【写真live】2019.9/28(土)熊谷聖司スライドショー「オーラクマガイセージ」@Solaris
作家本人によるスライドショーと、ギター音を鳴らしてのライブ。その空間は実に写真的であった。
【期間】2019.9/28(土)19:30~20:30
ギャラリ-の中央に白い紙が吊るされ、ハーフカメラの映像が2枚1組で次々に現れては消えてゆく。 スライドの切り替わり時のガチャンと刻む音とギターのうねる音とが、写真の光に絡まってゆく。写真は色だ。奥行き、像の輪郭を失い、色が平面の中身を満たしている。
写真とは何だろうか。写真が最も「写真」的であるとはどういう状態だろうか。写真とは、多彩な要素の組み合わせから構成される、文体を持つ映像表現である。構図、露光、陰影、ピントとボケ、機材の選択といった技術面の要素から、テーマ性、社会との関連性、制作動機や費やされたこだわりといった作家性の要素など、多角的な要素から構成され、それぞれが評価軸としてのパラメータを持つ。それらの最適化を目指し、自身の撮る写真が「写真」として成立し承認されるために、プロ・アマ問わず多くの人々が各要素の水準の確保に向けて鋭意努力を行っている。いや、半ば無意識に、写真界隈に属さない一般人も含めて、誰もが文法的に「正しい」写真を求め、査定し合っているようでもある。そうして担保される価値体系は貨幣経済のようにも見えることがある。
だが、「写真」とは元々何だったのか。そもそもは外界の在り様が、光によって「写る」という現象のこと、そしてその際の光を陰影や色として留めたものが、「写真」だったのではないか。外界が光を放つ、光を帯びる。それを感光という化学反応によって像を現し、定着処理によって外界の複製品として形を留めたものが、写真である。光に感応して、像が現れるという現象こそが、「写真」の最も本質的な姿ではなかったか。
色に溢れ、奥行きの無いスライドを何枚か目にして、私はニエプスの《ル・グラの窓からの眺め》を思い浮かべた。世界で最初の写真と名高いそれは、ピントも、奥行きも、被写体との関係性もなく、ただ、この外界が「写真」という新たな形で、光の生命を帯びた瞬間である。《オーラクマガイセージ》の平面性と色の溢れは、そうした「写真」の原初の姿をたぐりよせていると感じた。光の波長は、色として平面に現れたところ、まさにその浮かび上がりを瑞々しく捉える。しかし作者は、写真史的な古典に回帰し、文化保護者の立ち位置に就くのではない。「写真」の生まれる瞬間、平面が光を帯びる瞬間を、「今」「ここ」に繰り返し現わし続ける。非常にコンテンポラリーで、自由に満ちた営みだ。
「タイトルの”オーラ”っていうのは、あのオーラじゃないからね」、冒頭で付されたとおり、ここでの「aura」はスピリチュアル、霊的な意味ではなく、英語での字義でいうところの「物体から発する微妙な雰囲気、発散物」というニュートラルな意味合いに近いだろう。無論、ベンヤミンの唱えた「アウラ」の意味――複製と大量生産の技術によって失われる一回性の権威や力、或いは反復可能性から生じる新たな価値、に紐付けて考えることは可能だと思う。が、熊谷作品の在り様はもっと自由で、作家自身のその時の気分、関心や周囲の状況と常に関連し合いながら展開される。旺盛なライブ性がこの夜、我々観客に示したものは、もっと直接的に五感を支配する色=光の発散、「写真」なるものが現れる瞬間の体験だった。
「俺、どんどん写真がヘタになっていってるからね」との言葉が興味深かった。熊谷氏が試みるのは、文法の約束事として構造の出来上がった「写真」から、光を受けて生まれた瞬間のイメージ体へ立ち戻って、全身で掴み取るための、身体を賭した試みではないだろうか。身体に埋め込まれた文体を置いて、世界の光を捉え直す。
こうして言葉で書くのは簡単だが、実践は困難だ。どれだけのシャッターが切られ、プリントが繰り返されてきたのだろうか。その過程で、他の分野における「表現」と、「写真」との根本的な差異が、作家のうちで幾度となく問われてきたものと思われる。スライドショーのライブという形で、「写真」なるものが生まれる瞬間を実演するのは、現段階の回答の一つであろう。だが、強力な回答だった。
スライドショーでは熊谷氏自らギターを奏で、いや、弾くというより音を発生させ、響き、うねる。スライドの切り替わりの音が場を刻む。スライドを切り替えるテンポも変化する。突然、暗転の間隔が速まる。スクリーンに表示される位置やコマ数も故意に乱される。大きくズレて、2枚1組の片側が見えなくなる。全てが破調によって為された。ライブは当初、ミュージシャンを招いたセッション形式だったが、メロディーを作ろうとすることから自由になるため、今では熊谷氏一人で行われている。スライドは同じものが繰り返し表示されたり、入れ替えられたりする。ショーの時間そのものは一方向だが、イメージの展開には前後左右がない。次のショーの際にはまた異なる順番で実演され、再現性はない。写真でしか出来ないことだ。
予期せぬ光と音の中で、コマの切り替えが連続で繰り出されるとき、まさにその光を受ける我々は写真装置の内部の一部となった。スライドの切り替わりの度に暗闇と光・色が網膜の奥を激しく叩き、叩き、叩かれたある瞬間、色で光る平面の中と自分とが直結した。3D錯視が浮かび上がるのと逆の作用とでも言おうか、こちらの視界が、色の平面の中へ嵌まり込んだ。
写真の声は映画や小説よりも小さく弱いかも知れないが、盤上の升目を無視して自在に動き回り、こちらを撹乱させる可能性に優れるようだ。そして光に立ち返ったときにの、引き込みの力は強い。
感光する媒体、感光によって生まれた像、光の場所へ、直結した。これが「写真」の視界なのか。「写真」が観た世界なのか。今までに味わったことのない体験だった。言葉では補足できない光、色の気配を放ち、幾らでも複製・反復を繰り返しながら、再現性のない像を現わしてゆく。この「オーラ」は強く心地よかった。
写真でスライドショーを撮ると、やはり別物になってしまった。写真で撮るとノスタルジックな光景に見えるが、実際に眼で光を受けたときの知覚は、作家の、あるいはこちら側の、個人的な主観や思い出といったものから自由なイメージだった。その瞬間、この体は写真に近づいていたのだと改めて思う。
( ´ - ` ) 完