【写真表現大学】特別公開講座:澤田知子「ポップでタイポロジーな感覚と創造力」
〜コンセプチュアルを楽しく、類型から見えた洞察力を表現する〜
というわけで久々に学校の話題です。「特別公開講座」にフォトアーティスト・澤田知子氏が登壇し、夢を叶えた後にスランプに襲われたこと、その「どん底」からどのように脱却したかを語りました。
皆さん澤田知子さん知ってますか。一人で大量に変装する、あのお方です。
自力で書くと日が何度か暮れそうなので、学校のHPから紹介文を拝借します。
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澤田知子は2000年《ID400》でデビュー以来、《OMIAI》《School Days》など次々と新作を発表するセルフポートレイト系の作家として世界中で評価されてきた。しかし、2011年には作家自らスランプを語り出すが、アンディ・ウォーホル美術館からの招待作品展をきっかけに次の大きなステージへと展開した。以後の活発な制作活動から見えてきたことは時代の潮流に括られた分類の位置付けが揺らぎ、作家の創造の深淵にある独自の感覚が表現された。それは、コンセプチュアルアートから思考が始まりポップアートも感得しながら創った自画像や変身系の作品の通底にはタイポロジーへのこだわりがあった。作品の表層からは見えないが、ベルント&ヒラ・ベッヒャーの類型から問いかける視覚哲学の系譜に属することが明らかになる。近作の《SKIN》や《FACIAL SIGNATURE》をこの様に理解すると、現在の澤田知子はすでに世界の美術史の舞台でバトンを引き継いだ重要な日本の美術作家としての位置に立っている。澤田の新しいステージを知るためには評論や鑑賞もステレオタイプな見方から脱却しなければならない時期にきていることが分かる講座である。
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である。
( ´ - ` ) そういうことなんだよ。
文章量すごいな。模様みたいや。
完。
( ˆᴗˆ )あっ書きます。書きます。
はい
では当日のトーク内容をシャッシャッ。
(1)トークショー
①2000年・デビューから夢を叶えて
澤田氏は作家として活躍することを夢見ていた。成安造形大学の在学中、1998年に作品《ID400》(街の証明写真機で、400通りに変装した自分自身を撮影。400人分の証明写真をずらりと1枚の壁のように並べて展示)を作成・発表。
2000年に写真新世紀で特別賞を受賞し、アーティストとしてデビュー。同名の写真集が2003年に木村伊兵衛賞を受賞。作品は、日本、海外の美術館にコレクションされてゆく。
「作家になりたいなあ」という夢の階段を順調に上ってゆくのであった。まごうことなき人生の成功者である。パン買って来ましょうか先輩。
澤田氏の経歴はすごくて、年単位でボリューミーなため、受賞歴や展示についてはご本人HPのCVを参照されたい。
読みましたか。sugoiでしょう。
国際標準のsugoi。ごいす。パン買ってきましょうか先輩。
澤田氏の作品は、変装である。
「変身願望はないです」とおっしゃるように、「自分」は変わらず一人の「自分」としてそこに居る。しかしメイクや衣装によって「外見」を変えることで、中身・本人は何も変わっていないにも関わらず、周囲の反応が変わるということを取り上げている。中・高生と生きてきて、ファッションに興味を持つ中で、素朴に抱いた疑問であったという。
こうして澤田氏は、次の《OMIAI♡》(おみあい)(2005)シリーズでも好評を博し、オーストリア、カナダ等々での展示へとつながっていく。これは町中の写真館でよく店頭に掲げられている「お見合い写真」のフォーマットを逆説的に用い、作家が様々な「お見合い」の類型をこなしていくという作品である。海外では人気があり、依頼が多く、この2019年もドイツで展示を行うとのことだ。世界が注目し、宗教圏をも越えて拡散されるのは、お見合いという日本の風習が地域固有のものにとどまらず、婚姻制度、子孫繁栄といった、人類に共通して必要な営みであるためだろうか。
