写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】Anne-Sophie Guillet(アンソフィー・ギュエ)「INNER SELF」@POETIC SCAPE

【写真展】Anne-Sophie Guillet(アンソフィー・ギュエ)「INNER SELF」 @POETIC SCAPE

住宅街の中で陽光の射し込むギャラリーには、静かな力強さがあった。春の陽気の中で彼―彼女らは佇んでいた。何と呼べばよいか分からないその人たちの佇まいと眼差しは、静かにこちらの内側で跳ね返る。私はいつしか私自身を見ていた。 

 

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【会期】2019.3/16(土)~4/27(土)

【時間】13:00~19:00(日・月・火は休廊)
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彼―彼女らを何と呼べばよいか分からない。彼―彼女らは静かに、しかし力強くそこに居る。

そこにいる、ということを最大限に大切にした写真だ。これらのポートレイトでは、モデルは性差を含む種々の属性が折り重なった状態で、そこにいる。彼―彼女らの表情は不明だ。彼―彼女らの所属先は不明だ。彼―彼女らの主張は不明だ。彼―彼女らの文法は不明だ。そして彼―彼女らの眼差しは、静かで強い。

 

この眼、この佇まいは、ごく普通にありそうで、その実、普段は見られない。作品として提示されてようやく尊さに気付く。これは普段、覆い隠されているから見ることはできない。本当は誰もが秘めている曖昧さ、”どちらでもなさ”なのだ。全ての人が「彼」であり「彼女」でもある、その重ね合わせの中で揺らいでいる、はずだった。黒と白のラチュードのうちに生きている、はずだった。純粋な黒か白かに生きられる人間はいない。本来は適度に曖昧である、はずだった。

だが、人が集まり、力関係の序列、規律や区別が好まれるとき、黒か白かの間仕切りは加速度的に増えてゆく。それに応じた装いを、役割を引き受け続けるうちに、作品の湛えるようなこの眼、この佇まいは、上書きされて見えなくなってゆく。私たちの内側は不問となり、分かりやすい何者かとしてやっていく。

 

社会、例えば学校や勤め先や組織では、「お前は何者か」を絶えず問われる。何色に染まっているか。何に向いているか。誰を信奉しているか。どちらの陣営に付くか。等々。選択肢が連続する。無数の踏み絵を渡り歩く。踏み絵をうまくかわしたり、時には安全な絵をわざと踏んでみせることが処世術だ。お国柄ゆえ宗教や政治的信念はあまり話題にならない、もっと生理的なこと、性関連、人間関係、仕事、組織への染まり具合などが専らの話題だ。3年もそこでサバイブすれば立派に次のチェッカーとして、ニューカマーに踏み絵を試す側に回ることになるだろう。

まあご時世でもあって、ようやく多様性やマイノリティといった概念が導入されるようになった。されど、これも組織にかかれば、コンプライアンス、総務や人事の管理対象となる。本来意味するところのナイーブな内容は一旦不問となり、言葉だけが制度として取り扱われる。部内、課内、課員へと供覧・伝達され、研修などが定例的に開催される。多様性は平板な「決まり」のようなものと化すことで、相当なフラットさを獲得し、偏見や問題発生の抑止などに広く貢献するようになる。

しかし(だからこそ)、本来的にその言葉が抱えていた「内面性」は見失われ、ともすれば「(私達とは)異なる人達にも寛容になりましょう」という規範だけが作動する。

そこでは、一個人が内に抱える多義性、曖昧な”どちらでもなさ”は覆い隠されたままである。それがどんな表情だったか、想起することは極めて困難だ。そして、ここで言う「多様性」の主語からは、制度に乗っかる側となるであろう「私達」はごっそり抜け落ちている。まるでお客様か監査委員か評論家のように「私達」は安全に振る舞う。誰が「私達とは異なる人達」なのかを一方的に量る視座である。私たちは「私」がどんな顔をしていたかを忘れたまま生きていける。

 

本作《INNER SELF》はその視座を昇華させる。

決して組織や道徳観を巡る批判的作品ではない。だが、彼―彼女らの像が湛える、曖昧な”どちらでもなさ”には、逃れられない力がある。耽美なわけではない。シリアスなのでもない。何も押し付けない。モデル達、彼―彼女らは、ただそこに居る。逃れがたくそこに居る。

被写体となったモデル達の外観を私たちは判別しかねる。「彼ら/彼女ら」へ正しく分類してゆくことが出来ず、何者かを明確に出来ないため視線が吸い込まれたままとなる。私たちは普段通り、しばし二分法ゲームに勤しみ、そして早くもかりそめの結論が出る。この方々を形容する言葉がないこと、分けることが困難であること、そして区分することに大した意味がないという実感である。

 

路上で通行人を呼び止め、その自然体を撮りためて作られた本作には、アイデンティティーの識別は通用しない。あまり意味がない。どこまで探っても彼―彼女らの佇まい、そして写真家の眼は「自然」だからだ。

そこへいつものように投げ掛けた視線は、回り巡って早々に、私たち自身へ跳ね返っている。私は。あなたは。私は。あなたは。「私は何者か」の役割語から出来た平板は剥がれ落ちる。

そして顔を見る。二分法によって守っていた外皮の奥にいる「内なる私」の、曖昧な”どちらでもなさ”が目を覚まし、作品と共鳴する。残念なことに、このどちらでもない視座に一度立っみてほしいと思う人たちは、この場には来ないだろう。それはそれで仕方がない。今はただ、私はこの方々と時間を過ごす。

 

この世界観を成立させているのは、作者の眼差しや技量だけではない。作品の繊細なトーンを、白味を帯びたオークの額装が力強く後押しし、登場人物たちの佇まいを静かに立ち上げている。私はいつしか自分自身を見ていた。

 

 

 ( ´ - ` ) 完。