写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】菊池和晃「Draw a Circle」@The Third Gallery Aya/「円を描く」@京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA

【会期】
・The Third Gallery Aya_R2.6/16(火)~6/27(土)
・「transmit program」 @KCUA_R2.4/4(土)~7/26(日) 

 

6月中~下旬、菊池和晃の展示が大阪と京都で同時に展開されている期間があった。どちらも作品タイトルは「Draw a Circle」、「円を描く」で、人力マシンを駆動させて、文字通り円を描くというものだ。

 まず「The Third Gallery Aya」での展示から紹介。

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こちらでは映像3点が壁1面ずつで展開されていた。その内容は驚きのシンプルさで、黒い円盤が連なった黒いマシンのハンドルを、手がぐるぐる回し続けているというものだった。

 

 

( ´ - ` ) ぐるぐるしてますな。

 

 

( ´ - ` ) ・・・・。

 

 

 

3,4分眺めていたが、もうただひたすら手がハンドルをぐるぐるしている。

 

 

( ´ - ` ) これ 終わりあんのか。

 

 

 

(スタッフ氏)「1本200分あります」

 

 

( ´ ¬`) ヒエッ

 

 

手は、いつ終わるとも知れない永遠の動力となって、ハンドルを回し続ける。マシンは3台とも微妙に形が違うが、いずれもハンドルを回した回転数が、その先の5枚の円盤へ順々に伝わっていくようである。しかし全体の動きは実に乏しく、まるで水滴が砂場に吸い込まれていくように後列の円盤は動いている様子がない。運動力はどこかへ吸われて消えていったのだろうか。

 

実はその先の円盤たちも動いている。円盤の列はハンドルの回転数を1枚につき1/2、また1/2と、段階的に減衰させていく。円盤の先のアームには、白い塗料のついた刷毛が装着されていて、ハンドルから伝わった回転力によって刷毛のアームは最終的に一周し、白い円が描き出される仕組みである。円が完成されるのに必要なハンドル回転数は6千数百回、時間にして約200分にも及ぶ。映像を数秒見た程度では、何も動いていないと錯覚するが、我々の知覚では捉えられない時間単位の中で、この機構は「作品」を作り続けているのだ。 

 

ここで第一の疑問が湧く。「作品」とは、最終成果物の「円」の絵だろうか。このマシン自体のことだろうか。それともハンドルを200分間も回し続けるという果てしない運動のことだろうか。

 

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最終的にはこうした「円」が出来上がる。

縁には筆致が確かにあるため、一見、抽象的な絵画作品に見える。そう思うのは言うまでもなく、吉原治良からの連想である。またここで第二の疑問が湧く。マシンのハンドルを無機質に回し続けることによって生まれたこの「円」は、「絵画」と呼ぶべきだろうか。これはどの領域の「作品」なのだろうか。もし絵画でも作品でもないとしたら、何と呼べばよいのだろうか。先行する作家らの切り拓いた前衛の道と、どういう形でクロスオーバーするのだろうか。 

 

問いに対し、解を出さず、問いを発し続けることで進めていこう。

第三の疑問は、この「円」を「絵画」なり何らかの「作品」とした場合、「作者」は一体誰なのだろうか。マシンを手作りした菊池和晃だろうか、ハンドルを回した人物だろうか。象徴的なのは、ツーハンドル式のマシンである。聞けば、作者自身とその妻がマシンの両脇に立ち、二人で分担してハンドルを回しているという。この構図は、ハンドルの操作者は別に菊池氏以外の誰でも構わないことを端的に意味している。すると「ハンドルを200分回しているのは菊池氏本人」という思い込みに亀裂が走り、「私が回しても構わないのか?」という、「作品」の主体の互換性に気付かされる。

 

つまりこの作品には、「作品制作」や「芸術性」を語る上で必ず期待されるであろう作家性という「主体」が不在である。もっと言えば、200分間・6千数百回以上の回転運動を提供することに参加することを厭わない人間であれば、誰でも作者になれる。

むしろこのクソ忙しい現代において、200分もの時間を投じ、「私」をハンドルに、円盤に、回転に投げ入れ、「無私」になってゆくこと――主体性を手放すことによって、本作は動力が成立し、「作品」らしきものが立ち現われるのだろう。このような、身体をミニマルに酷使することで「今・ここ」から遠い何処かへ辿り着くプロセスというのは、仏教的な世界観を感じる。

描かれた「円」自体の美的さを問うのではない。成果物は最初から度外視されている。体を酷使し、「私」を投じられるかどうかが問われている。私は山の中の神社を思い浮かべた。べらぼうに標高差があり、鳥居から拝殿まで途方もない数の石階段が続くような神社である。苦労して登っても何ら現世的な利益はない。だがその石段を上ること自体が目的化し、自意識は行為の中に飲み込まれて、判断の主体は消失してゆく・・・

 

 

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA」で展開中の「transmit program」の方では、同テーマに基づき、マシンの現物と、描かれた白い円が4枚、そして映像が1本展示されている。

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メタリックな光を帯びた現物は、とても洗練された、静かな機構である。写真でクローズアップしていくと、ますます工場のようだ。

映像で見るよりも更に静かさが漂う。時間を刻んで紡ぎ出す手工業の現場であることを感じる。実際にこうしてモノとして、ハンドルを回す側に立ってみると、映像体験から立ち位置が転換して、自分が回す側=「主体」としての「時間」を意識させられた。

 

私がこれを200分回すのか?

200分も私がこれを回すのか?

これを200分間回すのは私なのか?

 

さきに、「主体の喪失」「無私」なることが、本作の成立要件ではないだろうか、と書いたが、いきなり翻って、この装置に向き合いハンドルを回し続けることは、思い通りに動かず・疲労を重ねてゆく己の「肉体」と、徒労のような粘り気のある「時間」と向き合うことに直結していくだろうと想像した。それは隠れた「主体」の存在であり、セルフイメージの向こうにいる素の「私」にまつわるもの、そのものではないだろうか。

 

そのようなことを想像した。

 

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( ´ - ` ) 完。