そして先述のとおり、2004年には写真集《ID400》が木村伊兵衛賞を受賞(篠山紀信が推したことで有名)、同時に「ICP」(ニューヨーク国際写真センター)で新人賞を受賞。この年は「忙しすぎて正直、記憶がない」とのこと。
というように、誰がどう見てもsugoiことになっており、このあたりの活躍、デビューから即・スターダムへのしあがる構図は誰しも何となく見聞きしたこともあるせいか、今だに「写真新世紀で一発当てたらsugoi」という幻想が民の間にはなんとなくあります。2000年前後はアメリカンドリームならぬ新世紀ドリームはけっこう濃厚にあった。懐かしい。インスタグラマーもYouTuberもいなかった時代、自己表現でバズってスターになって人生変わってサラリマン以外の道で食えるようになる、という庶民の希望については、写真家という選択肢が一定担保していた時代があったのである。その筆頭格にHIROMIXや澤田氏の存在があったことは間違いない。うむ。そうだ。思春期の世迷い事のように憧れたものだ。わはは。困った。そんな我々も尿の切れが悪くなる年齢を迎えつつある。困った。
しかし、忍び寄る影もありましたと。
②2008年~ スランプ突入
作家として現在叶えられる夢は叶え、「あがり」を迎えた澤田氏。海外にも作品を収蔵され、あちこちの国を飛び回って活躍する。
2007年からはNYに引っ越し。海外との接点が増えるにつれ、英語でコミュニケーションをとれるようになりたい、しかし日本にいても勉強できないからということで、住まいごと移してしまう作戦。
2008年。さきのCV(履歴書)を見ると確かに密度がヤバいのだが、バルセロナ、NY、サンタモニカ、日本、パリ、と、立て続けに飛び回って個展を開催している。まるで外交である。one man armyならぬワンマン外交官。誰もが憧れる「世界的作家」の代名詞のような生活。しかし…
しかし。
作家には影が忍び寄ってきていた。
「飽き」。
どことなく自分の作品に飽きてきていた。
全てセルフポートレイトの作風。
マンネリ。
スランプだろうか。
だが、
見て見ぬふりは、できる。
一方で影は深まる。
そして、
このまま作れば、評価はされ続けるだろう。
しかし。
面白くない・・・気がする
「不安で、見ないようにしてるものは、大きくなっていく」
時が流れる。
2009年。
澤田氏は作ることが怖くなっていた。作れないということ、それは「作家として終わり」を意味するのではないか。恐ろしい判決である。クリエイターが作ることを出来なくなれば、それは事実上、「終わり」なのだ。
澤田氏は「作家はこうやって消えていくんだな」と実感したという。
見なくなったね。
もう消えたんじゃないの。
などと、日本で言われることを思い浮かべた。ネガティブの妄想、自身の作り出した「おばけ」に襲われて動けなくなった。セルフポートレイトという作風もまた、根深い呪縛となっていた。
「今から就職とか・・・」事務職員として働く姿を想像してみる。無理だ。やったこともない。
「会社に毎日行くなんて、、
出来ない・・・」
望んでなったはずの「作家」のはずが
自分を苦しめる。
作家は悩んだ。
悩みすぎて「作家として終わる時は、ステージの上で、かつらを置いて去るビデオを作ろうかな…」と考えた。歌手・山口百恵の人生がマイクなら、変装のフォトアーティスト澤田氏にとっての人生は、かつらである。ビデオを作って…最期の作品に…。作家は、追い込まれていた。
そんな「底の底」にいたが、その渦中に舞い込んだ依頼が、スランプから浮上してゆく転機となる。
③スランプからの脱出、《SIGN》
