハ_ナンダロナ?』

同時にもう一つ面白い企画があったので紹介するぞ。壷だ。

 

f:id:MAREOSIEV:20210111212832j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210111212640j:plain

壺の中身を聞かれるとドラクエ感がありますね。だがこれはドラクエではない。壷だ。あと上の写真は壷ではなく消毒液だ。

 

f:id:MAREOSIEV:20210111212705j:plain

壷トリセツ。

なんと体験型展示で、置かれている壷の中に手を入れて味わうのだった。

「八瀬陶窯から発掘された石黒宗麿の陶片が1個~4個ほど入っています。」「片手を壷のなかにそっと入れ、壷の底に置かれた陶片に優しく触れ、しばらく味わってみましょう。」「壷のなかから陶片をそっと取り出し、両手で陶片を味わいましょう。」

 

これはすごい。触る展示だ。時代が大きく変わったなーと思う。美術館は昔、線から離れて作品を観る硬直的な場所だった。いま、このコロナ禍であるにも関わらず、五感で触れてモノと対話することが可能になっている。驚きだ。 

もちろん、ただのふれあいコーナーではない。

 

www.momak.go.jp

 

京都国立近美が取り組んでいるプログラムに「感覚をひらく」がある。「見る」=視覚優位の鑑賞体験が主であった美術館が、眼の見えない人などに対しても視覚以外での鑑賞の機会を広げるため、様々なイベントを行っている。よく1Fロビーでワークショップ後の成果物を展示してますね。

 

この「壷の中~」展示コーナーは「ABCプロジェクト」という、「感覚をひらく」の一環として2020年度から開始した企画で、作家(Artist)・視覚障害のある人(Blind)・学芸員(Curator)の3者(=ABC)が、それぞれの専門性や感性を生かして、様々な感覚を使った鑑賞方法を創造するというものだ。

  

f:id:MAREOSIEV:20210111212620j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210111212751j:plain

めっちゃ壷ある。 

和風ドラクエですね。やくそうとか種を探す感じで。

 

この壷の中は何だろうか企画を作ったのが中村裕太:作品名<ツボ_ノ_ナカ_ハ_ナンダロナ?>(2020)

 

このツヤツヤの壷は誰が作ったか分からないが、誰すか??書いてないけど綺麗に作ってある。壷が若い。だがしかし、これを眺めるのが鑑賞の要点ではなく、体験のための「器」であって、主役はその中にある陶片だ。 

 

f:id:MAREOSIEV:20210111212726j:plain

この黒い、何か生き物の器官の一部を干物にしたようなのが、さきの解説にあった「八瀬陶窯から発掘された石黒宗麿の陶片」だ。

 

陶片と言われるとそうだなと思うが、一見何か分からんですからね。いいですね。 

正面の壁のプロジェクター映像では、女性:安原理恵が、石黒宗麿の陶片を手で指で撫でて読み取りながら「触察」というそうだ)、その質感や形状について気付きを語る。

その音声と映像がWebサイトにある。

 

www.momak.go.jp

 

これが結構面白い。音がいい。指と陶器が擦れ合う音が心地よい。そして安原の語りが発見に満ちている。まさに指で、3次元的に陶片を「読み解く」 。それは私達が目で外側から曖昧に見ているよりも、ずっと確実に陶片のディテールと本質を掴んでいく。

 実際、「目で見る」と言っても、視界としてある画面全体に対して、それを個々の区別されたモノへ分解し、中身を与える具体的な情報や、情報・名称の区分がないと、何も分からない=「見えてない」のだなあと実感しますね。釉薬がどうとか、焼きがどうとかを知らないと、見ていても「かけら」以上のものがない。

しかし「触れる」という行為は、視覚と情報の限界を一瞬で超えた、別領域での理解の核心がある。そんな感じがしました。

 

 

石黒宗麿の作品や来歴については、私は壷とか茶碗が全く分からんのです、わからんわからん、展示の解説から引用しときましょうね。

石黒宗麿は、古典の特性を独自の眼でつかみだし、それを自作の中で生かすことで、創作活動を行いました。その技術と芸術性は高く評価され、1955年に鉄釉陶器の技法で重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定されています。石黒は、古陶磁や陶片などの研究を通じて、陶技を独学で身につけましたが、同時に様々な作家とのつながりを有していました。

 

なるほど。北大路魯山人と比較すると面白いわけですね。(次のコーナーで実際にしている)

 

つぼの行列に目を奪われるが、壁面の展示が渋いかっこいい。

 

f:id:MAREOSIEV:20210111212812j:plainf:id:MAREOSIEV:20210111212559j:plain

上は<柿子図>(制作年不詳)、下は名称なし(陶片)

 

なにこれ。大人の味わい。渋い。茶の湯。この下の陶片を飾ってる作品がすごい良いなあー。デザインとして刺さる。隣のテキストもいいな。説明じゃなく響きになってるからいいな。なんか、柿なんですね石黒宗麿の作品は。干し柿が原風景にあったのかな。あれも果物、菓子というか、やや天然の焼き物的なところがあるね。

 

うずらの卵みたいな、ひときわ存在感のある壷が。

 

f:id:MAREOSIEV:20210111212856j:plain

f:id:MAREOSIEV:20210111212924j:plain

<壷「晩秋」>(1955頃) 

これも干し柿。小判みたいなのが干し柿ですって。この白地に仕上げてあるのが宗磁の製法の特徴で、すごいらしい。ぜんぜんわからんけど綺麗でしたよ。

 

 

( ´ - ` ) ていう感じでした。感じろ¥! 完。