写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真表現大学】H30.12/23(日)特別公開講座『日常の光景からテーマを見つける時』(太田順一 講師)

【写真表現大学】H30.12/23(日)特別公開講座『日常の光景からテーマを見つける時』(太田順一 講師)

自身の個人的な関心から、あるいは運命から「日常」の世界を見つめ、それらを写真集という形で世に出し続けてきた、関西が誇る写真家・太田順一先生のレクチャーです。お題は「テーマを見つける時」。皆さんテーマは見つかっていますか?

 

いつも登壇される写真家の方の敬称をどうするかで非常に悩み、作品や展示についての評をフラットな立場から書くために「氏」という呼び方をしていますが、太田先生は次年度から表大・研究ゼミで講師を務められるため、ここでは「先生」という呼称を採用することにします。

 

(1)序章

学校卒業前のビッグイベント「修了展」までいよいよあと3ヶ月といったところです。畑館長から「最後の2~3ヶ月の追い込みで作品は変わる」との激励を踏まえて、「講義の後には、お昼から、受講生の方には太田先生から作品を見ていただきます。我々講師は、皆さんの事前情報を何もお伝えしていません。真っ新な目、新鮮な目で、写真の先輩として、作品を見ていただきます」と前置き。緊張感をもって太田先生の講義が始まりました。

 

太田先生は、なぜかGoogle検索では「日本の政治家。静岡県菊川市長。」というプロフィールとともに顔写真が出ているのですが(2018.12/24現在)、これは罠です、別人です。

1950年の奈良県生まれ、「写真を始めるのはすごく遅くて、会社勤めをしていた25歳の時だった」と振り返ります。会社に馴染めず、子どもがいる中で写真の学校の夜間講座に通学。卒業後は転職して新聞社に4、5年身を置いていましたが、32歳でフリー、雑誌取材のカメラマンに。ちょうど4人目のお子さんができるタイミングだったとのことで、皆、驚愕です。

「フリーになるにあたって、食べていくための先の見通しなどはあったんですか?」という質問には「何も考えてなかった!」「これを僕は革命的楽観主義と呼んでいます(笑)」と笑っておられた。タフなお方です。皆、驚愕。結局、人との繋がりから仕事の声がかかり、食べていくことができたらしいです。請け負い仕事での撮影をしながら、自信の作品の撮影もしていく。これを軌道に乗せるのはなかなか大変です。皆さん人のご縁は大事にしましょう。

 

そして序盤から早くも「テーマとは何か?」という結論の話に切り込まれました。簡単に言えば「何を撮るべきか」。

 

「自分の撮りたいもの、撮るべきものが、何なのかを、自分に問い続けることが、テーマを持って写真を撮ること」

 

「何を、どのように、どこまでやるか」

 

「撮ろうと決めたら、まず1週間撮ってみてください」「続くなら、次は1ヶ月撮ってみる」「まだ続くなら、次は1年。ここまで続くと写真が貯まってきます」「3年続けられれば、写真集を出すことも視野に入ってきます」とのこと。作家とは長距離ランナーであり、写真集を出すためのまとめ・編集の作業によってテーマが明かになり、自分が深められていくことが語られました。

写真活動に当たっては、もちろん自由に撮ってもよいのだけれども、単に好きなように写真を続けるのではなく、「テーマ枠組みを課して写真行為を継続する方が、大きな成果が得られる」ということでした。これはどの写真家も指摘する原理原則で、被写体や手法の縛りが強ければ強いほど作品の力が増すというものです。「テーマ」の照準がしっかり合えば、自ずから何をどう撮るかがはっきりしてくるのだと思われます。

 

(2)太田先生の写真集紹介

ではその「テーマ」がどのように見出だされ、写真集という形に結実したか。これまで太田先生のこれまで発刊された写真集12冊のうち、9冊を取り上げて、撮影に取り組むこととなった経緯や、その時の思いなどを語っていただきました。

①『女たちの猪飼野』(1987)

猪飼野」(いかいの)とは、地名です。大阪に住んでいて知らなかったのですが、JR鶴橋駅、JR桃谷駅、地下鉄今里駅あたりで囲まれた生野区の一帯が該当します。歴史あるコリアンタウンで、鶴橋駅ガード下や御幸通商店街などには独特な異国感があります。今、猪飼野という地名は朝鮮人蔑視のイメージもあり、表向きは姿を消しているようです。

