【写真展/トークショー】吉田亮人「写真家がハンドメイドで写真集を作り、一度燃やしてから出版しなおし、売り歩いた話」@誠光社(京都・丸太町)
2019.3/16(土)
2017年・KYOTOGRAPHIEに《Falling Leaves》(後の展示・写真集ではタイトル《The Absence of Two》へ)を出展して広く知られるところとなった写真家・吉田亮人氏が、ハンドメイドで写真集を作り、自ら手売りすることの想いについて語った。トークを聴くこと自体が、作品を鑑賞しているような、不思議なひと時であった。
簡単に吉田亮人氏の《The Absence of Two》を紹介する。
年下の従兄弟(撮影当時は大学生)は高齢の祖母と2人暮らしを営み、祖母の生活全般をかいがいしく介助し、寝食を共にしていた。吉田氏はその関係を撮り溜めていた。最後は祖母の死を以てその取り組みが完結することを思い描いていたが、ある日、従兄弟は突然、行方不明になる。1年後、森の中で遺体が見つかり、自害であったことが判明する。その1年後、後を追うように祖母も亡くなる。後に残された吉田氏は、撮り溜めてきた2人の仲睦まじい写真と、やり場のない喪失感を、2017年・KYOTOGRAPHIEの会場で表現した。
この作品の写真集はこれまで私家版(1000部)しか出ていなかったが、2019年1月末に、青幻舎より一般流通することとなった。
<★Link> 青幻舎 販売ページ
http://www.seigensha.com/newbook/2018/10/16125729
写真集に対する吉田氏の思いと、《The Absence of Two》制作にまつわるエピソードが語られた。
(1)写真集作りとキャリア
吉田氏の写真家としての活動目的とこれまでのキャリアは、「写真集を作る」ことに力が注がれてきた。これまで3冊の写真集:《Brick Yard》(2014)、《Tannery》(2016)、そして《The Absence of Two》を、作家自身の手で文字通り、作り上げ、売ってきた。
今は出版社が写真集を扱わない時代である。大手出版にポートフォリオを持ち込んでも、リアクションは塩である。
編集者「写真集は売れない。ドキュメンタリーは見向きもされない」「この時代に生まれたことを恨むしかないね」 吉田氏「クソが!」
そこで釈然としない吉田氏は、自作することに決めた。DIY精神である。単なる自費出版ではない。吉田氏は自分の手作業によって写真集を作り、手編みし、自分の手で売ってゆくのだ。
ここでの「写真集」はZINEとも異なる。ZINEは手軽に安価な材料、即席にて瞬発力で作られると思うが、「写真集」は、撮影、作品作り、展示のみならず、その先の編集・デザイン、販売など、あらゆるステージを踏まえ、さらに数段引き上げた次元で取り組まれる。作家の存在を懸けた仕事とも言える。展示はその場限りで消えてしまうが、写真集はモノとして形を留め、時間と空間を超えて作家と作品を世に伝え続けるのだ。
ちなみに堀部氏によると、前職の「恵文社」の頃から写真集の持ち込みは非常に多いという、しかし「95%以上扱わなかった」。それが、吉田氏の《Brick Yard》の持ち込みには「これは凄い」となり、店内での写真展を企画し、そこから吉田氏との縁が始まった。そして装丁家・矢萩多聞氏との幸運な出会いと協力を得て、写真集作りが実現していった。
《Brick Yard》は、バングラデシュのレンガ工場の労働者が働く現場を2012年に撮影した、ドキュメンタリー作品である。現地の労働者は、大型機械を用いずほぼ人の手で作業を行っている。それゆえか、「レンガの手触りを紙で表現したい」とのこだわりから本の質感とサイズの大きさを重視し、タブロイド判48ページで本作は作られた。
写真集を自力で作る理由は、作家としてのこだわりだけでなく、金銭的な事情も大いにある。この時には製本代15万円の費用が捻出できず、「200部の写真集を自分で手縫いする」という選択肢を選ぶことになった。後にこのタスクは、製本ワークショップという形で参加者を募り、不特定多数の人の手で作業してもらい、消化されていった(同時に、一冊ずつがオリジナルの本となるという独自性も生まれた)。
《Tarnnary》もまた、バングラデシュの皮なめし工場の労働者たちのドキュメンタリーである。写真集は彼らとの繋がりを持つように作られている。特装版100部には特製ブックケースをが付いている。これは、被写体となった労働者らがなめした皮を吉田氏が現地で買いつけ、それを加工工場に持ち込んで作ってもらったものである。普及版400部にもブックケースがあり、そちらは革のような手触りを持った特殊紙「コルドバ」で作られている。製本作業は、前作に引き続いてワークショップ形式である。