ピッツバーグにあるアンディ・ウォーホル美術館の館長:エリック・シャイナー氏は、澤田氏と既知の縁であった。彼は澤田氏に「ファクトリー・ダイレクト:ピッツバーグ展」(Factory Direct: Pittsburgh) という地域おこしのアートイベントへ参加するよう依頼する。現代アーティスト14名がレジデンスの形で一定期間、現地に滞在し、地元企業とコラボするという企画である。
ちなみにこの企画には仏の整形実践アーティスト・オルランも参加していたようだ。NYタイムズでは「こんなの観るぐらいなら他所行ったほうがマシ」ぐらいの酷評だったらしいのだが、ちょっと気になる。
澤田氏にとっては、スランプの真っ只中にあったにも関わらず、新作を作らねばならないこと、何よりコラボ経験が少ないことと相まって、非常にハードルの高い仕事であった。しかし館長との縁はNYに最初に来た時からのものだったため、結局引き受けることにした。
同時期にはイタリア・ボローニャのGD4ART「PHOTOGRAPHY MEETS INDUSTORY」への参加依頼も受ける。こちらは「経済、社会、領域」というテーマに基づき企業とコラボを行うもので、やはり難しいとの判断からいったんは断っていたが、こちらも後に引き受けることになる。生死のギリギリのところにありながらも、アーティストの魂は死んでいなかったのだ。
「ファクトリー・ダイレクト」の展示企画は、地元企業の56社のうちから1社を選んでコラボを行うのだが、当時の澤田氏は「セルフポートレイト」という呪縛に襲われていた。企業のホームページを見ては企業の情報、イメージを掴む作業を進めていくが、どういう企画にすれば良いものか。この時はもう「本当に駄目だったら、作家をやめよう」と思っていたという。完全に追い込まれてしまっていた。
依頼を受けてから、制作の時期に入っていた。3年が経っていた。
ある日、NYのダイナー(アメリカの映画でお馴染みの、カフェっぽい雰囲気の大衆食堂)で、どのテーブルにもハインツ(HEINZ)のケチャップとマスタードのボトルが置かれているのを目にした。
澤田氏の眼にはそれが、顔に見えた。
顔である。
アメリカ人にとって日常の馴染みであるハインツのボトルは、ポップアート的な産物であり、そしてフォーマットに即した「顔」であった。顔だ。いけるかもしれない。これは顔だ。ハインツのボトルのラベルは、今まで作家としての自分が幾度も向き合ってきた、「顔」だったのだ。
そして澤田氏は作品《SIGN》を制作した。赤のケチャップと黄色のマスタード、それぞれ56点ずつをグリッドで組んだ作品群である。オリジナルとなる一本を撮った写真を元に、ラベルの「トマトケチャップ」「イエローマスタード」の部分をそれぞれ56種類の言語に翻訳した。これまでと同じように、顔を撮るように、変装した顔を撮るようにして。
「57」という数字は、ハインツ社が創業以来大事にしてきたラッキーナンバーである。澤田氏はそれも意識した。オリジナルの1点を作品56点に加えれば「57」になるよう構想した。
ちなみに翻訳に際してはGoogle大先生のイメージ検索を活用し、分からないものはFacebookページを活用して集合知から情報を得て作業を進めていったという。ペルシャ語は最後まで手こずったとか。
こうして完成した作品《SIGN》は、2012年「ファクトリー・ダイレクト」展に無事出展でき、そして褒められた。この時点ではまだ澤田氏には自信がなかった。身内だから誉めてくれるのかなと思った。ピッツバーグで最も有名なコレクターに大絶賛された。ホッとはしたが、まだ内心穏やかではなかった。展示会場を外からチラッと見た知り合いが、「セルフポートレイトでなくても、あなたの作品だと分かった」と言ってくれたことが、安心材料になった。徐々に、徐々に。
こうして、澤田氏はスランプの底から、少しづつ手ごたえを取り戻していく。