この作品は  太田先生の原点です。

写真を習いだした頃、高梨豊の作風(写真集『町』)に憧れて下町の風景を撮っていた頃の話です。ある日、蛇腹の4×5を三脚に取り付けて川の土手から猪飼野の風景を撮影しようとしていると、向こうから若い男性が近付いてくる。どうも酔っているらしい。やばいなと思っていたら、「おれは、朝鮮人や!」と絡まれ、いきなり殴られ、カメラを倒されてしまった。

起きたことの理不尽さへの怒りは勿論あったが、何よりも、互いに国が違うというだけで、何の歩み寄りもなく憎しみ、断絶が生まれることに、衝撃を覚えたそうです。なにより、太田先生は大学時代には入管法闘争に関わり、また在日朝鮮人問題なども調べて、自分では理解者の立場でいたつもりだったのに、現地に立ったときにはただただ、断絶の前に無力だった。「つまりそれまでやってたことは、机の上のお勉強に過ぎなかったんだなあと思いました」その割り切れない思いが、太田先生を猪飼野の中へと切り込ませる原動力になりました。

この衝撃の「出逢い」 から5年ほど経ってから、猪飼野へ撮影取材に入り、3年半の「異文化」の撮影が行われました。写真では在日コリアンの日々の暮らし、飲んだり、仕事をしたり、祭りをしたりという淡々とした日々のことが収められています。よく飲み歩いたそうです。

 

②『大阪ウチナーンチュ』(1996)

大阪にはもう一つの異文化、沖縄人コミュニティが大正区にあります。大阪環状線でいうと猪飼野や鶴橋とは東西方向で逆側にあり、まあ古びた住宅街しかなく、大阪府民が普段行かない場所の筆頭格です。実に人口の1/4が沖縄出身者とその子孫だということで、沖縄料理の店の紹介でちらちらテレビに映ることがあります。写真集では舞踊の習い事や、県人会、空手、祭り、飲み会などの「日常」が淡々と写されています。

マジョリティ(多数派)は、人数が多いというその事実だけで、政治的力学、抑圧となって力を及ぼすことを太田先生は指摘。ここでは我々、関西人(日本人)が、無自覚的なマジョリティで、在日コリアンや沖縄人はマイノリティ(少数者)となります。マイノリティの側から自分たちがどう見えているかを知りたいという気持ちが、太田先生を現場へと深く導いたようです。 

 

この①、②は一続きになっていて、ご自身の関心が「テーマ」を形成しています。が、好むと好まざると、否応なしに「テーマ」となったものがあります。それが③です。

 

③『日記・藍』(1988)

非常に有名な作品なので知っている人も多いかも知れません。太田先生の次女・藍ちゃんが生まれてから亡くなるまでの2年半が収められた写真集です。

生後2ヶ月半のころ、高熱を出して救急対応してもらいますが、年末年始の医療体制の手薄な中で、「ただの風邪」と誤診されてしまいます。実際には髄膜炎だったため、手遅れから脳性まひの症状が残り、体調を崩して亡くなりました。最期におめかしをされて、目を閉じて手を合わせた姿で棺に納められた藍ちゃんの写真では知っている方も多いのではないでしょうか。

この撮影を通じて、被写体(愛娘)との関係のあり方はそれまでとは変わっていったと言います。この写真集では、写真の隣のページに太田先生の言葉が綴られており、まさに「日記」という独特なフォーマットによって「日常」が語られています。

 

④『ハンセン病療養所:隔離の90年』(1999)

あるいは、人から持ち込まれる「テーマ」もあります。④は太田先生が、周りの人たちから再三持ちかけられたことで、自分の運命だと観念したテーマです。

まず、懇意にしていた社会運動家の方から、自身と同年代の高齢化していくハンセン病患者たちの撮影を強く依頼されます。段ボールで資料が送られてきましたが、自分には「荷が重い」と感じた太田先生は丁重にお断りを入れます。ハンセンの隔離と差別の歴史があまりに凄まじかったのです。その3年後、仕事の打ち合わせを終えた編集者から「ハンセン病患者の写真集を企画しているのですが」と、偶然にも全く同じ依頼を受けます。編集者は、『日記・藍』を読んでいて、「この人しかいない」と感じていたそうです。

ここでも太田先生は、答えを保留しますが、家に帰ると奥様から「それはあなたの役回りよ」と言われ、その言葉でしぶしぶながら、取材の運命を受け入れることにしたそうです。

 

