【ART―写真展】H30.4.1(日)市橋織江「TOWN」トークショー@入江泰吉記念奈良市写真美術館
今をときめく写真家・市橋織江氏のトークショーに行きました。
美術館への道中は昭和のかおりがしまして、よい散歩です。
本展示「TOWN」はこれまでの作品と大きく異なり、揺らぎとノイズに満ちている。
写真集「gift」(2009)、「BEUTIFUL DAYS」(2011) などの代表作では、フォーマットの強度の高さが特徴的だった。昨今のinstagramで好まれる世界観を先取りしたような、透明度が高く、色鮮やかで、少し霞がかったような幻想的な柔らかな描写と、対照的に構図はガチッと計算された配置がなされ、プロの仕事としての完成度があった。
「TOWN」は、一旅人としての眼、体験が全面に出され、フォーマットは背後に控えているため、鑑賞者が自由に重ね合わせて見ることができるものとなっていたと感じる。
1.展示作品
以下、展示における私の体験を述べる。
タイトルは「町」だが、町を撮っているというより、見知らぬ町に降り立った異邦人が、その眼を通して何を見たか、町とどのように関係を結んでいくかが、視点の揺れ動く様から伝わってくる。
撮影はライカM4で行われ、フィルムならではの光の溢れ、ノイズ感と揺らぎが心地よい。その瞬間瞬間の何者かとの遭遇を重視しているため、ピントやブレも含めて「作品」である。それゆえに、見知らぬ町で滞在した時の私たちの身体に生じる変化をより生々しく描写していた。
展示会場に入ると、チケットやチラシにも採用されたメインビジュアル:駅構内の大きな写真(上の写真)が眼に飛び込んでくる。ホームの両脇に列車が止まっていて、その奥に恋人らしき二人が立っている。歩み寄るにつれ、鑑賞者は駅のホーム:「旅」に投げ込まれる。物語の始まりにふさわしい。
作者が異国に降り立ったところか、あるいは旅の道中か。カップルは地元民か、それとも作者と同じく旅人か。様々な場面を想像させられつつ、歩を進める。シアンの効いた駅のホームを見ていると、自分自身の旅の感傷や感動を自然と思い出す。
展示構成は、異国の町で過ごす「1日」を、朝から晩まで時系列で追うものとなっている。写真集ではその「1日」の時間軸がより明確に打ち出され、ほぼ1直線に「1日」を夜で終えるものとなっていた。しかし会場では、朝日が何度かにわたって断続的に登場することから、「1日」がどんどん切り替わっていくような体験をした。そして時間の経過とともに、作者の目を向ける先は変容していく。
このように、本展示の醍醐味は、「町」の写真というよりも、「旅」に伴う身体の順応過程が、映像として追体験できることだった。
作者は夜に町へ到着したらしい。市街地を移動してゆくが、旅行者として不慣れな土地に立ち入ったときの、初日の視点の定まらなさ、落ち着かなさが表れている。フォトジェニックなカットなどではない。写真をやる人間なら覚えがあるだろう。旅先で訳も分からないままに撮る、身体の在り処を確かめるようなカットだ。私自身の旅の記憶が蘇ってくる。夕方や夜に到着すると、宿にとりあえず辿り着くまでは、道中の色んなものが気になりつつも、余裕がないので踏み込んで撮ることができない。緊張していたり、関心の的が定まらなかったり、疲労で視界ブレたりする。その有様が映し出されていた。
ここでの「撮る」行為は、表現というよりは自分と町とを繋ぎとめるハーケンを打ち込むようなものだ。そう感じたのは、道に落ちている白い紙コップを撮ったものを、わざわざ2枚も展示していたからだ。不慣れな町の中で、全身手探りで歩くときの自分を、紙コップを依り代にして繋ぎ留めたようだ。孤独や寂しさの投影とも読めるが、そんなに感傷的な作家とも思えなかった。この作家の眼はもっとタフなものを抱えている。
画面は切り替わり、朝日が写し出され、「滞在」が始まると、どんどん身体が町に順応していく様子がうかがえる。町並み、道、車列を撮る眼差しのフォーカスが明確になっている。町の中の魅力的なもの、気になるものを身体が能動的に選び取ろうとし、映像が生き生きしてくる。
