nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】時を超える:美の基準 @二条城(二の丸御殿台所・御清所)

【ART】時を超える:美の基準 @二条城(二の丸御殿台所、御清所)

たった4日間限定の展示である。うわあまじか。美術手帖をフォローしておいてよかった、と実感した。十分見ごたえがあった。名和晃平の繊細で神秘的な作品が闇に映えていた。 

【会期】2019.8/31~9/3

 

同時期に清水寺で開催中の「CONTACT」展と同様、こちらもICOM(国際博物館会議)京都大会の開催を記念して催された展覧会となっている。学芸員でもないので全く重みが分からんのですが、とにかく重要なイベントだという気がしてきた。

 

<参考:CONTACT展>

www.hyperneko.com

 

二条城の庭園入場料(600円)を支払えば、鑑賞は無料。展示作家は10名・作品は13点に上る。わあい。そして撮影自由、かつ、動画もOKとのこと。わあい。大盤振る舞いじゃあ。ほんとに会期の短さが惜しまれる。そういうわけで今回のレポートは一部動画を入れました。

 

台所、御清所はその名の通り、二条城の台所だった建物。普段は非公開なので地味に貴重な機会。今年のKYOTOGRAPHIEでも会場となった。個別に作品を じっくり観て回るのが、とても楽しい展示でした。「CONTACT」展とは真逆で、個々の作品が立っていた。

建物に入ってすぐ巨大な映像作品があり、入口は日光を遮るよう暗幕で仕切られている。暗がりに浮かび上がるのは宝石のような鹿と、超巨大な雲間のような映像だ。

 

 

名和晃平《PixCell-Deer#60》(2019)

球が大量に集まると、病気や虫の卵と結びついて生理的に気持ちが悪くなる体質ですが、名和作品でそういう症状は出ません。ちゃんと神秘を感じる。

タイトルの「PixCell」は画像データの粒を表すpixelと、細胞のcellとを合わせた造語である。このシリーズは様々なモチーフをガラスビーズで覆い、本体が直接見えないほどの密度で光を帯びる。本作は鹿1頭まるごとの剥製が光の泡で覆われている。像の「鹿」は直接見えない。ビーズの球面の重なりで遮られて歪み、反射した光に遮られる。像を見ることは光を見ることと同じとなる。光は球体として物質化していて、神秘的なのだがエモーショナルを超えた説得力、迫ってくる客体としての力を持っている。現代のピクセル画像の感覚と、古来の神獣の存在感が見事に合わさっている。純粋に、このディテールの細やかさ、どこを見てもまだその先に更なるディテールがあり、目の欲望を刺激する。穏やかながら強く人間の心と生理を突いてくる作品だ。

 

名和晃平《Tornscape》(2019)

横に長い壁面に流れる映像は、形を持たない。暗い室内では蠢く雲のような像が、形を変えながら、音を立てて、私たちの目を強く惹き付ける。靴を脱いで段を上がって、板間で座ってしばし身を委ねる。映像は大きければ大きいほど効く、という特徴があり、実際に耽溺すると心地よい。

写真で撮ると小さく見えますが、肉眼ではもっと暗いので映像が大きて支配的に感じます。写真は冷徹だなあと思う。こんなんとちがうんや。ちがうんや。もっとこう。

 

 


2019.8/31-9/3「時を超える:美の基準」名和晃平《Tornscape》1

  


2019.8/31-9/3「時を超える:美の基準」名和晃平《Tornscape》2

こうです。

 

この映像が特異なのはまさに「形」や方向性を持たない、自然界の何ものかの運動をそのまま映し出しているような不定形さにある。それは移ろいゆく雲間を見下ろしているようでもあり、体内の組織や免疫が働いている様子を観察しているようでもあり、粘菌やカビがダイナミックに新陳代謝を行っている姿にも見える。