その撮影は「きつい仕事でした」と語り、その口調から、たぶん一番きつい仕事だったのだろうなと察しました。覚悟はしていたが、それ以上の拒絶。現在は、ハンセン病患者については「誤った国策の被害者」という面で報道されており、また見学の受け入れも行われ、例えば瀬戸内トリエンナーレの企画の一つに療養所見学訪問が組み込まれるなど、我々マジョリティ側とのかなりの歩み寄りが見られるかと思います。

しかし太田先生が着手された頃はそこまでの開かれた状況ではなく、許可を得て施設内へ撮影に行っているのに、避けられ、所内の住民に通報される始末。それだけ施設生活者の方々の境遇はすさまじく、追われるように、中には葬式まであげて死んだことにして、社会から関係を断って施設入りした方もおり、自身の姿が写真に撮られ、世に出ることを強く拒否されるということが続きます。

さすがに心が折れそうになる太田先生でしたが、中には気前よく撮影を許可してくれる方も現れ、苦しいながらも全国の13ヶ所の療養所を1年余りかけて行脚し、撮影は進んで行き、写真集という形に結実させることができました。

とは言え、わずかな期間で出来ることは限られ、自身でも達成感がなく、やり残した感がありました。テーマが大きすぎて、終わらなかったのです。それは、今後これらの施設、暮らしが高齢化により消滅してしまうことが確定しているため、記録の必要を強く感じたためでした。そこで改めての取材を申し入れて再撮影を敢行します。これが続編のハンセン病療養所:百年の居場所』(2002)へと連なってゆきます。2度目の取材は完全に個人的な取り組みだったため、仕事の合間を縫って、手弁当で、自腹を切っての活動でした。

過酷すぎる人生を歩んだ方々の撮影ですが、それを捉える太田先生の眼差しはあくまで、我々と地続きの暮らしを見るのと同じ、何気なさが貫かれています。社会問題に取り組みたかったわけではなく、あくまで個人的な関心、興味から生じた撮影行動です。なぜなら、そこにいる人々は、外部が設定する「○○問題」という枠組みを超えて、日々を暮らし、喜びを見出して生きているためです。

 

⑤『化外の花』(2003)

ハンセン病患者の暮らし記録する二冊目の写真集作りに向けた取材、そして雑誌の仕事の合間に、大阪の湾岸、埋め立て地を歩いて撮り溜めた、花の写真です。厳しい拒絶や、受け止めるのも辛い差別の歴史で打ちのめされるようになる中、何か「ホッとする」、なぐさめられる思いがしたそうです。逆に、花を撮っていたからこそ、ハンセン病の厳しい仕事に取り組むことが出来たとも言えます。

タイトルの「化外」(けがい)とは、文明の外、天皇権力や教えの届かない所を意味します(そこに住まう民俗を「蛮族」という)。誰の統治下にも置かれていないその素朴な存在は、まさにハンセン病患者の方々と通じるものがあったとのことです。撮影の舞台となった湾岸の地域も、どこか人外境、茫漠といった世界です。

ちなみに小野十三郎(おの とうざぶろう)の詩がこの眼差しのきっかけとなっているとのお話がありました。小野の詩のスタイルは、抒情性やもののあはれを否定し、精神主義を批判して物質主義を主張するものです。これは当時の日本が戦争に向かって国粋主義に傾き、美しさや精神がそのために動員されていたため、小野はそれにアンチテーゼを唱えたとされています。

 

⑥『群集のまち』(2007)

ここまで「テーマ」と太田先生の人生は切っても切り離せない関係だったのですが、ここにきてテーマを喪失します。何を撮って良いのかわからず、焦燥感だけが続く日々を迎えてしまった。「そんなこと初めてでした」 そこで、考えていても仕方がないので体を動かそうということになり、撮るわけでもなく街を歩き、ある日、写真学生の頃に買ったウジェーヌ・アジェの写真集を引っ張り出して、昔には感じなかった感銘をうけたそうです。

そうしてスランプ脱出のため、アジェを完全に真似て、写真活動を再開しました。最初は昔のように4×5を使いましたが、体力が付いていかず、1日で中止。35㎜に28㎜のPCレンズ(アオリ機能付きレンズ)を付けて、大阪の街を撮り歩きました。3年間、大阪市内24区を隅々まで撮り歩いたそうです。

私の実感としても、「写真」を一定やった人は、アジェは知っているけど良さが分からない、何の変哲もない街だ、という感想から、次第に「古くない」「生々しい」「逆に新しい」と感銘や衝撃を受けてゆくようです。逆に「写真」をやっていない(カメラを使っているだけの)人は、アジェに出会う機会すらなく、名前もまず知りません。アジェは「写真」界のリトマス試験紙のような存在であり、永遠のシュールレアリスムでもあります。東松照明と似ていますね。

