【写真展/KG+SELECT 2019】福島あつし「弁当 is Ready.」@元・淳風小学校
弁当という「生」を届ける作家。
私はこの展示に、勇気付けられた。
KYOTOGRAPHIE 2019、写真は「写真を引用したインスタレーション」へと変質し、写真を見ることは「空間を歩くこと」へと書き換えられつつある。今回のKG本体およびKG+セレクトを駆け足で回った結果、多彩な体験を得たが、何故かお腹いっぱいになっていない自分がいた。むしろ小腹がずっと空いていた。
腹に溜まるものが欲しい。
=「写真」はどこにあるのか? もっと言えば、他の芸術祭と何が違うのか? そんな問いが鎌首をもたげつつあった。
ラーメンでもゲームでも、皆の喜ぶ、洗練されたものは確かに素晴らしい。が、それだけだと腹の奥底、脳の深部は置き去りになる。狂ったようなバグやズレや歪みが愛おしい。KGはどんどん「写真」の枠を拡張し、確実に、洗練された楽しい催しに成長した。だが今年はまだ「写真」を味わいきっていない気がする。おぼろげな空腹感を覚えた。
その空腹を満たしたのが、本展示だ。
ここには弁当の力、「写真」の力があった。
作者は、高齢者専用の弁当屋で配達を行っている。写真は、おそらく独居老人の部屋である。(世帯のある人もいるのかもしれないが、みた限りほぼ独居だと思った) 斬新なものは何もない。作者と、配達先の独居老人の日常が、淡々と写されている。
会場である元・学校の教室にて、作品は、配膳する弁当の高さに合わせた台に置かれている。高齢者には十人十色の食べ方がある。彼ら彼女らの多くは体が良くない。椅子にきちんと座れる人、辛うじて座っている人、体に残る麻痺をおしてぎこちなく食べる人、寝床で横になったまま食事をとる人などがいる。彼ら彼女らの、日頃の頭の高さをなぞって、弁当(写真)は低い位置に置かれる。作品は、弁当であり独居老人たちの分身でもある。
展示は、空間インスタレーション、写真集としての読め方、写真単体の鑑賞という3つのスケールを程好く併せ持った形態になっている。
前述のように教室の空間を活かし、弁当を意識して低めに置かれている。観客は歩き回りながら任意のカットを覗き込み、興味に応じてそこから順を辿っていく。
一見、迫力に欠ける展示のように見えるが、それらは写真集のような流れを持つ。配達人が高齢者宅を訪問し、閉ざされた扉を開けようと廊下や階段を歩いてゆく、その流れが追体験できる。暗がりの向こうにある扉を開けた先には、誰も知らなかった彼ら彼女らの暮らしが広がる。
作品の構成は単品と複数枚のブロックとがあり、更に1枚の中でも9枚1組のグリッドになったものがある。全体を俯瞰して流れとして見ることも出来るが、足を止めて入り込むと、見事に入れ子構造となっていて、多彩な暮らしの現場に没入していってしまう。
写真の中身は、多様性と具体性に富んでいる。
まず多様性だが、誰一人として同じ「高齢者」がいないことが分かる。様々な事情から自炊も外食も困難だということは共通しているが、健康の度合い、体の具合から、居間の片付き具合・カスタマイズの度合い、ゴミの量と種類、作者との距離感、生活の楽しみ方、など、あらゆる点で、全員が違っている。大きな絵画を嗜む人、床に転がったままの人、自分の撮った写真を見せる人、猫と暮らす人、等々、「高齢者」を自分の祖父母と同じような人物像で想像していると、掴みどころのなさに驚かされるだろう。
具体性とは、写真の中に収められた情報量の多さ、複雑さだ。室内の家電や調度品、食卓の上、床の上、壁の貼り紙、窓から見える景色、ことごとくが整理されきらないまま1枚ずつの写真の中に凝集されている。まず部屋があまり片付いていないので、ワンシーンごとに写る物量が非常に多いのだ。これは自由の効かない体で最低限の動作で済むよう、最適化されているとも言えるだろう。
これをつぶさに見ていくと、いくら時間があっても足りない。
絵画や文書では表せず、動画なら一瞬で流されるか背景として処理されるであろう全ての物が、主人の暮らし、人生そのものを語っている。季節が巡り、半袖から長袖になってもまだリビングに居座る扇風機に、様々な想像をさせられた。
それは他に替えがたい「写真」の力そのものである。
実を言うと、私は真っ当で力強いドキュメンタリー写真が苦手である。弱き者に密着し、社会性を押し出す写真は、美女を美しく撮った写真と同じぐらい、得意でない。読解の自由度(誤読の余地)がない写真はなかなか難しい。
福島あつしの作品には、見る側の自由度がふんだんに確保されている。驚きだった。写真が伝えていることは社会性の極めて高いテーマなのに、それを語る福島の眼差し・文体は、驚くほど透明なのだ。距離があり、客観的なのに温かいという、たいへん心地の良い眼差しとなっている。それは正義や社会性からも遠く、私は写真に長時間居ることができた。
これは、弁当屋という職業ならではの、マージナルさの賜物だろうか。弁当屋は、ヘルパーでも訪問看護師でもなく、市のケースワーカーでも、報道関係者でもない。弁当屋は、弁当を配達する。介助や医療行為は行えない。生活を改良できない。弁当屋には、属性がない。出来ることは、弁当を届けに行く。それだけだ。
しかし弁当屋は、現場に行き、扉の向こうに入ることができる。
扉の先には、誰も知らない現実があった。定年退職後、社会から繋がりが失われ、細分化された先の、冷えて固まり落ちてしまいそうな一室である。誰かとの繋がりは、もう病院か、弁当屋ぐらいしか無いのではないかと思わされる。そのことを福島は弁当屋というマージナルなポジションから、写真家という技能者の立場を用いて、外界へと繋げることに挑んできた。
弁当屋は、今後ますます呼ばれ、年々ますます多くの高齢者の暮らしに向き合うことになるだろう。本作を論じるには介護保険制度の話も引き合いに出すべきかもしれない。だが本作には、シリアスな日本社会の話だけでなく、希望もある。高齢者が生き生きと、自分の趣味に興じている様を、作者に見せているシーンだ。
誰もが一様に介助・介護される対象ではなく、自分らしく喜びを享受して暮らしていることは、超高齢社会のど真ん中を生きていかねばならない私たちにとって、大きな勇気となるだろう。
そしてこうしたことを、写真(家)が世の中に伝えられるということを、本展示では思い知らされた。メディアは現在、動画、ツイート、インスタレーションの3本柱であって、「写真」はそれらに用いられるための素材と化しているのではないかと、やや自信を無くしていたのだ。
写真および写真家には、まだこの世でやるべきことがあり、出来ることがある。そのように、シンプルに勇気づけられた。マージナルなヒューマニズム、主張を押し出さず、大切なことを全力で伝えている。そんな展示だった。
なお、本展示は「KG+ AWARD 2019グランプリ」に選出された。納得である。写真を学んでいる方や、これから学ぼうと思う方は、ぜひ見てほしい。何かを語ることの意味、その力と、語り方、様々な基本的なことが沢山詰まっている展示だ。
( ´ -`) 完。