新陳代謝というのは、像の内側から、内側から、絶え間なく湧き水のように次の動きが現れてくるところが、生命そのものの動きに似ているためだ。一般的な映像が、xとyの2次元:平面的な絵がパラパラと何枚もめくられてゆくことで、時間軸を伴って先に進むとすれば、本作は1枚の像の中にxyzの奥行きがあり、奥から奥からせりあがって堆積し、「面」は絶えず上書きされてゆく。

 タイトルの「Tornscape」とは、鴨長明方丈記」の英題の一つで、本作は「方丈記」の無常観をテーマにしているとの解説だ。方丈記を改めて読み返してみると、火事で財産が焼けたり、つむじ風(竜巻の小規模版)で家屋が破壊されたり、遷都、飢饉・飢餓などのイベントとその時の民の状況を記録している。現世は儚く、厳しい。読み込んでから映像に対峙すれば、生命性や自然というものとまた異なる情景を見出したかもしれない。

  

 

◆白石由子《蜘蛛の糸、鏡ばりの部屋》(2005) / 詩:白石かずこ

 座敷に来ると庭の方から音楽が聴こえる、中には女性の喋る声も混ざっている。詩の朗読である。


2019.8/31-9/3「時を超える:美の基準」白石由子《蜘蛛の糸、鏡ばりの部屋》

 

解説には、二条城についての詩だとある。タイトルの通り、音楽と共に芥川龍之介の作品へリンクするのだろうか。が、全体の長さが結構あるようで、一度聞いてから朗読のループが来るまで待つことが出来ず、全容は謎のままだ。庭を見ながら朗読を待った。次にどんな言葉が来るのかを待つのは楽しかった。庭は無為の時間を過ごすのにとてもよい。

 

宮永愛子《夜に降る景色-時計-》(2018)

名和晃平と並んで、個人的に「永遠」と「はかなさ」が相まった、神秘的な、日本的な作家だと感じている。モノの持つ形状や名詞などの記号的な役割をナフタレンの結晶が覆い、抽象化させ、遠い時間の彼方を見せる。時間を計量するための道具を用いて、時の流れを超えた世界を表している。神話めいた物語を帯びていて没入できます。

 

伊藤若冲《鶏図押絵貼屏風》(2013)  (※レプリカ / オリジナル:1797)

細見美術館が制作した展示用の複製品だと解説にあり、大胆にノーガードで展示してあったことに納得した。そうですよね。若冲をすっぴんで展示するとか、どういうことなんやとびびっていたわけですが、なるほど。

もうこれを見た瞬間に思ったのが初期FF(Final Fantasy)です。一枚の絵で躍動感、動きの時間を与え、見る者に「生きてますよ!」と一発で分からせる術を民に敷衍したのは、初期FFの戦闘画面、モンスターグラフィックです。ドラクエが主観の視座で自キャラの描写を省略し、敵を真正面から描くのに対して、FFは自キャラと敵が交戦している様子を真横から俯瞰します。和の古典的な絵画の系譜(=フラット性)にあります。鶏って普段、絶対にこんな動きしないでしょう。めっちゃかっこいいんですけど。若冲=初期FF説です。プレステ以降は知りません。

だからですね、最新のFFシリーズはCGハリウッド映画みたいな路線だけでなく、古典絵画のような「超平面だけど細密で濡れてて水墨的」な方法論もアリだと思うんです。若冲が最先端のRPGの世界観をこう、あの(略

 

◆RINne Associe《初音ミク × 伊藤若冲》(2017)

と思ったらちゃんとやってある。さすがや。現代のサブカルと和の古典絵画とのフラットネスを接続する試み。だって若冲の絵って、写実の範疇と幻想の範疇の重ね合わせにあって、それってTwitterやpixivで絵師が日夜腐心してる世界観と近いものがあります。鶏の羽の細部、先端の演出的なまくれ、ひねりはそのままキャラの衣装や髪のそれに繋がっているし、いいですなあ。ミクは企業の売り物として消費され尽くされた感があって、コンビニで関連商品が大量に売れ残っていた光景を思い出すと悲しいが、また20年後とかに爆発的に思い出しブームで滅茶苦茶拡散されてほしい。作品のレポートになっていない。はい。 

