写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】苅部太郎「INCIDENT」@IMA gallery

【写真展】苅部太郎「INCIDENT」@IMA gallery

写真×デジタル×ベンチャーの気風を感じる展示でした。

【会期】2020.1/24(金)~2/8(土)

 

これ何が写ってるの? 観客のそんな声が聞こえてきそうな、ギザギザした画像の乱れた写真が並ぶ。奥行きのないデジタルな乱れ。写真なのか、画面なのか。

 

実体、物理の存在しないヴィジョン。しかし物理的にデバイス上に発生した、確かな現象である。作者はデジタルテレビの画面に生じさせた「グリッチ」を写真に撮り、そのイメージをプリントとプロジェクターの投影によって物理世界に立ち現わす。

グリッチとは、バグやノイズのことだ。映像にバグの生まれるところを大別すると、送信側、回線側、受信側の3者があり、本作のグリッチ生成の舞台は受信側であって、作者は受信デバイスに何らかの形で介入しては、これら実体のないビジュアルを捕獲している。

 

グリッチの出現と捕獲には手間が要される。『リアルタイムに流れるデジタルTV放送にグリッチを発生させ、画面を有機生物のように埋め尽くすノイズをザッピングして捉え、そうして得られた画像を回転・トリミングして元のコンテクストを破断する作業』という工程を経て、本来のTV視聴では出会うことのないイメージを提示している。

作者が別の機会でインタビューに答えていた記事を見たが、グリッチが生じるためには何百回と試行が必要で、発生も一瞬のため、撮影には相当苦労するそうだ。今の時代、有線・無線に関わらずデジタル情報を受信する際に遅延や待機が発生することはあっても、このように色と形が狂暴化し情報として破綻することはまずないだろう。自宅の地上波デジタルTVを眺めていても、本作のような乱れ方をした試しがなく、生活上のデジタル体験としては未体験の領域と言えるだろう。

 

だがやはり見覚えのあるイメージである。懐かしくすらある。

作品を近づいて見ればカクカク、ギザギザしたウイルスのようなピクセル感がフォトコラージュに非常に似ており、遠目から見ると映像のゾンビに見える。90年代~ゼロ年代によく見た気がした。当時は映像の送受信も画像の出力も全てが低容量で全てが粗かったため、デジタル=ピクセルの荒く切り立った、ザラメのような2次元、という印象を私達の身体に強く刻んだ感がある。

 

近未来的なデジタル社会における情報の高度化、氾濫を平面イメージに起こす事例というと、まず一方では洗練された電脳世界、『マトリックス』や『攻殻機動隊』、池田亮司の映像作品など、個々の意味やクオリティの担保された情報の粒が過度に注ぎ込まれるという、調律が効いた、洗練された氾濫が想像される。その対極で、ファミコンのカセットを半挿しにして揺らした時のバグ画面のように、物理世界にはないカオスで暴力的な、間違えて新宿を100倍の密度で作ってしまったような、鮫肌やヤスリでWebのインターフェイスをがりがり削ったような、無秩序な増殖や荒れた質感、中心のなさ、終わらない繰り返し、などがこれまでも注目されてきた。

 

情報が情報としての価値を徹底的に持たなくなることによって、日常に体験する世界の外側にある新たなイメージ、偶発的事故の抽象画として新たな価値を見出される動機は確実にある。物珍しさだけではなく、既存の意味の失効、解釈の自由の奪取、表層的イメージの加速の虚無的な快感――そして旧来の権威の無効化である。つまり現代美術が20世紀前半からやってきた歴史そのもののような話だが、それはデジタルの平面表現、特にノイズやバグを巡る表現の試行、実験における根本的な動機として、確実にあるように思われる。もっとも今後、更に何十年と繰り返される中で、徐々に様式美へと転じていくのかもしれないが。

 

本作の元々のイメージはTV放送の番組で、しかも報道番組のいち画面なのだから、前後の意味や発信者は必ず存在するはずだ。が、この作品を見て元の画面を思い浮かべることは非常に困難である。そうする意味もほぼ無いだろう。むしろ行為について魅力的だと感じる。デジタル、Web領域にも居場所をしっかりと確保したテレビ放送(=旧来からの権威)に対して、個々人の手法を工夫すれば、個人の手技によって未開拓の荒れ地を発見し、そこに自身の名を打ち立てたり、情報の素子を意味=支配から解放してやることが実は可能であると、本作のノイズに満ちた作品は示唆しているように感じられた。

元々、インターネットとは、中央集権的な国家、政府とは逆の思想、広く水平的に、情報や発言の自由と共有を目的として生み出された場であったはずだ。中心がないこと、意味が解体されてゆく有様は、公共の場における自由の話題に繋がるものだ。通信や出力上の不具合から生じたノイズの画像を「作品」として作者や関係者は提示し、我々鑑賞者はそれを「作品」として受け止めるのか。いささかゲリラ的な手法ではあるが、そこに自由の余地、中心なき余地を奪取できる可能性を見出せるからではないだろうか。

 

情報の大容量化の進むWebにおいては、今後ますます巨大企業の存在感は高まり、多くの情報の権利がそこへ紐付けられるだろう。しかし暗い話ばかりではなく、一方で新興勢力のベンチャーにとっても可能性に満ちた将来と言える。作者が今回、プロジェクターの像を投射しているフィルム面は、「フォトニックフィルム」という、中国・深圳のHolo Kook社が開発した新しい技術の製品である。日中や屋外など、これまでプロジェクションに適さなかった明るい環境下でも映像を鮮明に表すことが可能となっている。

 

本作の取り組みは、ダーク・ベンチャー生存戦略に繋がるものと個人的に解釈した。情報を情報価値がなくなるまで攪乱し、「作品」と名状することによって社会へ戻すという戦略である。

GAFAなどのグローバル企業がWeb内での存在感をどこまでも高めてゆく中で、個人が自分の手で居場所、表現を確保することの可能性は、ラディカルな、裏技のような手法も含めて、今後も追求されるべきだろう。それは写真が次の時代にも有用であると示すチャンスでもある。最新技術と写真とを結びつけて試行していることが、非常に面白かった。

 

 

( ´ - ` ) 完。