【会期】R2.4/4(土)~6/27(土)
ジャンルは「版画」なのだが、とにかく「メスキータ」という響きの良さ、そして異様な人相の男性(目の下にクマ?グラサン?)が印象に残り、無視できない何かに満ち溢れている。そして無視できず、訪れたのであった。
本展示は、2019年に東京ステーションギャラリーで開催された展示の巡回展である。
もともと6/14(日)までの会期だったが、4月早々に新型コロナ感染拡大の影響によって長らく休止を余儀なくされていた。感染の第1波が終息し、各地で休業要請が解除されたのを見計らって、6/1(月)よりめでたく展示再開となり、会期も2週間延長された。
念には念を入れて、感染拡大のリスクを最小限に抑える観点から、電話予約制、入場者数を限定しての開催となっている。鑑賞者は希望時間の1時間前までに、電話にて1時間刻みの予約時間枠(鑑賞時間は最大2時間)を選択する仕組みだ。
また入場に際しては体温測定があり、館内では観客同士の距離を2mずつ空けることが推奨されている。
展示は3つのフロアから構成される。
1F/フロア1:メスキータ紹介(自画像、家族)、人物
2F/フロア2:自然(動物、植物)
2F/フロア3:空想(アニメ的な絵、ファンタジー)、雑誌「ウェンディンゲン」
昨年の山沢栄子回顧展『私の現代』と似た構成で、1Fは主力どころのメジャーな作品が集中し、2Fで作家キャリアの細部が紹介され、最終フロアで周辺の活動、作品以外の仕事などが紹介されている。
版画のことは何も分からないので詳細は差し控えるが、軽くメスキータの人物像に触れておこう。
本名、サミュエル・イェスルン・デ・メスキータ、1868年アムステルダム生まれのユダヤ人。建築家になるため工芸学校に入学したが方針転換、初等教育の描画教師の資格をとり、油絵、水彩、ドローイングを手掛けていく。最初のエッチングを手掛けたのが1893年。そこからブランクもありつつ、エッチングと木版画をやっていく。
この頃は産業革命からのアーツアンドクラフツ運動、ウィーン分離派、世紀末芸術、アール・ヌーヴォーといった激動の時代である。
1912年、グラフィック・アート振興協会の会員に。1925年、建築や美術の統合を目指した雑誌『ウェンディンゲン』第1巻10号から最終・12巻1号まで表紙デザインを担当、うち2回はメスキータの特集が組まれた。
1940年、ナチスがオランダを征服。1944年、一家はナチスに捕らえられて収容所送りとなり、殺害される。
同時期、M.C.エッシャー(だまし絵で有名なあの人。メスキータを師と仰いでいた)がメスキータ邸の異変に気付き、作品を救出。1946年、エッシャーらの尽力によってアムステルダム市立美術館で展示開催。
その後、1968年の大規模な回顧展の後は、展示頻度もまばら。だが2000年代に入ると次第に展示の頻度が増え、ここ10年ほどは、世界で次々に注目されるようになる。
せっかくいい感じに表現に没頭した人生を歩んでいたのに、最後にはナチスの手により収容所送りで一家もろとも殺されてしまう。悲劇的な作品は全く無かっただけに、逆に余計に痛ましさを感じた。ちくしょう。
さて、「版画」は私にとって抵抗がある分野で、観るのが面倒くさい、向き合うのが面倒くさいという観念が根底にあり、それが何なのか分かっていなかったが、本展を観に来て一つ明らかになった。
私に植え付けられている「版画」とは、小学生・中学生時代の、学校教育上の「版画」なのだった。
見ての通り、メスキータ作品はデザイン性がとても高く、線と面、白と黒、タテとヨコ、主題と背景、といった構成美に力点が置かれている。そこでは「彫り」の手わざは後退している。「クールで冷たく美しい」という第一印象を抱いた。もひとつ言うなら「神秘的」とも。
それは義務教育で推奨されてきた「版画」とは真逆で、似ても似つかぬものだった。
少学校で習った版画は、芸術やアートと呼ぶ分野とは似て非なるものだったのではないか。
やたらと一彫り一彫りがうるさく、そして人物の顔・表情も素朴で純朴なることを妙に誇張していて、実に厄介だった。学童は純朴であるべきで、それを表現する手法もまた純朴であるべき、との思想を押し付けられているかのように、ボタボタとした、清貧の美のような、押しつけがましさを覚えていた。だが否定すれば教師からひどく怒られる。もはや美術というより道徳上の思想教育の一環だったのではないか、それぐらい「版画」の表情の描写が脳に刻まれている。この点について、お笑い芸人・ロバートのネタ『小学生版画クラブ』は、学校教育的「版画」における典型的なほうれい線の掘り込みや主題のポージングなどの持つ怪異性を誇張し、皆に共通する笑いへと転化していて見事である。(動画が落ちてないので脳内再生でお楽しみ下さい)