 

小林且典《山の標本》(2019)

岩を磨いたように思ったが、ブロンズの彫刻で、山の稜線を表しているらしい。地味ながら、広間に置かれていると気になって見入ってしまった。大きな幼虫みたいでかわいい。山は幼虫で、大きくなると火山で羽化して平らになったり海に還ります。言葉が要らない作品、あるだけで、触れるだけで何かいい感じになります。掛け軸の水墨画とかで描かれる「山」や、盆栽や庭園で表現される「山」を結晶体にしたような趣が、和の空間との良い感じを醸しているのかもしれません。

 

◆向山喜章《ヴェンダータ53-薫風/くんぷう》(2018)、《ヴェンダータ11-光明/こうみょう》(2017)、《ヴェンダータ11-月影/つきかげ》(2017)

京都という恐ろしい空間で、しっかり和室と作品とが緊張感を持ちつつ渡り合っていて、何げにすごいなと感じました。清水寺の「CONTACT」展がこのような展開を全く出来ていなかったことが残念。「京都」や「和」に飲まれずに「在る」ことが出来るのは何故だろうか。「光」との受け答えに集中して取り組まれた展示だからなのだろうか。 

 

◆チームラボ《生命は生命の力で生きている》(2011)

エンタメがやりたいのかアートがやりたいのかよく分からないチーラボさん(1文字しか略せてない)は、語るのが難しい。花鳥風月が動いています。技術的な繊細さと、古典の解釈力と、それらを民に伝えるプレゼン力に自信があることが分かる。じゃあ良いじゃないか、あんた何が不満なんだと怒られそうですが、たぶん彼らの仕事は新しい時代の社会における公営プールみたいな、アートエンタメの社会における集いの場を提案している。物理とWebの双方にまたがる交錯地点ですね。なので、個別の小規模な作品を「表現」としてどうのこうの評するのは照準が違いすぎて、難しい。

しかし、アートが公営プールばっかりでもだめなわけで、闇や轟きや蠢きがないとアートとしては死んでいると個人的には思う。美やエンタメという領域自体に疑義を呈するのがアートの仕事だろうと、そんなわけでアートの範疇って何ですのという議論になります。

本展示の大映像をチームラボにではなく名和晃平にしたのは凄く良かった。

 

 

◆西川勝人《Courant ascendant Ⅰ》(1995)

垂直に伸ばされた螺旋が1本、暗がりの部屋の中に立っている。タイトルはフランス語で、訳すると「上昇気流」。たぶんその場でサッと見てもだめで、暗い中に螺旋がじっとたたずんでいるのを、じっと向き合っていたら次第に見えてくるものがあると思う。写真は、カメラをわざと上にガッとブラしたのだが、肉眼で見たときより本作の趣旨が分かった。鑑賞時に人間の側も何らかの動きを加えたほうが良いのかもしれませんね。シュッ。

 

青木美歌《煙庭》(2019)

人気があって、観客がたえず撮影していた。広間の床に並べられたガラスの小宇宙、私はウイルス展だなあと勝手に妄想していましたが、具体的なモチーフはあるのかないのか。自然のフォルムが込められていて、いろんな角度から見ると素敵です。手持ち撮影時の露出の勉強にもなるので、こういうオブジェを撮るのはいいことだと思います。そしてこれらを観ていると、白石由子《蜘蛛の糸、鏡ばりの部屋》のサウンドと朗読が聴こえてきます。いい空間でした。

 

 

(※須田悦弘、ミヤケマイの展示は不注意により見落としていました。あうあう)

 

 

( ´ - ` )ノ

 

∴京都でも、京都に飲まれない展示は、できる。

 

これを見た後に清水寺「CONTACT」展に行ったから、余計に「アチャー」感が強かったんですよね。アチャー。そういうわけで、トータルで良い展示でした。会期もうちょっと長めに・・・ 有料でもいいから・・・。。

 

 

( ´ - ` ) 完。