海外に任せた高リスク・高負荷で低価な労働の成果物として、上澄みとしての製品は、経済的に豊かな国が吸い上げる。そこには原材料と格闘した労働者の存在は隠されている。吉田氏のこれら2点の写真集は、社会で隠されている労働と、労働者の存在をじわっと思い起こさせるものなのかも知れないと感じた。
2.《The Absence of Two》の制作について
写真集だけでなく、吉田氏の作家キャリア自体は、東南アジア、特にバングラデシュとインドでの肉体労働者の現地取材が主である。出身地・宮崎県を舞台とし、親族の生活する姿を撮った《The Absence of Two》の方が例外的な企画であったと知った。もっと言えば、KYOTOGRAPHIE・2017のメインプログラム《Falling Leaves》(=《The Absence of Two》)と、KG+・2016に出展されていた《Tannery》とが同一人物による作品だとは、このトークを聴くまで全く気付いていなかった。
《Tannery》は、まさに報道写真展やマグナムっぽい、社会的かつヒューマニズム調のトーン。忘れられないような画の強さがあった。一方で《The Absence of Two》は、ファミリードキュメンタリーを私小説のような目線から紡ぎつつ、会場の空間を活かしたインスタレーションにもなっていて、複層的な仕掛けが印象に深く残った。この二つの作品は、別の作家のものと思い込んでいたので、トークを聴きながら非常に驚かされた。
作品のエピソードがより詳細に語られた。
吉田氏の祖母と、従兄弟・大輝さんとの二人三脚の暮らしは、大輝さんが幼い頃からのものだった。月日が経ち、高齢になった祖母の生活の面倒は、今度は大輝さんが見るようになり、文字通り寝食を共にする生活を送っていた。
2014年2月末、吉田氏が家に来てみると、祖母が窓辺に立っている。
「バイクで行ったきり帰ってこんとよね」「2~3日前から帰ってこん」、行方も事情も分からない。大輝さんは毎朝、大学に行くとき、祖母の両手をぎゅっと握っていく。だがその日は、「ばあちゃん、元気でいないよ。」(元気でいてね)と言い残していった。それが彼の最期の言葉となった。
失踪から約1年後の2015年3月、朝早く、吉田氏に電話連絡が入る。祖母からの電話。山の中で遺体が見つかったとの知らせであった。23歳。状況から、自ら命を絶ったものであった。そのおよそ1年後、祖母も他界する。
一連の出来事によって、これまで撮り溜めてきた吉田氏の作品は全く意味が変質してしまった。当初は、二人の関係の特異性について、祖母が亡くなるまで撮り続けることがゴールだったが、この急展開の中で、写真家が一人、取り残されてしまった。
「大輝は何のために生まれてきたのだろう」
その問いに、答えがない。遺言も何も、何のヒントも残されていない。推論しか出来ない、その材料もない。
彼が生きた証を残したい。そのために写真集を作ろうと吉田氏は立ち上がる。「今回も俺が全部やろうと思った。他の人の手が入ると、大輝に”捧げるもの”にならない。」
写真集のダミー本作りが始まった。ダミーは第17版まで作成された。長い旅のような取り組みである。最初はまさに「なぜ大輝は亡くなったのか」という問いの答えを探す意味合いが強かったという。その間に、祖母が亡くなり、「タイトルもコロコロ変わった」と、色々な変遷があった。警察の実況見分調書も資料のように取り入れたりした。
私家版は111冊が作られた。二人の享年(祖母88歳、大輝さん23歳)の和である。
前2作の装丁・レイアウトは矢萩多聞氏が担当したが、本作・私家版ではデザイン、造本を全て吉田氏自身があえて引き受けた。製本の道具も買い揃え、もはや業者顔負けである。過去の記念写真などもファウンドフォトのように織り交ぜ、それらと自身が撮影した写真とは紙質を変えたり、紙には森をイメージする緑色を使うなど、考えられるコンセプトは全て投入された。
中でも製本作業の負荷は凄まじかったようで、その工程だけで1年を要したという。122ページもあるので、ひと縫いひと縫いが大変な作業だ。KGの展示会場に居る時も作業をしていたらしい。「もう糸は見たくないです」と苦笑。
