nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真表現大学】R2.2/23(日) 修了制作展前・最終審査会

【写真表現大学】R2.2/23(日) 修了展制作前・最終審査会

この地球上には時間というものがあり、それはたえず川のように流れていて、つまり修了制作展が近いということです。うそやん。おお。うそyn   

 

うそではない。

 

ハイデガーは言いました。今、目の前にあるものを、引き受けよと。「私」が在ることによって引き受けよと。神はおらんのよと。そういうわけでスッと100年ぐらい経ちましたが、サブカルTwitterと賃金労働とが時間の流れを形成し、そのネットワークの中に生成する感情や出来事によって「私」の像が取り結ばれ、それが主体を叫ぶときに「作品」が生まれたり起業したりリストカットしたりなんかします。どうかな。わかりません。神はいません。感情だけが残存しやがります。たいへんや。

 

それで民は、知や文化を求めて集会を開くわけですが、現在、新型コロナさんが旺盛です。道徳論か恐怖心か衛生観念なのか、このご時世に不特定多数の人間を集めるとは何事か、何かあったら責任とれるのか、と迫る人々もいるようで、特にTOKYOは殺伐としているらしいので、次週2/29(土)の「特別公開講座は延期となりました。

 

medialib.jp

科学技術と表現とのマッチングは不可欠ですね。森美の『未来と芸術展』おもしろかった。レビュー書いてないですけど。なぜ面白いと感じたか。それは(略

 

状況的にもうウイルスがどうのというより対・人間、組織、政府の対応を巡る議論になっていて、EVA最終話の冒頭やなと感じます。いややな。まあ感染するからな。80年代のエイズ禍ってリアルタイムではこんな感じだったのだろうか。きっつい酒でウイルスころせませんのか。「鬼殺し」的な。「V殺し」とか作って。メチルアルコールになるか。くああ。メチルで目が散る。くああ。

 

館長からは授業の冒頭、そのあたりの(酒の話ではない)ウイルスを巡る状況と、今後、修了展の時期に京都でどうなるかは未知数である旨についてアナウンスがありました。今の時点、京都では特に展示関連で自粛はないとのこと。

ただ大阪市が感染防止のため3/20までのイベントを中止にしたことに加えて、ダイヤモンド・プリンセス号から解き放たれた方々が普通に公共交通機関で帰宅したり、プリ号で検疫や事務作業に従事した厚労省職員がウイルス検査を行われていなかったことなど、状況が新型コロナの繁殖に手を貸してる方に傾いているので、まあどうなるかわかりませんということです。人類にバグが。

 

 

( ´ - ` ) バグ。

 

本日の授業ですが、講師5名総当たりで生徒1名ずつを順番にヒアリングし、修了展に向けての個別相談や確認、前回指摘事項の修正案を出したりして、最終調整します。

 

 

( ´ - ` )ノ はいはいはいはい やる

 

 

( ´ - ` )ノ あd$)囘('&テ弬d&$ツ#$ス(説明中)

 

・都市のパーツと自宅(寝室)内を接続すること

・前回バラバラにしたことで再結合・再組織化したこと

・各写真は個体であり部分であり、全体もまた部分となること

・流体であり相互補完すること

・自己の表現主義ではなく、2,019年の都市生活の記録であること

 

 → (了解)

 

 

( ´ - ` )ノ テテーン

 

 

なんとかなりました。

 

これから計14作品の調整レタッチ→プリント→額装を早急にあれします。

そして論考、文章。

 

文章。

 

これが。

地獄ですよ。

 

「あんた日頃アホほど書いてるやん」そうなんですけどね。「アホほど書くやん」そうなんですけどね。「あんたアホやん」やかましい。

話が全く違うのです。他者の考えや思いを言語化することと、自分が透過してきた気配やビジョンを現世に結びつけるために言語化することとは、全く違う。ちがうんですよ奥様。肉を食って味のことを語るのと、自分が食べてきたものが何だったのか、それが肉だったのか、だとすればどんな肉だったのかを考えて語ることとは、全く違う。やべえ。根柢では繋がっとるんですが。

文章。作品の支持のためでもなく、付随でもなく。されど逸脱や反逆ではなく、作品と趣旨を同じくする展開をしつつ。しかし偏差値60台そこいらの学生の「優秀な」小論文ではない、そして反知性に淫する感傷や自尊のポエムでもない。ちゃんと度数40度超えの酔いの回る威力を発揮し、「この文章は・・・あいつの・・・」と、誰もが判る毒性・・・。しかし事実に立脚し、しかし高揚感を伴い・・・熱い吹雪のような・・・

 

( ´ - ` ) ァルア"--ζ ζ ζ

 

ああもう。

 

( ´ - ` ) そんんなわけで土曜日は発狂しながら日本語と格闘し、「IoT」が泣き顔に見えるというゲシュタルト崩壊を起こしながらIoTについて調べつつ、健やかに過ごしておりました。わあい"。

 