そして前述のGD4ART「PHOTOGRAPHY MEETS INDUSTORY」にも結局参加する。ここでは靴下屋とのコラボを選んだ。「女性の社会進出を生んだのは、ストッキングだ」との発想を組み立てた。企業のショールームで澤田氏は様々なストッキングを履き、脚だけを撮った。いつものように顔面・全身を用いてのセルフポートレイトではなかった。
澤田氏は自分に向き合い、対話を行う中で気付いていった。
スランプの正体は、
”今まで得た評価を失いたくない”という思いであったこと。
執着だったのだ。
これまで右肩上がりに高まり続けてきたアーティストとしての評価を、いざ、落としたり失うかもしれないとなった時に、執着が出た。
それが、自身のフォーマットへの「飽き」と相まって、作ることへ恐れを生み、スランプへの沼となった。
前提として、生活環境のハードさ――海外の美術界隈の仕組みや空気が日本と全く異なることも影響しているだろう。美術館での展示のオープニングパーティー、重要な客人向けのそれはまさに「社交」で、名の通った人物を連れていかないといけない。誰を連れてくるかを見られているのだ。
そして、関係者に会うたびに常に「今なに作ってるの?」「新作は?」と聞かれる。これは恐怖である。ついこないだ新作出したやん!という間合いでも「で、新作は?」と聞かれる。ハイパーな連中である。これはきつい。
日常会話のレベルで新作へのプレッシャーをかけられ、そのたびに「次もまたセルフポートレイトするのか・・・」と自分の中で渦を巻く。勿論、表面上は「んー。ひみつ。」と装うのだが、内心穏やかではなかっただろう。
想像してみてほしい。毎月売上ノルマを達成し続けることのできる車や家の営業マンが、世の中にどれだけいるだろうか。毎回試合に出場するたびにゴールを決められるサッカー選手が、どれだけいるだろうか。「売れてる?」「点いれてる?」と毎回毎回聞かれるキツさ。我々、日本の平民のように「いやー全然ですわ」「いや無理やし」とは答えられない立場。そんな迂闊な回答は許されるのだろうか。次から声をかけてもらえなさそうな怖さがある。実力主義社会。まったくハイパーだ。
そうやって澤田氏は生き抜いてきた。
澤田氏はピカソの言葉を引用した。
成功は危険だ。自分の成功をコピーしはじめてしまう。そして自分の成功をコピーするのは、他人の成功のコピーよりもっと危険だ。それは創造性の不妊を招いてしまう。
セルフポートレイトを、グリッドで組んでしまえば、それで評価される。そのことが怖かったという。しかし、作品を改めて作る中で自分と向き合った結果、「それがコピーではなかったことに気付いた」のだ。
コピーではなく、作品のコアであるとすれば、それは何だろうか。
作品《SIGN》へと辿り着いたことで、見えてきたことがあった。「自分は自分のことを、セルフポートレイト・アーティストだと思っていた」「けれど、ケチャップの作品を作って、実はタイポロジーの作家だと気付いた」
「タイポロジー」とは「類型学」と訳され、美術用語として定着している。写真ではベルント&ヒラ・ベッヒャー(ベッヒャー夫妻)に代表されるように、同一に揃えられた条件で撮影されたモチーフを、グリッドを組んで展開する手法である。フラットな見せ方に徹することによって、作品のモチーフからは、その時代性、歴史性が浮かび上がる。
この時より澤田氏は、「自分は何をやってもいいんだ」と、ようやくセルフポートレイトの「呪縛」から解除されることとなった。ゆうに、スランプから5年近くが経っていた。
( ´ - ` ) めでたし、めでたし。
④現在:《FACIAL SIGNATURE》、《Bloom》、締め括り
自分のアイデンティティーを「タイポロジーの作家」として再確認できた澤田氏は、スランプ中にうっすらとあったコンセプトの具現化に着手。「のびのびと作れるようになりました」と、また作品制作に取り掛かり、300人に変装した。