 

⑦『父の日記』(2010)

 今の太田先生と同じぐらいの歳でお父さんが亡くなられました。お母さんが亡くなってから20年後に亡くなったのですが、その一人暮らしの間に20冊ほどの日記を遺していました。その内容は「肌着、パンツとかの縫製の小さな町工場の親爺でしたから」「たいしたこと書いてないです、凡庸ですよ」「朝起きて、ラジオ体操するとか、夜のテレビ番組がどうとか」。

太田先生はこの日記に、個人の記録、あるいは個人の親子関係を超えた普遍性を見出し、複写して作品にすることにしました。老いや死、日常がそこにあったのです。「どうでもいい、ささいなこと」こそ、大切で欠かせないと言えます。また、お父さんが認知症を患ったところから、字が乱れ、文面が乱れてゆきます。介護施設に入所してからは一層症状が進み、空白も目立つようになります。その変容の過程は、写真集を読んでいて怖いぐらい伝わります。肉親の遺品を撮るという手法は石内都『mother's』を参考にしつつ、様々な動機や影響が合流して作品を生み出したとのお話でした。

 

⑧『遺された家:家族の記憶』(2016)

1995年の阪神大震災の後には、暮らしをコミュニティから分断された高齢被災者の「孤独死」が、社会問題としてクローズアップされました。太田先生はそこで「亡くなった人の部屋を撮りたい」 と思うようになりました。部屋は「孤絶した人の遺書」であると見えたためです。その生活の様子を浮かび上がらせることで、その人となりが明らかになり、社会から忘れ去られて消えていった「人」を、偲ぶことにもつながります。

現実的なハードルもあって、被災者の孤独死の跡に踏み込むことは出来ませんでしたが、後年、都市文化を研究している方がブログで、山口県で空き家を掃除したり風通しをしていることを知ります。そこで空き家のメンテナンスに同行させてもらうと、思った通り、家財道具や生活用品がそのまま遺され、まるで今そこに人が暮らしているかのような生々しい光景がありました。それはフクシマの帰宅困難区域で置き去りになった家のようったとのことです。

写真集にまとめるにあたって、友人知人のつてを頼って、計14件の空き家の撮影に成功しました。これは「孤独死」を撮りたいという思い、初期のテーマが、「空き家」という形で実現したというものでした。これも、今後の日本が迎える現象として、非常に普遍的なテーマと言えます。

 

⑨『ひがた記』(2018.10)

最新作です。大阪の干潟を撮った作品シリーズです。

「化外の花」をニコンサロンで展示したところ、来場者から「関空の近くの干潟はいいですよ」と話しかけられ、案内してもらい、それから1年半撮ることになったそうです。

干潟は、潮の満ち引きで現れては消える世界で、その無常感は輪廻に繋がるものがあり、いい意味で「諦念」を覚えるとのことです。小動物らが営巣し、食事をした後の泥の塊が幾つも積み上げられ、それらとじっと向き合って撮影をしていると、人間もカニや貝などの照度物と同じである――この世界の「一部」に過ぎないことを教えられたと言います。それはある意味での「虚無感」と呼べるものでした。

その意味では、他の作品よりも世界観が遥かに広く、形を持たない観念――信仰の原初の姿があるとも言えます。海辺、水と土の境界に形のない普遍的な世界観の入口を見出だす眼は、やはり東松照明に繋がるものがあります。

 

(3)レクの締め括り

レンズの前では全てのものが「等価」であるという、極めて根源的で、そして写真行為にとって最も本質的な事実を指摘して、太田先生のレクチャーは終了しました。

 

 畑館長からは講義内容、太田先生の作品についての締め括りとして、以下のことが挙げられました。

 

・撮る前が大事 ――撮ることがここまで簡単になった時代だからこそ、シャッターを切る以前の時間(関係性、想い、交渉など)が重要である。

・写真の力 ――動画、CGや映画に取って代わってゆく「写真」というメディアの「力」を、しっかり語れる人が少なくなっている。太田先生の存在と作品はその「力」を一貫して伝えるものである。

・社会に写真を存在させること ――太田先生は写真を「写真集」の形にして、社会に出している。これらのテーマは実際には、企画として出版社に持ち込んでも写真集にしてもらうのは難しいだろう。しかし写真家としての取組の実績、取組の姿勢がそれを実現させている。まさに「コロンブスの卵」で、出来上がった写真集を見ると「これなら自分でも撮れる」と皆は思うかもしれない。しかしそれは出来ない。何気ないものと向き合い続けること、シャッターを押す以前の「溜め」の時間がどこまで持てるか?

