写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【映画】「ヨーゼフ・ボイスは挑発する」@第七藝術劇場

【映画】「ヨーゼフ・ボイスは挑発する」@第七藝術劇場

ヨーゼフ・ボイス(1921-1986)。世代的にリアルタイムでの接点が無かった私にとっては伝説の人物である。このたび、本人の生きて動いているドキュメンタリー映画が放映され、ようやく彼が何者かが少しだけ見えた。理解不能。彼のやっていたことは、あまりに大きかった。

 

  

「ボイス?」とコールに出る本人の声とともに、チャプターが切り替わる。コンタクトシートの無数の写真のカットをなめて、音声が流れ、しばしのちに当時の録画映像へ切り替わる。そして撹乱(sensation)と拡張という語を好んで用いる、帽子を常に被った運動家の姿が現れる。

 

ヨーゼフ・ボイス「社会彫刻」のアーティストとして広く知られている。私はそれを、ギャラリーの外へと美術作品を広く展開した、もしくは社会的意義を強く求めて表現活動を行ってきた、のだと思い込んできた。違った。ヨーゼフ・ボイス社会そのものを彫刻と見なし、言論やアクションによって変化させることに、全身を用いて取り組んでいたのだった。

 

社会的に意義のある彫刻、ではない。社会を彫刻として扱うのだ。

だからこの映画はさっぱり意味が分からない。

彼は確かにアーティストとして作品を作り、何か立体物を以て表現をしているシーンもあるのだが、それらは一般的なアーティストとしての枠を超えた目的と射程での活動のようで、「表現」や「表現の場」をメタなレベルからひっくり返し、氾濫させてエネルギーを得ているように見える。どちらかと言えばデュシャンに近い気がする。

ディベート、演説の場面が度々映し出される。熱い。彼は表現者というより思想家、革命家の趣がある。「攪乱させる」「挑発する」と彼は終止言い続けている。その帰結するところは示されない。目的地はよく分からない。ただただ熱く駆り立てられる。

 

その仮想敵を私は共有していない。それが、彼のやっていること・この映画に映されている状況の、意味の分からなさの、大きな要因だろう。ひとえに、私が1980年生まれ、熱気の10年近く後に生まれてきたことも、また大きな要因である。80年代日本の現代美術(ニュー・ウェイブ展など)を直感的に理解・共有できなかったことと、現象としてはかなり似ている。

革命。かつて橋下徹が都構想と叫び、小泉純一郎が改革改革と叫び、少なからぬ人たちが熱狂した、あの感じなのだろうか? いやもっと大きい。特定の制度や政策のことをボイスは糾弾しているのではない。世の中全体を構築し運用している仕組み、価値観そのものに対する挑発なのだ。だから異議申し立て、改善要求とも違う。マニフェストではなくどこまでもアクションなのだ。だから聴衆にも突っ込まれている。「あなたの言っていることはレトリックなのでは?」革命、挑発の先にあるもの、目的地点は結局何なのか?  目的はアクション、対話である。だからボイスは言葉と作品で応じ続ける。「緑の党」の立ち上げにも参画し、主義主張の滅茶苦茶な人物が入り乱れる中で奔走してきたが、党首にはなれなかった。政治としての具体的な成果を求めず、資本主義への疑義を呈し続けたため、厄介払いされたようだ。

 

分からなさの極みは、観客ら、ボイスを取り巻く人々の、凄まじい熱狂である。映画冒頭のパフォーマンスケルティック+~~~~》(1971)は、満員の観客にボイスがほぼ埋もれた状態で行われている。観客は次に起きる展開を、文字通り一挙手一投足逃さず、食い入るように見つめている。場の熱の強さにこちらも興奮させられる。ベルリンの壁でも壊すぐらいの重要な、歴史的な何かの瞬間的を観客は見ていたのだろうか。

当時の世相が、ボイスに強く期待していたものがあったはずだ。何かを変えなくてはいけない、何かを変えてほしい。何かが変わるかもしれない。その切実な熱をボイスは読んでいて、期待に応えるように繰り返す。芸術を拡張せよ、カネの価値を下げろ、芸術だけが革命的な力を持つ、と。

 

もちろんボイスは壇上でワーワー言っていただけでなく、数多くの作品を残しており、本作でもそのインスタレーションやパフォーマンスはふんだんに登場する。しかし本作では、作品自体の意図、意味の解説はほとんどなく、彼の多岐にわたる活動の一つとしての触れ方になっている。

これが手強いところで、ボイスの作品の意味は正直全然よく分からない。パンフレットの解説を読んでも一層意味不明だ。例えば

《グランドピアノのための等質浸透》(1966)

フェルトで全身を覆われたグランドピアノには赤いフェルトの十字架がついている。ピアノは、音響という無限のエネルギーをもっているが、その発出は制度的な鍵盤で制限されており、過去の芸術を示唆している。反面、そのエネルギーは脂肪と同じく自由な新しい芸術すなわち社会彫刻への可能態であり、フェルトで保温されてもいる。(略)赤十字は古い世界を突破して、誰でも自由に発言し、誰もが自由に歌える社会到来の一歩手前の治癒と待機の状態を暗示している。

 

( ´ - ` )

 

わかるか!

 

(※作品は、フェルトにくるまれたピアノ。正面に赤十字が刺繍?張り付け?られている)

 

作品は万事がこの調子なので、まあ意味が分からない。説明されてもされなくても意味が分からない。

それでも、資本主義社会とも共産主義社会とも異なる、制度や権力の枠にはまらない社会の有り様を目指して、何かを常に仕掛け続けていたことは十分に伝わる。シュタイナーの思想に大きな影響を受けているとのことなので、系譜を辿ることでより適切な理解はできるだろう。だがもう意味不明のままで良いのかも知れない。面白いから。

ディベートの時のボイスは鋭く、熱を帯び、その「場」を鮮やかに撃ちまくっている。かっこいい。彼がまくしたてる瞬間、確かに、日々の「常識」、この世界の掟のようなものから自由になった気がした。この世がいかに馬鹿げた仕組みであるか、それが実はどれだけ取るに足らない、奇妙なものか、彼の声によって視座が切り替わる感じは、確かにあった。熱い。彼の声は熱い。

 

だがボイスも人間である。

超人的スケジュールを詰め込み、消耗し尽くし、それでも「人間は消耗していつか死ぬから」とか訳の分からないことを言いつつ、映像は人生の最期へ。晩年は「枯れたバラの香りがした」と、周囲の近しい人は死臭を感じ取っていた。終盤、《7000本の樫の木》(1982-87)プロジェクトが日々進行し、積み上げられた石柱がどんどんなくなってゆく様子が映される。道に樫の木と石柱が並び立ってゆく様子とともに、映画は終わる。

 

実は1回観ても全く意味が分からず、寝落ちしてしまったため、続けてもう1度観に行き、それでもやはりピンと来ておらず、ただただ「ものすごい人がいた」という衝撃だけを抱えている状態である。一体ヨーゼフ・ボイスとは何だったのか。彼の声は熱い。

 

( ´ - ` ) 完。