写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】リボーンアート2019⑥ 鮎川エリア(後編:鮎川東部・コバルト荘方面)

【ART】リボーンアート2019⑥ 鮎川エリア(後編:鮎川東部・コバルト荘方面)

鮎川エリア、町から山道を10分ほど走ると「コバルト荘跡地」に辿り着く。石川竜一が穴を掘り続けていることが以前から話題になっていた。写真家が穴を掘る。どういうことだ? 全く意味は分からないが、とにかく見ないといけない。そう強く感じさせられてここまで来た。それは「穴」どころではなかった。

 

 

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右ページ【F7】【F8】のところまで行きます。

 

 

 

山しかない。アートと無縁の・・・山。山に囲まれてると急にしゅんとなります。アートの入り込む余地がない。アートはあくまで対人、対社会の取り組みであって、海や山には、全く無効で、滑稽と言うか。

 

 

しかし山の中で、その無効で滑稽に思える行為に従事している作家がいる。

 

 

◆【F7】石川竜一《掘削》

( ´ - ` ) 地形。

 

 

( ´ - ` ) どういうことや。

 

写真家・石川竜一が現わしたのは、写真はなく、地形でした。事前に知ってはいたので驚きはしなかったが、別の観点で驚いた。

左端に少し写っているのがインフォメーションと便所、写している背後に駐車場。会場スタッフから、立入可能な場所と侵入不可の場所について説明を受ける。作品というレベルのスケールではなく、思わず「これは地形だ」と呟いた。Twitterがあってよかったですね。人類は大きすぎるものを目にするとバグる性質があります。表出するとバグがおさまります。ふうー。

 

( ´ - ` ) どうです。

 

 

( ´ - ` ) 立派な地形でしょう。

 

全然伝わらない。

これ大きいんですよ。深いし広いし大きい。パワーショベルで掘ってあるので、人間が谷の中を余裕で歩き回れる広さと深さがあります。私の写真の腕が悪い。だけではない。写真はそもそもスケール感を身体的に正しく反映しない。天気が曇りで陰影がつかないためか、のっぺりしてしまって、余計にスケールが分からない。現物(現地)に立たないとだめ。

では現地に立ったら感動するか。否である。そういうものではない。一人の作家がこれを作った(掘った)ことに感銘は受けるかも知れない。では土地の物語が? 否である。ここは元、国民宿舎コバルト荘という3階建ての建物があった。1971年、コバルトラインが開通した後に建てられたらしい。2006年に廃業、2014年に解体。その物件自体、立地自体に何か特別な意味があるわけではない。本作のコンセプトというか制作動機はまず「何の意味もない穴を掘ってみたい」という作家の極めて個人的な思いから始まっている。

では個人の作家主義的な表現か、何かの主張の代替行為なのか、というと、全くそうなっていない。食欲や性欲に近いのかも知れない。計算や目的による整い、彫刻的な造形性どころか、形を成すこと自体が排されていて、誰かが作った(掘った)とは思えない不規則に溢れている。それで表現ではなく「地形だ」と呟かざるを得なかった。造園や地学に心得のある人が見たら、何か凹凸の根底に流れる意図や法則があることに気付くのかもしれないし、そんなものは無いという結論に至るかもしれない。

 

石川は当初、スコップでの手掘りに挑んだが、コンクリートに歯が立たず、作家自身がパワーショベルの免許を取得して穴を掘ることにしたという。そうして「掘る」こと自体を日々押し進め、没頭したわけだが、人はどこかで「正しい」「美しい」掘り方、整った形へ向かおうとしてしまうこと――プールのような長方形に切り出したり、環状に掘ったり、遺跡のように階段状にしたり、という動機が働いてもおかしくはない。石川はむしろそうした「正しさ」や目的意識、「自己」を手放し、回避している、文字通り無心を体現するような掘り方をしている点が、非常に特徴的だ。

意図や計算を躱して「掘る」という行為を続け、掘った後の土を積み上げる行為の連続から、結果として小さな地形、「自然」のようなもの、亜自然が生まれている。そういう態度は写真の撮り方にも通じていくものかもしれないし、また別のものかも知れない。積み上げられた土砂は自重で安定している。積み方が下手だと崩れたりもするのだろうか。作家の手の及ぶところとおよばないところの緩急が総体としての地形を成す。「掘る」ことにしても「掘らない」行為との兼ね合いがある。残ってしまった部分、残された部分が「正しさ」を攪拌し、原初の大地としてのランダム性をもたらしている。