 

写真を撮ること=「写真」なのではなく、撮る前の時間を持つこと、撮った後に社会へ存在させていくことも含めて、その行為の全体が「写真」である。こうしたことで、レクは締め括りとなりました。

 

(4)生徒の作品の合評会

昼休みを挟んで、生徒一人一人の作品に対して合評が行われました。ここでは個別の指摘は省略し、特徴的なお話、特に重要だった指摘についてまとめます。

 

〇破調。予定調和に終わらないもの。

良くできた、よく収まった作品に対しては、制作者の予定調和を破るもの、「破調」が欲しい。「及第点を与えることはできるけれど、それがあなたにとって意味のあることではない」。

二者間で完結された関係を見せられても、そこに第三者である鑑賞者は入っていくことができない。逆に「他者」として弾かれてしまう。

この指摘は他の方からもよく聞かされている。「予期せぬこと」が写り込むこと、ノイズ性、つまり撮影者と外界との「関係」が介入してくることこそ、写真の本質とされる。逆にコントロール下に置かれた平面表現は「デザイン」と呼ばれ、はっきりと区別されている。

 

〇3点視点

ジャーナリスト・辺見庸を引用して、ジャーナリストにおける立体視の視点を明快に説明。

①事件、主題の主人公  

②観衆、群集など①を取り巻くもの

③自分自身

①と②で構成されるのが一般的な新聞記事。

更に③を加えたものがジャーナリスト、パーソナル・ドキュメンタリーにとって必要な視座となる。この3点(3者)のうち、自身の作品が被写体、テーマに向き合う上でどれを欠いているのかを確認すること。そのためには撮影や関係構築に時間と労力を要する。

 

〇スタイルとノイズ

自分のスタイルに当てはめて撮り、プリントしていくと、「作業」が展開されていくだけになってしまう。すると被写体、写真の向こう側が写っていない、語っていないことになる。向こう側に語らせないといけない。作者の「撮り方」を見ているだけになってしまう。

 

〇作者の視点

作者が何を思う者なのか、作者の視点、考え方が見たい。全体の説明が欲しいわけではない。概要を語るのなら案内パンフレットになる。「説明」は要らない。作者にとって必要なものを見せること ―「日常」への眼差し。

 

〇なぜそれをするのか?

なぜその表現をするのか? なぜその撮り方をするのか? 学校という場に来ている以上、「好きだから」では済まされない。自分に問い返すこと。そうでなければすぐ行き詰って、飽きてしまうだろう。

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合評の言葉からは一貫して、戦場の前線で体を張って戦い続けてきた兵(つわもの)の香りがしました。言葉にからだを感じると言いますか、太田先生の個人の感性というより、他の同世代の強者たちもが歩んできたであろう「写真道」の険しい道との格闘を感じたものです。そう感じたのは年長の登山の猛者と接したときに感じた、ワンマンアーミー感と似たものだったからかもしれません。

ご自身でも「ぼくは一兵卒ですから」と自嘲気味に仰っていましたが、現場に身を置き続けてこられた裏打ちとしての、言葉の筋力を感じました。指摘の一つ一つが納得だったのです。

太田先生の身体は写真機、カメラの眼にかなり近い性質を宿していることが分かりました。それは世の多くのフォトグラファーとは逆の意味を持ちます。彼ら彼女らは「美」を尊び、権威による評価付けをよろこび、手本に習う(倣う)ことを至上命題とします。太田先生の体は真逆で、写真メディア特有の「等価性」を有しています。対象を全て等しくする眼。

新聞社勤め頃に、著名人の撮影も何度も行ったが、「オーラとか何とかというものは、ありません、それは幻想です」と語っておられ、すなわち世間で好まれ、遵守される「美」を明確に否定しています。「美」の構造や力学を否定しておられるのです。そしてそこから漏れ出た存在、階層の下や外へ追いやられたものたちに寄り添っておられる。そのように見えました。

 

その後「大阪のいちばんの″ 化外の花″は、太田先生やなあ… 」と思いながら楽しく飲みました。飲んだんかい。はい。(※授業後です)

( ´ - ` ) ありがとうございました。