写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】陳春祿(Chen Chun Lu)「収蔵童年」@大阪ニコンサロン

【写真展】陳春祿(Chen Chun Lu)「収蔵童年」@大阪ニコンサロン

 

 1956年生まれの作家が、自身の少年時代の憧憬、世界観、記憶を、様々な手法で映像化してゆく。個人史なのだがそれはもう伝奇なのであった。

 

 

(タイトルを含め、一部の表記を日本語の常用漢字に変換しています。本来のタイトル表記は「収藏童年」。)

 

 作者は台湾台南市生まれで、本展示は台湾節がしっかり効いていて、日本の写真とは少々異質だ。とはいえ、1985年には東京写真専門学校を卒業、同年から2年間、堀内カラー社で勤務しており、その人生には日本とも関わりも見られる。

 

「私の創作のアイデアは私の収蔵品から、私と収蔵品の縁は私の童年から。」というのがコンセプトとなっていて、展示作品は大いに実験、遊びが見られる。しかし不思議なことに、コラージュ、多重露光、PC上での合成を思いっきり多用しているのにその世界観には破綻や狭隘さはなく、作家の個人史、個人を貫く、生まれ育った地域のアイデンティティーが生き生きとしている。まるで賑やかな夜の縁日、屋台村を歩いているように、それらの作品は自然であり光るものがあった。作家の意図、作者の手を離れたところのものが鑑賞者に与えられている。

 

作者の好きなもの、作者の思い出のものを大量に散りばめてコラージュしていることが、一枚の映像の中に予期せぬ物性、外部性をもたらしているのではないだろうか。制作方法は不明だが、1枚のストレートな4×5大判フィルム写真に見えるこれらの作品は、恐らくPCでの緻密な編集などを経て、その内と縁には、庶民の曼荼羅とでも言うべき超細部が組み込まれている。作者が好きだった玩具、カード、映画のポスター、雑貨、古い写真などが執拗に登場し、懐かしくもシュールな世界が展開されている。これらは作者の個人的な思い入れを超えて、1960年代以降の台湾の歴史・文化を語るものとなっている。一人の人間の執拗さ、収集癖と再配置癖が、かれの所属する国の文化や歴史へとリンクしているのだ。マニアックであればあるほど、そのコンテンツは個人の領域を超えてゆく。都市部を捉えた写真の画面内では、ビルの壁面の多くが映画のポスターでラッピングされている。クリストを標榜しているわけではないから、実際に街をそのようにラップしたとは思えない。PC上で緻密に貼りつけ作業を行ったのだろうと思う。そのマニアックさが妙な説得力を持つ。

 

作者は記憶を巡るイメージのやり取りを行っている。作家自身の私的な記憶と、眼前の風景・「今」の社会との間で、問い掛けを行い、交渉を試みる。それはスペシャルな過去、記憶(差別、弾圧や被災など)を特には持たない一個人が、社会や地域との間に結んできた関係の原点を辿り、見つめ直す行為だ。玩具にせよポスターにせよアイドルにせよ、マニアックな収集とは、個人の純粋な動機から外部の社会へと手を伸ばし、貪欲に摂食し取り込もうとする原初の行為に他ならない。作者はそうして獲得、摂食してきたモノを、社会や風景へコラージュ、合成の形で投げ返している。

 

そして作者が可視化するのは、自身の「好きなもの」の収集だけではなく、ストレートな景色もしかと捉えている。かつて生まれ育った地の景色、個人史の出発点が失われてゆくことへの問題意識である。

歩を進めると、コラージュ作品から徐々に、作者の幼少期に由来する土地の景色に関するストレートフォトへと移りゆく。作品には作者の一言が小さなキャプションで添えられている。序盤のコラージュ作品では、映像の側の語彙が圧倒的に多いのだが、ストレート作品へ移行するにつれて、キャプションの1センテンスの持つ情報量、ふくみの奥行きが突然効いてくる。

例えば

「55年前少年時代に巡り歩いた土地は湖水に沈んでしまった。中国の唐詩”春江水暖鴨先知(水暖かなるは鴨先ず知る)”の先ず知った鴨たちが私の少年時代を探してくれる。」

といった句により、1枚1枚の何気ない写真の意味、情景が一気に立ち上がるのだ。

 

言わば、作者にとって写真とは、言葉と共にある詩なのかもしれない。

 

ストレート写真と書いたが、純粋な意味でのストレートではない。写真作品はいずれもフォーマットが統一されている(後半の、イラストを基調にした作品では様式がまた変わる)。大判リバーサルフィルムのスリーブを切り出したイメージになっていて、フレーム内には4隅に黒いフチが写り込んでいる。写真作品ではなく、写真というメディアで記録された作者の記憶を覗いていく構造となっている。

それらは、ことばと共にあり、構成要素の置換や上乗せが可能(コラージュの貼り付けや追加の焼き込み)なものとして扱われている。詩を編集するようにして作者は写真の映像文法を自由に扱う。

前半のコラージュは、写真on写真であったが、後半は写真パーツonイラストとなり、写真作品の枠を更に逸脱してゆく。

幻想的な、霧がかった絵をカンバスとして、切り抜かれた写真のパーツが貼り付けられている。この域になると作者の憧憬、個人史というより、作者の属していた台湾という地域の育んできた伝奇の文学性、歴史的な感性そのものの発露と言ってよいだろう。

作者は冒頭のステートメントでこのように宣言している。

「収藏童年」シリーズは、1960年当時5歳の私を時代背景に収集品をエレメント、4×5フィルムを媒体として用いています。また、写実を以って経と、観念を以って緯とし、撮影、絵画、コラージュ、PCでの編集を組み合わせて、わんぱくでめちゃくちゃ、それなのに色彩豊かな少年時代の物語を描いています。

 

宣言通り、作者はのびのびと、全力でファンタジーを敢行したわけである。御年63歳。ゴリラやゾウなど幼少期にはまだ珍しかったであろう珍獣や、大仏、ビニール製の怪獣人形などの玩具が、神秘的な霧のかかった聖地に溢れている。

台湾の事情は一切知らないのだが、日本の話を交えれば、これら作品には、その後の時代に到来するサブカルチャーの感性がしっかりと息づいている。また、作者の幼少期に強い支配力を持っていたであろう蒋介石のイメージも登場し、台湾という、国とも地域とも呼びにくい文化圏の、揺れ動く姿も秘めた伝奇であった。

 

 

( ´ - ` ) 完。