作品《FACIAL SIGNATURE》は、2015年春に日本での個展となった。NY滞在中あるいは他の国でも、「色々な国籍のアジア人に間違われる」という体験をしたことがきっかけとなった。日本人の友人といれば日本人以外に、韓国人の友人といれば…といったように。
黒い背景、黒い衣服で、顔にライトが来るよう撮られた作品群はまさに「はんこを押すような感じで」顔が続いている。ここでは人が、何をもって他者を、国籍を区別・認識しているかが問われているようだ。ある人は髪の染め方で、ある人はメイクの仕方で、目の前の人の人種、属性を判別する。どれも正解なのだろう、そしてそれらの読みのどれもが「私」という個に当たらず、周縁をさまよう。
そして話題は2018年、最新の展示に至った。
品川のキヤノンギャラリーSで10~11月にかけて開催された、写真家・須藤絢乃との2人展「SELF/OTHERS」である。須藤氏もまた作家自身の身体を用いて変装するアーティストで、2014年・写真新世紀で優秀賞を獲得しているが、その作品制作のマインドには澤田氏から多くの影響を受けたという。大阪のアートフェアで知り合ったことから交流が始まり、キヤノンに持ち掛けたところ2人展が実現した。
この展示は澤田氏が企画。「1つの展示に個展が2つある」形式をとる。壁4面に作品を並べて掲示するのではなく、フロアに壁面を立て置き、森の中へ迷い混むように構成された。須藤氏の作品のアクリル面に澤田氏の作品の顔が写り込み、覗き込むような形となっていることが特徴的だ。この企画に当たってはA4でマケットを作成して自宅の床に立て置き、空間の中心を決め、周辺の作品の配置を検討していったという。
ここで展示された澤田氏の作品は2種類あり、1つは《Bloom》、資生館が発行する美容情報誌「etRouge」(エルージュ)で連載した作品13点。そして初期作品《EarlyDays》、大学入学直後に購入した初めての一眼レフ「EOSkiss」で撮られた作品とを織り混ぜて展示した。最新作と最古作が融合した、稀有な展示である。
ちなみにキヤノンギャラリーは「キヤノン製カメラで撮られた作品のみ展示可能」とのことだ。超縁故採用ルールである。これには地元自治体の人事課職員も驚愕であろう。
なお筆者はその時期てんやわんやしており、てんやMAXだったためこの展示を観に行く機を逃している。残念なことです。もうだめだ。インスタレーション型の写真展。澤田氏の原点と現在系を同時に知ることのできる好機だったのだが。ままならない。嗚呼。スライドを観ながら「私がふたりほしい」「でもそれはキモい」「嗚呼」と唸った。嗚呼。
あーあー言うてる間に、トークは〆に入った。
いよいよ迫りくる2025年大阪万博への景気付け。澤田氏が2005年「愛・地球博」のアートプログラム「幸福のかたち」へ招聘され、作品《FACE》ーー3m四方の巨大な写真作品を、アフリカ共同館の壁面に展示したことなども語られた。
この時は、外国人に見えるように変装を施すのが一苦労で、骨格が日本人と違うためにメイクの手間がぐんと上がった。それは、通常1日30~40人に変装できるところ、2~3人が限度だったという難易度ぶりだったという。
今後もまだ活躍は続きます。
今年の秋には神戸・長田で展示の予定。4月からはCanonのフォトサークルで審査員に就任。また、年内には新書も出るかも知れないとのこと。
「スランプに陥ったとしても、それは”自分”の数多くある面の一部だから、作家としての”自分”が辛くなっても、それ以外は楽しくしたらいいと気付いた」と、スランプを乗り切るためのサバイバル術(?)も披露。ホワイトボードに”自分”の中にいる様々な”自分”を次々に可視化してみせ、「これは分けて考えたらいいんです」とアドバイス。達観の極みを見ました。