通行人(現地人だったり、同じ旅行者風だったりする)の後ろ姿、色鮮やかな花、自動車、店舗のファサード、強く差し込む太陽の光が代わる代わる写し出されてゆく。先述のように、町の中で迎える朝日のシーンが繰り返し提示される。また、町並みや広場、教会なども似たような場所が繰り返し登場し、どうやら作者は同じ場所に「滞在」し、毎日だいたい決まった時間に、決まったエリアを歩いているらしいと気付かされる。
中盤の初め、屋外、建物の陰で、古いボロボロのオルガンがうち捨てられている写真(椅子が置かれているので誰かが使っているのかもしれない)がある。そこが展示におけるターニングポイントだと感じた。それまでは町の外から来た者による探索だったが、この写真は、町の内部の人間の目線のように感じられたためだ。この廃オルガンは陰に溶け込んでおり、町の内側の異物ではないか。それに目を向けられるようになったということは、作者の身体が町に対して、一定の順応を完了したと言えなくはないか。
これ以降は、町の中で出会う通行人や建物、自動車の組み合わせの妙を工夫して捉え、スナップ「作品」として作り込んでいく。建物や店との距離感についても、いち風景だったところから、椅子の脚のカーブ、カフェの灰皿など、自身の身体に引き寄せて撮っている。(勿論、編集の成果でもあり、実際に撮った時系列はバラバラかも知れない。) 序盤に見られた心細さは中盤にはない。作者のクリエイティヴな精神が、町の中で生き生きと活動している。
終盤は「滞在」の終了を予期させる。陽光と色彩あふれる情景からトーンダウンし、雨粒に濡れたガラス越しに町を見下ろすシーンはそれまでにない情緒的さが際立ち、美しい。町に同化しつつあった作者は、帰国に向けて、急に引き剥がされつつあるようだ。駐車禁止か立入禁止の標識、道を妨げる壁など、それ以上先へは進めないというカットが続き、移動・探検の終了が告げられる。そして夜が来る。
最後は、スタートと同様にカレル橋を撮っているが、最初は憧れや期待感を投影されていたものが、ラストでは橋を楽しむ観光客らをやや遠目で観察しているように見える。作者はもはや旅人ではなく、たぶん町の一部になったのだと思う。そして、窓際に置かれたウォッカの空き瓶のカットで締めくくられる。瓶には寂しさなどは投影されておらず、むしろ夜の賑わいの痕を拾い上げたかのようだ。
以上が、私が個人的に体験した「TOWN」である。
プラハは2004年3月に訪れたが、のんびりした田舎町で、気に入っていた。当時のネガフィルムに何が写っているか見てみたくなった。プラハはいい町だったなあ。そういう個人的な思いもあって、追体験を楽しんだ。
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2.市橋織江氏と百々俊二館長とのトークショー
14時からのトークショーは、1時間前になるといきなり来場者が増え、増え続け、会場に用意された椅子では足りず、展示会場が若い女性で埋まっていた。これまで3~4回来たが、普段は1フロア2~3組しかいない。市橋氏の人気がすごすぎる。
トークは筋書き・打合せなしで、百々俊二館長のなだらかな世間話のような質問から、徐々に作家性、プラハでの撮影のことに切り込んでいく。来場者からの質問に答える時間が多めにとられ、市橋氏、百々館長二人の作家性が色濃く表れる場面が多々あって面白かった。
以下、印象に残った点を列挙する。
<キャリア、カメラについて>
・大学は武蔵美(空間演出デザイン)だが前期3ヶ月で中退。写真に転向。スタジオアシスタントを2年半、次にカメラマン(蜷川実花)のアシ。独立後の初仕事はスタジオジブリ映画「猫の恩返し」ガイドブック撮影。
・ある時点で、写真作家としてやっていくほどの才能はないかなと思い、写真で「仕事」をする方向に向かった。
・写真をやり始めた10代のとき初めて買ったのがライカ(M3)。お金がなくなり途中で売ってしまった。途中から中判カメラをずっと使っていたが、去年頃から気分が変わり、またライカ(M4)を購入。レンズは35㎜。
(中判で仕事をしてきたせいか、写真の四隅までしっかりと見て撮っているとの指摘)
・(才能の限界を感じたことについて)若い頃は「自分の写真最高!」という時期があるが、公募展に出したところ評価が思っていたほどではなかった、ということが何度か続き、作家として生きていくのは違うかなと思うようになり、仕事として写真をやるようになった。才能も欲もそこまでではないと。