本展示は、そうした私の中に植え付けられてきた思想的「版画」観をリフレッシュする作用があった。
それもそのはず、メスキータが生きた時代は産業革命から工業製品が氾濫し、揺り戻しで芸術と生活を結び付ける運動が活発化し、「デザイン」への希求が高まるという、平面表現が従来にはない発展を見せた真っ只中にあった。更にはウィーン分離派など19世紀末の特有の芸術運動により、どこか頽廃的、神秘的な世界観が流行した。更には、19世紀には交通手段の発達により移動・観光旅行も活発化し、また、西欧諸国で開催された万国博覧会によって異国文化・異国情緒も流入した。メスキータ作品に日本の浮世絵版画の影響も指摘されているのも、こうした状況が影響しているだろう。
メスキータ版画の独特な静かさと大胆さは、そうした社会背景の産物であるように感じる。
とは言いつつも、約240点の作品を観終えた感想として、第一に感じたのが「作品のスタイルを一言で語れない」ということだった。
彫り方、技法ひとつとっても、背景の処理でも、全体の構成でも、どこか同じ「型」に落とし込むのを避けているようにも見受けられたのだ。彫り方について、一番多用されているのは細い線を漫画の効果線のように何本も走らせる手法だが、一彫一彫を丸く太く刻む場合もあれば、線ではなく面だけでより平面的に彫る場合もある。1枚の画の中の構成も、肖像画やスナップのように、人物や動物がその時居た状態を一定忠実に描いている場合もあるし、逆に背景や周辺のフレームを変形させ、配置にこだわり、構成を転調させたり、クリムトらウィーン分離派お得意の縦長ポスターを思わせる構図のものもある。色も、写真以上に白黒のはっきりとした世界かと思えば、全体的に茶色だったり、彩色の施されたものもある。
今回のキービジュアルとなっている謎の人物画(実は息子さん)の描写も、数多くあるスタイルの一部に過ぎず、このスタイルで作品がずらっと並んでいるのでは、という予想は裏切られた。
どの作品を見ても、構成要素のどこかが一枚ずつ違っていくのがメスキータ作品だ。同じフォーマットで処理しないのは、意図的なものだろう。常に「新しい表現」を模索していたという印象すら受ける。
動物園に足繁く通って動物の姿をスケッチし、植物を描き、自然のフォルムや収まり具合を描き続けたが、それらは色々な描写が為され、現実の毛並みや体のディテールを脚色していることがキャプションでも指摘されている。
作家としてのルーツも元々は建築家を目指していたり、水彩・油彩画を経由しており、多彩な手法を試行するのはその幅の広さゆえかも知れない。最後の展示フロアでは「ファンタジー」シリーズ、現実と空想が入り混じった、非常に戯画化された人物画を水彩で多数描いている。昔の新聞の風刺画のようなコミカルなタッチだ。
このモチーフの脚色、抽象化は、「写真」と大きく異なる点だ。
白と黒の明暗差で像を表わし、四角のフレーミングによって画面構成を見せるところは、非常に近い関係にあるように見える。
だが版画は彫ったところにインクが付かず白く残り、彫らずに残した箇所がインクで黒く塗り潰される。闇を写すメディアだ。写真は逆に、光が当たって像の見えているところが像として焼き付けられ、光がなく届かない暗闇は暗くなる。そして前述のとおり、版画は絵画と同じく作り手がゼロから描き出すが、写真はあくまで目の前の外界を写す(複製する)だけで、写し手は機材や環境の操作者にはなれど、ゼロから自分で描くわけではない。写真の特性をネガ反転させたものが「版画」であるように感じた。
初めての分野ということで、理解できないながら、色々と気付きが多かったが、最も面白かったのはやはり1F・最初のフロアでのメスキータの自画像と、息子の顔の作品だ。ここはずば抜けて面白かった。ある特定の個人を私的に描き出しているが、版画の特性上、写真や絵画と違ってやはりディテールは大きく失われる。そうして抽象化された「人物」は、どこか普遍的なモチーフへと転じている。この世の誰でもないメッセンジャーのように現れる者として、時空を超えてやってきたような、未来からの来訪者の予感すらする。
その邂逅が面白かった。
異様な人相の男性(目の下にクマ?グラサン?)が作者の息子だとか、誰が信じられるものか。。。
( ´ - ` ) 完。