【写真表現大学】R1.8/26(日) 太田順一先生の受賞祝賀会(第35回写真の町東川賞_飛彈野数右衛門賞)
2019.8/25、私の通う写真表現大学にて、講師を務めておられる写真家の太田順一先生の、「写真の町東川賞」(飛彈野数右衛門賞)受賞の祝賀会が行われました。
( ´ - ` )8888(訳:おめでとうございます)
太田先生の作品や経歴については過去の講義にて詳しく語られています。代表作として《日記・藍》《ハンセン病療養所 百年の居場所》《父の日記》などの写真集が知られています。
太田先生が受賞されたのは、写真に関心のある人ならよくよくご存知の「東川町国際写真フェスティバル」における審査です。今年の他の受賞者には志賀理江子、片山真理、奥山淳志、ローズマリー・ラングとなかなかの顔ぶれが名を連ね、8/3~8/28の会期で作品が展示されていました。展示。まあその。私。行けてません。見てないんですなあ。東川。行ってみたいと思いつつ。なにせ北海道。会場の東町は旭川市の南東に位置しており、いやあ、結構その。遠い。行けてない。行こうとすれば行けるはずなんですけどね。行けてまへん。あああ。
東町は人口8,000人ほどの非常に小さな町ですが、まち起こし施策として1985年に「写真の町」宣言をしてからというもの、紆余曲折はありつつも、写真フェスティバルとして展示や受賞式などのイベントを続けてきました。その甲斐あって、現在の高い知名度に繋がっています。もはやブランドですね。多くの人は、東川町の位置はよく分からないし、行ったこともないけれど、しかし町名を見聞きすれば即・写真のことを思い浮かべるといった具合なのではないでしょうか。
畑館長の解説によると、黎明期の立ち上げには東京の写真勢はあまり乗り気でなく、むしろ主として関西から多くの写真学校の生徒や写真関係者が駆け付け、ボランティアとして滞在し、イベントを作り上げてきたそうです。かくいう表大の先生方も当時携わっておられたり。
80年代、まだSNSどころかインターネットもない、PHSすらない時代に、画期的なことだったと思います。
日本写真の中心地・東京とは距離をおいたところで、写真の文化が生まれて根付いていくという流れは、今回の太田先生の受賞とも繋がる話であります。なぜなら太田順一という写真家がこれまで取り組んできた仕事の多くは、東京でもなければアメリカやヨーロッパでもない、紛争地でもファッション界でも伝統芸能でもない、「関西」の「日常」を舞台として撮り続けられたものであったからです。そして、今回の受賞理由がまさにその点を評価したものだった。
このことは、関西をベースにこれまでも、これからも生きてゆくであろう私達にとっては、非常に希望のある話です。何より写真界が、東京以外の動向についても認識し評価するという態度、必ずしもTokyo First ではないという一定の姿勢を見せたことには意義があります。東川賞だからできるという話かも知れませんが。関西は東京、ひいては写真界の亜流、傍流なのか? いや、そうとちゃうでと。関西含めての日本やでと。関西人としては思うわけです。個人的に。血圧があがります。
そんなこんなで乾杯までがやや長かったですが、結婚式ってこんな感じだったなあとか走馬灯が巡る中で、そう言えば他人の結婚式しか出たことがなかったなあなどという客観的事実を思い出して豚のような笑みを浮かべました。ブヒヒ。
さてこの祝賀会でのキーワードは二点あって、一つは畑館長の「写真家の仕事は、日常を撮ること」という言葉に集約されます。
畑館長からは「海外の紛争地域の取材などは、ビデオグラファーに任せればよい」、「写真家の仕事は今、かつての小説家の分野に及んでいる」との話が折に触れて繰り返されました。即時即応、今起きている事件や出来事を追って、今、発信・拡散するには、動画メディアに長があるということです。しかし、だからこそ見落とされる何気ないもの、日常や自己や隣人といった非(無)センセーショナルなものと向き合うには、写真という時間的射程の長いメディアに長がある。そういうわけで、写真と写真家にはまだまだやるべきことがある。そういう主旨のお話でした。
おおむねそういう感じで、太田先生への祝賀と同時に、会に出席した生徒各位への意識付けや意欲の増進などが行われ、飲み会と授業が融合したようなスタイルになってまして、なんかこうちょっと身が引き締まると言いますか、「酒を飲んでも良い授業」とも呼べるような、すなわちなんかこう、酒が進んだので、あとでびろんびろんになりました。引き締まってないやないか。はい。みなさんタフな写真家になりましょう。
( ´ཀ` )ノ おうい焼酎くれ。
( ´ཀ` )ノ 焼酎いもロックで。
飲めもしない焼酎を呷ってウロウロしました。ウエー。
キーワードの二点目は「努力はいつか報われる」です。これは太田先生がおっしゃっていたことで、今回の受賞の一報を受けたことを「空から天使が降りてきて、″ ちゃんと見てるからね ″と、僕に囁いてくれた」と喩えておられました。
「報い」。
もちろん良い方の報いですが、これは他の写真家の方もちょいちょいトークで吐露する、共通して重要な、核心の話です。
よく言われるのが、写真家は報われないということです。ハデに報われる人もいたり、そういうハデな時代もあったかもしれません。しかし今、多くの写真家にとって、その生き様は、別に輝かしいものではない。最先端では全くない。金持ちにもスターにもなれない。作品が広く多様な層の目に触れるとは限らない。確かな眼で評してもらえるわけでもない。社会を改変する存在となるわけでもない。