<「TOWN」制作について>
・写真集を出す計画があり、あちこちに行った写真をまとめるつもりだったが、プラハに行って撮ったらこれ1冊で良いじゃないかと。滞在は4~5日間。
・日没が21時なので、1日を2回に分けて撮っていた。(6~7月のプラハは、日の出が4~5時で日没が21時と、日照時間がやたら長くなる)
・撮っている間は休憩もしない、ひたすら歩いている。女性が椅子に座っている作品は、盗み撮りをしている。目当ての被写体がいると、ホテルの中にさーっと入っていって、見つからないようにシャッ撮って、逃げる。
・ドレスの人は追いかけていって撮った。影の中に人がいる作品は、人が来るまで5~10分、いい人が来るまで張り込んでいた。
・現地では友達を作るどころか「誰とも関わらない」「言葉も発さない」。
←百々館長も同意。途中で飲み食いすると落ち着いてしまう、変な間が出来てペースが狂う、一度座ると立てなくなる、飲みたい誘惑に駆られるが飲むと写真が変わってしまう、等のご意見。
また、印象派絵画に近い作風と指摘。市橋氏も「意識はしていないが共通性は感じている」。
・本作のプリントは自作不可能なサイズのため、全てラボに出した。見本プリントを渡して、あとは全てお任せ。
・撮影はフィルム50本弱 (→50本×36枚=約1800枚)→展示の130点に絞り込み。
<作家性について>
・(プリントをどこまでこだわるかという質問に対し)
あまり時間をかけてプリント調整しないといけないのであれば、それは撮るときに問題があるのではないか。自分は色はあまりこだわっていない。苦労して焼くとすればそれは「良い写真」ではないかもしれない。
・「違和感」が好き。「ん」とか「お」という感じ。美しい、かっこいいとは異なるもの。自分でコントロールできないものを重要視している。
・(自分は風景写真が観光写真みたいになるが、どうしているか、という質問に対し)
それは撮るときに観光写真のように風景画見えているのではないか。自分は撮るときは作品にしようと思って風景を見ている。
←百々館長、「写真家は自分探しをしている」「なぜこの風景が気になるのか」。展示の作品に言及し、ブレていようが何しようが、それが作品。上手く撮ろうなんて思っていない、なぜならこのように見えてしまったことについて撮っているから、と回答をまとめる。
作家の文体にも館長の話が及ぶ。小説家、詩人らは言葉を発する前にすでに文体が違う、(表現のスタイルを?)確立させるプロセスを捨て去って、最後に残ったものが自分という文体であると指摘。
<展示、評価について>
・自分が良いと思ったら良い写真。言葉で言うのは難しい。
・他人の評論は気にしない。作っている時点では気にしていない、出してようやく気付く。
←百々館長、東松照明の言葉を引用。評論の順位が3つあり、「写真を見て褒めてくれる評論家は一番よくない。二番目はけなす人。一番いい人は、何も言わず作品を見て、写真集を買ってくれる人」と。たぶん冗談も入っていると思うが。なお、館長は自分の展示会場には立ち会いたくないとのこと。人が自分の作品を見ている様子は見たくない模様。逃げたくなるらしい。
( ´ - ` )
広告、ファッション等で活躍し、透明度の高いおしゃれな描写で世間を魅了している市橋織江氏が、超ガチンコのスナップ写真をがっつりやるのだということを知って、軽く衝撃でした。まじかよ。狂戦士ですがな。
爽やか小柄細身美女の姿からは想像のつかないガチンコぶりです。誰ともコミュニケーションもとらず、ひたすら自分の求める一瞬を探し回っては切り取ることに身を捧げていたとは。作家という人種は、なにか前世で特殊なカルマを積んできたんでしょうかね? 因果な人種です。
因果じゃ、作家などというものは因果じゃとぶつぶつ言いながら堪能しました。神様、どうして作家などという者がこの世にいるのですか。必要だからじゃ。はい。
サイン会がありましたが、えらい行列で、諦めて鹿と桜を愛でに行くことにして、花粉症の薬で寝そうになりながら、奈良を堪能しました。
( ´ - ` ) 奈良でした。あーたのしい。
完