だが、近付いてミクロで目を向けると、山盛りの土砂にはかなり多くの人工物が混ざっている。ビニール、プラスチック、鉄の残留物がかき回されて露出する。ここは原初の大地どころか、一旦、人工物、人の営みがリセットされ埋もれていたことが分かる。まるで遺跡の発掘だ。穴(谷)の中で直線に伸びるパイプはあえて撤去せずに残されたのだろう。内部と細部を見れば見るほど、段々と生活、営み、それを埋めて覆った土、と、やはり震災へどこか連想が向かう。

遠めに見るときの掘り返しの規模、起伏のダイナミックさに目を奪われるが、人の営みの地層が掘り返されることは、今回の地震による廃墟化した都市文明の直接的な反映ともとれるし、いや、地球の運動のことを大局的にもっとマクロの目で表しているようでもある。この人為と非人為の痕跡と凹凸のうねり、交わりを表出・堆積させたところは、「鮎川集会所」で展示された作品《痕》、写真作品と被災後の爪痕を留める空間とが見せたものと、対になるものだ。

 

その照り返しで、目について最も印象に残ったのが、掘り返し後に芽生えた自然の姿である。次々に草が生えてきている。掘り返した箇所によって経過時間は異なると思うが、8/3からの開催だから1~2か月の間に「雑草」がどこからか紛れ込み、繁殖を始めたのだと思う。いや、しかと繁殖している。

人為のなりゆき、在り様に関わらず、自然の側は勝手にまた繁茂と再生してゆく。自然側からすれば再生という言葉すら不適切で、元に戻るも何もなく、全てが「今」でしかないのだろう。そしてそれぞれの植物の姿形、種類は異なる。名前を知らない。「雑草」としか。がれき、土砂の上に咲くと個々の「雑草」の姿が浮かび上がる。これは「鮎川集会所」の島袋道浩《鮎川の土 ― 起きる/鮎川展望台》に通じる。そして作家のコントロール下にはない現象だ。全ては星にとっての日常の運動、結果論なのだろう。

 

総じてスケールとアトランダム性という生の体験でしか分からないものだった。ランド・アートと呼ぶにはもっと素朴で無名性が高い。もの派の行為と姿勢を、ものを食い破ってその先へと向かわせて土に還したような、エクストリームさを感じた。面白かった。

そして会期終了後、石川竜一はこの穴を埋め戻しているらしい。日中、このコバルト荘跡に来れば、その勇姿が見られるかもしれない。

 

 

◆【F8】島袋道浩《白い道》

白い道です。

石川竜一が掘り返した敷地の脇へいくと森へと下ってゆく坂道があり、白い砂利が敷き詰められている。時間も惜しかったので手前だけ撮影して引き揚げようと思ったが、なぜかその先が気になって歩を進めてしまう。カーブになっていたり木々で隠れていたりしてその先は歩き進まないと見えない。歩きましょう。

 

歩いた。

 

白い道の先には海がありました。正面には金華山がたたずむ。手前の木が視界を遮る。眺めが格別に良いわけでもない。白い道がなければここまでわざわざ来なかったと思う。何のために人は歩くのか。一つは目的意識、一つは無目的な好奇心、もう一つは、反射的な反応として踏み出される1歩の連続。この白い道は3点目の「反応」の積み重なりを生んだように思う。 

『白い道 ― 鳥を呼ぶ 鳥と話す』とある。呼べるらしい。

皿に盛られた金具のようなものがバードコール。金具をつかんでこすりあわせ、『自分が鳥になった気持ちで、ゆっくり鳥の声をつくる』という感じで鳴らすらしい。『鳥が来てくれるように想いを込めながら、まわりを見渡して鳥をさがす』ええ、はい。『鳥をみつけたら、鳥と話す』 ええ、はい。

 

皆さんは鳥と話せましたでしょうか。

あいつら絶対人間のこと良くは言わないと思うけどなあ。どうなんでしょうか。脳は小さいらしいから、あまり難しいことは考えてないかなあ。等々。この作品は意味を考えること自体が野暮というか、体を動かして作品に乗っかることが肝要、ということでございました。

帰路の「白い道」は上り坂になるのでいい運動でした。地方を回ってると車生活になってしまって全身がなんかたるんでくるねんな。歩きましょう。

 

 

( ´ - ` ) 完。

 

石巻の市街地を目指して引き返していきます。