ではなぜ写真家は、写真家になったのか。写真家であり続けるのか。時間、労力、お金を、自腹を切っては投じて、結果、何が見返りとして得られるのか。個人的な関心や、個人的な使命感を発端とした表現、写真行為を、身を切りながら続けた先に、果たして何があるのか。
写真家に限らず「作家」は孤独です。スナップ写真でもコミケでもコスプレでも応募小説の投稿でも何でもそうですが孤独な戦いがあります。中には狂気に蝕まれすぎてガソリンをあれする者もいますが、あれはだめですし、病院に行かないとだめな症例でしたが、表現と人との関係において、報われないという話は絶えず付きまとっています。確定的に狂うことはなくても、うっすらどこかが狂っているからこそ、報われない表現行為を重ねつつ人並みに人生を回していくことが出来るような気がします。どうなのでしょうか。そこが「作家性」なるものの泉に繋がる話のようにも思います。
作品が世の中に認められる、この世に、誰それ某という「作家」が存在しているという事実を認識され、評価される。それは簡単なようで実は難しいことかもしれません。会社など組織であれば、新人研修でも管理職研修でも「部下や同僚の存在をまず認めましょう」「下請けやパートナーにも礼儀正しく」「部下の資質や成果を評価しましょう」と口酸っぱく言われ、派閥や飲み会や人事管理など「人」に関することは再重要使命であります。が、作家には、そんな制度や村はありません。本質的には孤立無援です。作家は、単独行動する宇宙飛行士のような、厳しいところに生きている人種のように見えます。
表現行為の先に(後に)あるもの――そこで望まれる「報い」とは、予期せぬ誰かからの、真っ当な感想や評価、批評なのではないでしょうか。もちろんお金も欲しいですが。お金だけだと、しんでしまう気がします。その人のことを、一人の写真家として認めてくれる声こそが、孤独な個人へもたらされる「報い」、不意に訪れる「天使」的なものなのではないかと感じました。
そうした「報い」がもたらされることによって、作家は生存の許しや手応えを得ることができる。「作家」という生き物の露命をつなぐのだと言えそうです。
太田先生は、諸事情からこれまで撮り溜めてきた8000本のフィルムとそのコンタクトシートを処分したエピソードに触れ、市のごみ焼却施設に段ボールを投げ入れた時のことを「今まで僕は、ゴミになるものを撮ってきたのだろうか」と語られました。
廃棄されたのが全体のうちのどの位か全部だったのかは分かりませんが、写真をやってる誰もが「ウッ、」と胸に銛の刺さる話であります。実際私も昔、実家に置いていたネガの束をゴミに出されそうになって慌てて引き揚げに行ったことがあります。胸に銛が刺さるじゃろ。表現なんて本人以外にとってはまさにそのようなものです。まあね。そのようなものなんですよ。焼酎むぎロックください。
ただし、やっていれば「誰かが必ず見てくれている」という、「報い」への活路は、やり続けた人にしか訪れないものであることも確かです。というかちょっとやそっとで報いとかそんなん無いからな。のたうち回るがよい(急に怒る)(発作)
「報い」の光を垣間見ることが叶うかどうか、それによって「作家」として息の長い活動を続けていけるかどうかは、ちゃんと活動して、早いうちから飢えたり報われたまた飢えたりりしないとだめだやな、初期体験が肝なんやなと。それで結局は、テーマ性を世の中に突き付けて、早い段階でしっかりと評価されましょうねという、わりと現実的な話になります。実際そんな話になりつつあり、酒が進みました。わあい。皆さん成功体験を積んで、タフな作家になりましょう。
個人的見解が多過ぎて太田先生が薄まりましたが、表現って、あれですよね。焼酎むぎロックください。
祝賀会の看板を掲げながらも実際は「酒を飲んで良い授業」みたいなものなので、生徒が次々に指名されては、太田先生に公開決意表明や公開質問を行いました。なぜか同じ講師の立場の浅野先生がトップバッターに指名されて、色々と決意を述べつつ、「好きなようにやりなはれ」と総合的な後押しをされていたのが印象的でした。タフな世界だなあ。
私は写真集「化外の花」について少しお聞きしましたが、太田先生が撮影をする際には、フィニッシュとして写真集の想定があること、つまり写真家と編集者という両方の視点を備えた上で、撮影が進行され、進捗管理がなされていることが解りました。理屈ではなく体の感覚で何かが分かりました。
「とにかく撮れるだけ撮りためよう。後のことは溜まってからセレクトして考えよう」という感覚の写真家は相当に多いと思いますし、まさに私がそういう無間地獄タイプなので、何ていうか目から鱗でした。多数の写真集を世に送り出し続けてこられたメカニズムの謎が少し分かりました。編集の眼です。いいですなあ。広いなあ。ほしいなあ。試しに視座を広げてみましたが、バイキングに供されていた寿司が一瞬で全滅していたことが分かりました。おうい。みんな喰うの速すぎるやろ。
( ˆᴗˆ )その後も宴は楽しく進行し、合間に館長による写真集レクチャーを細かく挟みつつ、元・大阪芸大での教え子、若林女史からの花束贈呈や、全員での記念撮影を経て、閉会となりました。太田先生「ひがた記」と東松照明「INTERFACE」との比較はテストに出ます。
今年度入学された方々とも少しばかり交流が出来たので、たいへんにありがたい機会となりました。しかし顔も名前も全然判らず、「うわあ認知症や」と焦りましたが、元々知らなかった人のことを知ってるはずもないので、帰宅後アホのようにFacebookで友達申請を押しまくりました。よろしくお願いいたします。
( ˆᴗˆ )太田先生、おめでとうございました。
( ´ཀ` ) その後の二次会で飲み過ぎて翌日たいへんだるかったです。完。