なお、本当にスランプに陥ったときは、その分野と全く関係のない友人などに気持ちを吐露するとよいと実体験も語られた。自分にとって生死を問う重大事であっても、アートに興味がない友人、距離の遠い友人からすれば、「あー、また作れるよー」と軽く返される。年配の人からは「スランプなんて、落ち切ったら見えてくるものがあるよー」と返される。そうした積み重ねが、自分を客観視し、自分を取り戻してゆく一歩へと、繋がってゆくようであった。
最後は、アーティストで居られることの幸せ、「世界一わがままな職業」を100%の力でやり切ることの幸せを語り、トークは締め括られた。素敵な笑顔であった。
(2)作品合評
生徒8名が作品を見てもらうの巻。
「館長からは厳しく見てくれと言われましたが、写真新世紀の審査よりも(だいぶ)甘くなりました」とのこと。
以下は、個々人の向かい合うべき課題なので、いただいたアドバイス、評の要点をpick upします。実際は2時間あります(白目)。
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・(撮っても同じような作品ばかりになることについて)なぜ同じものばかり出てきたらダメなんですか。私は2千回近く変装してきました。
・作品自体の価値は変わらない。これには絶対的な価値がある。受賞したり値段が付くのは「付加価値」の部分。作品がこの世に生まれたということ、その価値は、認めてあげてほしい。
・自分の作品を”最高”と思えるのは、そう言ってあげられるのは、世界で自分しかいない。
・説明をすればするほど作品は力を失う。伝わってほしい、分かってもらいたいと思うと弱さにつながる。不安があるのでは。
・力のある作品だけで、前後の物語は十分に伝わる。想像もできる。作者が”説明”すると、可能性がその分なくなる。読み手から物語を奪ってしまう。
・(セグメントを分けたことについて)被写体が人間だとしたら、それを見た眼で「赤ちゃん」「こども」「老人」と分けて分類している。ここでは「人間」を語りたかったはずでは。
・自分の考えを示すために、”最高”と思える方法で展示をすること。
・(セレクトに迷うのであれば)この中から消去法で、「選んだ5枚以外はぜんぶ棄てられると思って」選んでみてください。
・”自分探し”は、ドツボにはまる。風景でそれをやると、抜け出せなくなる。
・「誰か」のために作品を作ってはいけない。それは「世界中の全員」になってしまう。「自分のため」に作らないとだめ。
・全部、自分なんです。鏡のように。
・(センスに優れた作品について)何でもセンスよく作れる人は、そこから抜け出せなくなる。わざと、考えられないぐらい、ダサいものを撮ってみてください
・自分の「好き」な写真は、作品として「選ぶ」写真ではない。
・(一見、クールな作品だが、作者の精神を可視化した世界観について)撮っている一番の理由は大事にした方が良い、評論のできる人に、ちゃんと評論してもらった方が良い。人の言葉を消化して、入れていくと、育っていく。
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全体の総評としては、自分に自信がない・不安なようすが伺えることを指摘し、
「自分の作品を愛してる、と言える人が、もっと増えたらいいなと思います」と、端的に、深い言葉で締め括られました。
愛。
いいですね。
梅田のどっかに落としてきた気がする。拾いに行かないと…
愛。
( ´ - ` ) もう時間もないのでだいぶ端折りましたが、このへんをしっかりやりたい、クリエイティブに揉まれたいという奇特な方は、一度お問合せされるとよいと思います。まあ鍛えられます。ますよ。間違いない。
そういう一日でした。
ふうー。
その後の打ち上げでは、興奮しすぎ、空きグラスを積んでは倒し、ガシャーンバリバリと割ってしまい、向かいの澤田氏のあたりにガラスの破片がめっちゃ飛び散り、けっこうなガラスが飛んだので、今後体調不良に見舞われはったりしたら、十中八九筆者のせいである。ひいひい。今年の目標:落ち着いて飲もう。
( ´ - ` ) 完。