自分のチェック出番が終わったら、教務でウイルスにあくたいをつきながらテリ・ワイフェンバックを褒め称えるなどし、会場設営の釘打ちで爆死するのが目に見えているので、楽をするためにレーザー墨出し器やミニレーザー装置の導入を検討し始めました。わたしレーザー派になります。ビーッ。

 

進捗が火を噴いているので早々に家に帰るのですが、

 

あー気になる。

 

ああー この作品は気になる。

 

 

この作品は、食卓にのぼる魚が切り身にされ、その頭部がビニール袋に包まれているところを撮ったものでした。食材として鮮度が高いので、ビニール袋と一体化し、別のタイプの生命体になっているようなビジュアルが興味深い。

これは展示会場で改めてちゃんと観たいです。

 

2019年度は学校に来なさ過ぎたうえに、TA(Teaching Assistant)も務めていなかったので、誰がどんな作品に取り組んできたのか、そもそもどんな方が通っていたのか、Facebook上の情報以上のことは何も知らなかったのです。サーセン。

(※写真表現大学では、入学1年目のクラスとその後の「研究ゼミ生」は基本的に分離されている)

  

 

( ´ - ` ) あぶら売ってないではやく帰ります。

あぶらそこむつ。

 

うむ、いいよね。建設現場はいい。

小松浩子作品が好きなのか建設現場が好きなのかと問われれば後者なのでしょう、なんせ何かが生まれている現場ですから。実にスリリングな。

 

 

淡路駅から徒歩3分ぐらいの「縁乃助商店」で「汁なしHOT麺」を食べます。これは濃くてうまいうまい。うまいうまい。

こちらは「味玉ポタチキそば」(要は濃厚な鶏白湯のラーメン)が1番人気のようですが、私は汁なし原理主義者なので、汁なし一択です。

12時過ぎに行ったら高校生が5名と、Uber Eatsのバイク3台が並んでいて、なかなか繁盛店です。日頃あまり外食をしないのでUber Eatsが店先で注文あがるの待ってる様子を初めて見た。あれ実在したんですね(昭和脳

 

 

ふうー。

後に自身の腹から湧くニンニクでむせ返ることになりますが、よかった。

店を出る時も5,6人が待っていました。人気ですね。

 

 

ゴリラ。

 

試しに駅前のドラッグストアをのぞいてみましたが、マスクは全く売ってなかったです。これはもう壊滅的で、民はお手上げです。ウイルス無かったことにしますか? そういうわけにもいかんわな。中国より後退した国と国際社会に見せるわけには。でもなあマスクないねん。ない。

 

あからさまにマスク手に入らんのに、花粉は確実に大気に充満しつつあり、明らかに鼻がバカになりつつあります。クシュン。

せき・くしゃみで電車内で爺に滅茶苦茶絡まれた、あげく列車を緊急停止されたという事案が報告されていましたが、滅茶苦茶です。そういう爺は、自分でマスクを買いに行くという体験が抜け落ちている、つまり妻か子供か孫の恩恵に預かっているので、「そんなものぐらい常備するのが当然」と思い込んでいるのではないか。そう思いました。なぜなら自分の足で買いに回れば、市場にマスクがないことを痛感し、電車内で他者がマスクをしていないことに対して市場動向からの想像が及ぶはずだからです。その想像が微塵も無いのは、想像の着火を催すだけの情報を得ずに済む、父権優位の生活スタイルが長年堅持されてきたか、庭の樹にマスクが成っているか、単に認知機能が衰えて感情のブレーキが利かなくなっているかのどれかです。ご愁傷様です。

 

いずれにせよ迷惑なのですが、マスクは生き物ではないので自分で増えることができず、実に厄介な問題です。ただし使用済み、ヒトの手を離れたマスクについては最近かなり路上で見かけるようになり、商品・衛生としての「マスク」からこぼれ落ちた物体としてのマスクは自己増殖のシーズンにあります。

 

( ´ - ` ) おい最後のやつ。

 

風光明媚や美貌を撮るよりも、役目や記号、制度からこぼれ落ちて、定義不能になった存在をみとめることのほうが、私の性分としてあれです、自然というか。なんでかな。でもこれらは光って見えるんすよ。ぼんやりと。

 

これらは言語の網からもすり抜けるので、言葉でまとめ上げようとすると苦痛が伴うことになり、ではどうやって語れないものを語ろうかというと、もう文体の開発によって為さざるを得ません。文学、詩の領域でしょうか。それとも社会学か。いずれにせよ非常に筋力を要する作業ですが、山登りにかなり似ている気がします。「なぜ山に登るのか」という問い自体には意味はなく、登ることで山が本当の「山」となる、とも言えますし、自身を山に投げ入れることで山の言語そのものへと化してゆくため、目的が消失するとも言えます。

 

( ´ - ` ) こうして「論述の苦痛を論述で散らす」という、蛇が蛇食って大きくなるようなことをやっているあたり、Twitterには向いていない性質だと実感します。ていうか本当にこの半年ぐらいでTwitter滅茶苦茶になってないか? ランボーしかいない雪合戦(石入り)が凄くて正直疲れた。