写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【映画】「眠る村」 @第七藝術劇場

【映画】「眠る村」 @第七藝術劇場

 

名張毒ぶどう酒事件」の舞台となった地元、生き残った当事者らを追ったドキュメンタリー映画東海テレビ社の実直で粘り強い取材が生んだ傑作だ。

 

 

本作の真の主人公は「ムラ」だ。自白により死刑判決を受け、再審請求を続けながら獄死した奥西勝・本人でもなければ、その名誉回復のため弁護団とともに引き続き再審請求を挑む妹・岡美代子ですらない。彼ら彼女らの声、人生をも飲み込み、消化し溶かしてしまう「ムラ」の生態こそ、本作の主役である。

 

「個」人を飲み込む「ムラ」の存在を、観客はまざまざと見ることになる。

 

一つは、1961年3月28日の事件の舞台となった集落・葛尾(くずお)という「ムラ」である。三重県奈良県にまたがる山あいの地は、一見、のどかで鄙びた田舎である。しかしその平和さは、村民らが必死で、時には残酷さをもってしても守り抜いてきた「ムラ」という営みの、表の顔である。

事件発生6日後の奥西勝の自白・逮捕を経て、死刑判決、そして現在に至るまでの長い時間の中で、村人らは口を閉ざし、言葉をはぐらかし、記憶を忘れてみせ、全てはもう終わったと繰り返す。

奥西勝という真犯人が自白によって検挙された時点から、村人らの供述は一斉に変更されたという。事件当日の人々の行動、何時何分に何処にいて何をしたかの供述はすり替えられ、その点を指摘しても人々は口々に「もう覚えてない」「忘れた」と言う。その口ぶりは、事実か否かは重要ではない、この村から誰かが縄にかけられなければならなかった、それが誰かは問題ではない、という理屈に貫かれている。供述の転換にどんな動機や力が関与していたのかは明かされない。しかし半世紀以上に亘って、村人らは取材で追及される度に、答えをはぐらかし、彼らの言葉は素早い蛇のようにすり抜けてしまう。

 

その思いはただひとつ、皆が生きるこの「ムラ」を今まで通り安泰で、平和であらしめ続けようとするもの、もはや本能、それだけなのだ。無意識で本能的な運動として行われていることがわかる。村人らは皆、肝心な話になると、完璧に申し合わせたかのような絶妙さで、蛇のように言葉をどこかへ滑り込ませて逃げてしまう。

これまでの度重なる取材の映像が挿入されるが、どの時代の応答の場面からも、村人には「個」人としての感情、言葉が見えないことに驚かされる。むしろ個人の意識を持たず、群体の一部、大きな「ムラ」の意思、生存本能によって受け答えをしているようにしか見えない。彼ら彼女らには、もはや集落の和を「守っている」感覚すら無いかもしれない。

 

村人らが望むのはただ一つ、事件を忘れることである。村が眠り続けることだけである。

 

全員が何らかの被害者でもある、というニュアンスが頻出する。今さら真実が科学的に解明されたところで、今までの暮らしの根拠と今後の暮らしの保証や安全が根底から覆ってしまう以上、それは全く望ましいことではないわけだ。むしろ村八分、墓まで掘り返され追放される危険ですらある。普通なら「真犯人が今も潜んでいるのは恐ろしい」と思いそうなところだが、全く異なる原理がここにはある。

 

ラストシーンでは村人らが仲良く、平和に焚き火を取り囲んで、餅を焼いている。正月だろうか。カメラばっかり撮ってないであんたらも食え、と取材クルーにも餅を勧める。「ムラ」の本質が見える、象徴的な、素晴らしいシーンだ。村人らは、平和で暖かい。それでいて、「個」人が決定的にいない。自・他の境目が曖昧な、その場にいる全員が一つの大きな生き物のように生きていることがわかる。そこに善悪はない。習性、本能なのだ。

 

 

もうひとつの「ムラ」は、言うまでもなく司法、権力の界隈である。

ぜひ本作を観てほしい。権力の「ムラ」の生命力とホメオスタシスはおぞましいほど強固だ。そして前述の、地域としての「ムラ」と違い、定住者の顔が見えない。映像として出てくる(表せる)のは、地裁、高裁の裁判長の顔だけである。

一個人が司法の決定、検察のシナリオに物申し、上書きすることの不可能さを、嫌と言うほど思い知らされる。絶望的である。不可能である。法的な不服申し立ての手続きのシステム自体はちゃんと用意されているのだが、再審請求は裁判所の意向によりことごとく「不当決定」、棄却される。

 

弁護団は再審の度に、最新の科学技術によって、ぶどう酒の王冠が奥西勝の歯によって開栓されたものではないことや、ぶどう酒の封に付着していた糊の成分は本来のものと異なり、何者かが封を切った後に貼り直したであろうことが推察され、過去の物証が有効ではないことを指摘し、戦いに持ち込もうとする。

これには裁判所も一定の評価をするのだが、判決自体には影響を及ぼさない。棄却理由は、事件発生当時の奥西勝の自白の信憑性を覆すには至らないため、というものだ。つまり、検察と司法の判断・筋書きに口を挟むな、という宣告である。

 

司法・検察側の内情は本作では触れられてはいない。ただ、客観的に科学的あるいは法的に適切な手続きをとろうが、優先される何かの原理原則が、この社会に強くあることを思い知らされる。

弁護団は怒り、憤り、やるせなさが画面を超えて伝わってくる。それでもなお、この大いなる「ムラ」はホメオスタシスを守り抜き、時代がどれだけ移り変わろうと無関係に、同じものとして生き永らえてゆく。そのおぞましい生命力を、目の当たりにした。

 

このことは、第一の「ムラ」の力よりも遥かに深刻である。内向的な村落共同体を避けて居住・生活することは物理的に可能だが、この国の司法・検察の力や恣意から逃れて生きていけるかどうかは、もはや、神のみぞ知るところである。いつ誰がどんな形で何の事件に巻き込まれ、或いは取り込まれるのかは誰にも分からない。その巨大な「ムラ」の力に抗うには、せいぜい議員や著名人の知り合いでも増やすしかないのだろうか。

 

 

唯一の希望は、こうした作品が世に生み出されたことだ。ジャーナリズムは死んではいない。メディアは機能している。それが本作の、唯一の希望だった。

 

( ´ - ` ) 完。