2018.6/18、大輝さんの誕生日に、吉田氏は出来上がった写真集の1冊を、祖母と大輝さんの墓前で「燃やした」。15分ほどで写真集は灰になった。その時、これまで吉田氏の内にあり続けてきた「もやもや」が、「サーッと」きれいに消え、憑き物が「ストーンと落ちた」という。「この瞬間のために作ってたんだな…」としみじみ振り返る。それだけ深く、長い苦しみの旅だったのか。ずっと吉田氏は答えの無い問いに向き合い続けてきたのだと、実感させられた。
この制作過程について堀部氏は「物語療法」と評した。
普通であれば、初期構想の段階で写真集を世に出していたであろうところ、吉田氏は長い時間をかけて再編集を重ねてきた。それは消費者的な・簡単な立ち位置でいることが許されない状況があり、従兄弟の「無意味な死」(意味付けを許されない、絶対的な現象としての死)を、時間をかけて物語化し、消化してゆく必要があったのだろうと語った。
また堀部氏は、製本で1年も費やすという作業時間の長さについても、「作家のエゴの部分に対して”折り合い”を付けている」、すなわち本作は作家にとっての「自己表現」ではないことを指摘した。
写真集の中で語られること(=身近な人の不意の死、死のつながり)と、遺された作家が現実において辿ってきたこと(=喪失の中で、作家としての我を殺し、救われ、改めて作家として立つ)、この二つの輪廻の物語がパラレルに存在しているのだという。つまり鑑賞者は、写真作品としての物語と、その制作や流通の物語という二つのストーリーを、等価に味わうことで、吉田亮人という写真家の世界を肌身に感じられるのだ。
(3)写真集を売ること
2019.1月末に青幻舎から出された《The Absence of Two》普及版は、初となる出版社からの出版である。青幻舎・編集の谷脇氏、デザイナーの松本久木氏らプロフェッショナルと組んで、作品について、1枚1枚の写真の意味から徹底的に議論しながら編集を行っていった。
その様子は吉田氏の個人HPに記されていて、熱く濃密な現場感が伝わってくる。
<★Link> 《The Absence of Two》メイキング
http://www.akihito-yoshida.com/photobookmakingprocess/
作家の体験した、個人としての小さな世界の物語は、KYOTOGRAPHIEのプログラムとして広く公開されることで、変質した。物語は、吉田氏から鑑賞者の手に渡った。100人いれば、その人の背景によって、100通りの受け止め方、体験の仕方がある。吉田氏はただ写真集を売るだけではなく、直接、読者に会って手渡しをしたり、会話をしたり、物語を共有したいという想いを強く抱いた。
そこで堀部氏との話し合いから、全国8カ所の独立系書店を巡回し、トークとブックサイン会をして手売りするツアーが組まれた。2019年2/7から2/16までの僅かな期間で、東京、茨木から長野、関西、そして広島、鳥取、福岡を巡った。どういう人がこの写真集を買うのかを知りたい、写真集をツールにして交流したいという想いであった。手売りの感想は「エキサイティング」「とにかく楽しかった」とのことだ。
大量に刷り、広告をうち、卸を通じて量販店で数を捌くという、従来のセールスの仕組みは今、機能しなくなりつつある。出版界は苦しい。
堀部氏は吉田氏の取り組みを「情緒に基づく仕事」と評した。同じ労働、商売でも、売り手と買い手との関係が水平になる場で、想いや体験を共有するという関わり方である。それは「仕事」の新たなあり方として、今後の社会が手本とするものでもあるだろう。
大きな組織、資本に頼らずとも、モノを作り、売ることは出来る。その生きた実例なのであった。作品の内容、物語性や意義だけでなく、作品を世に送り出すための活動、枠組み自体に、もっと注目されてほしいと感じるトークであった。
今はまだまだ、堀部氏や吉田氏のように、極めて高いスキルと熱意のある個人が、多くの労力を投じて行っている状況だと思う。世の中の仕組み自体が、こうした取り組みを参考にし、「大きくない」集まり同士が力と知恵を出し合い、物事を、写真・アートの場を動かしていくことができれば、幸せなことだと思う。
会場(誠光社・レジカウンター付近)に貼りだされていた写真は、写真集を手売りするため全国を巡回していた時に撮られたものだった。トーク前にはよく分からなかったが、トークを聴いた後では、販売の物語と写真とが合わさって、感情移入して、見え方が変わった。どの会場でどんな来客があり、どんな会話を交わしたのだろうか。面白かった。
http://www.seikosha-books.com/event
「誠光社」では毎週のように何かしかの展示やトークイベントなど、おもしろい企画が催されている。写真家や写真評論に関するトークも多く、目が離せない。
( ´ - ` ) 完。