写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】VISUAL ARTS SHOW CASE 2019(ビジュアルアーツ専門学校・大阪 写真学科2年成果作品展)@富士フイルムフォトサロン大阪

【写真展】VISUAL ARTS SHOW CASE 2019(ビジュアルアーツ専門学校・大阪 写真学科2年成果作品展)@富士フイルムフォトサロン大阪

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うおーこれはいい。刺激になります。よく今の写真集とかを見てて、体で実践しているなあと感じます。観ると写欲が湧くのでGRなどを持って観に行くとよいでしょう。刺激。帰路で撮り始めるという効能がある。そう、街中でのスナップ作品の組写真展示が非常に多いのが今年度の特徴です。急にスナップの嵐になった気がする。教育方針かなあ。

 

都市でのスナップ。純粋なる「スナップ」が非常に多いグループ展で、一昔二昔前の写熱…70-80年代の写真界隈はこんな感じだったのではないかと思わされた。純粋スナップというのは私の感覚的造語で、私性、コンポラ、日常景を通り越し、もちろんソールライターやブレッソンのごとき、絵としての完成度なども回避した写真。すなわち隙間を撃つ写真。なんならPROVOKEにも依らない。あらゆる制度や言葉、既存の作風から逃れるためのスナップ。行為そのものとしてのスナップである。そのような校風を感じた。

 

ビジュアルアーツ、『地平』を復活させただけのことはある。あえてこの時代に純粋スナップ。

 

個々人の作品について撮ってアップして良いかは確認できなかったので、気になった作者・作品のメモをup。数がすごいので真面目に見て回ると大変で、ポートフォリオを個別に見ていく余裕は全くありませんでした。泡ふきそう。ぐふう。ふいた。

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■『わけわかめ』山本瑠美

粘体のイメージを採集している。肉や泡、塗料などと、作者自身の姿、体とを関連させる組み合わせ。原色の不定形が日常生活の、自己の内と外とにまろび出る。内から出た吐瀉なのか、外を咀嚼しようとした途中なのか。まだ何者でもない作者自身の、自己同一性の問題について言及しているようだ。異化と同化の試み、またはその失敗について。

 

タイトルが勿体なさすぎる・・・。

これは鑑賞者には必ず伝わるものがあるから、はしごを外してほしくなかった。内容の「意味不明」さはむしろ、鑑賞者が意味を自分で見いだそうとする動機につながる。

 

■『慊らないこの世界で今』島袋愛里

「あきたらない」と読む。読めなかった。無念。褪せ気味の、しかし色の効いたカラーでのスナップ群、縦4枚×横4枚の計16枚は、大阪のどこかで撮られているが、場所も時代も撹乱する。

よく「スナップは時代を写し出す」と言われるが、私は少々懐疑的だ。本作を見て時代区分を言い当てられるだろうか。昭和の家族景・生活景にすら見えるカットも混在する。スナップは撹乱のための行為だという教育をしっかり受けている気がする。梅田って意外と子供がいたんだなという発見もまた新鮮であった。作者は時代や場所の撹乱の中に、実は自身の内に秘めた家族景を撮っている気がする。

 

■『I to I』金沢優太

意味、文脈を切断するコラージュという技法は、画面内で時空間をジャンプ、ワープすることを可能にする。しかし人間は脆いので、適切な飛び石を経由しないとワープに失敗する。だからといってジャンプを控えてしまうと何処にも辿り着かず、最初から歩いたほうが早かったねという話にもなる。

作者は2枚の作品を提示した。大きさが極端に違い、間をたっぷり撮って、大きい方は35000キロ走った自動車のメーターとテレビアンテナの群れ、少さい方は誰かの葬儀らしき場の遺影と供え物の菓子。このジャンプは見事だと思った。後付けで読み手は意図をいくらでも語れる。ひたすらこのワープのジャンプ感が快感で、素晴らしい。ぜひ個展会場で観たい。

 

■『CIRCUS』山本良仁

都市には訳の分からないものが無数に潜んでいて、第三の眼を持つ「作家」という種族は、探検家、呪術家、学者のようにしてそれらを探知し、顕現させていく。そういう力を感じます。

どのビジュアルも濃く、街に生きる人やオブジェの形態の濃さ、そして色の濃さが縦3枚横7枚の計21枚、間隔無しの黒フレーム写真群(全体で1枚のよう)に凝縮されている。内藤正敏の、異界の扉の封を少し開けちゃう感じに似ているかも。タッチは遥かに優しくてセンスがあって現代的ですが。人間を撮っていてもオブジェと風景の狭間へ変換させているのがえらいと思う。私情を捨てたところを撮ろうとしている。いいなあ。

 

■『上関』田守悠人

別件。先日、写真の仲間が話してくれたのが、「写真界で評価されるかどうかに関係なく、失われゆくものを記録として写真に撮る活動自体は必要だと思う」ということだ。その方は都会から離れたかなり田舎の地方都市を「第2の故郷」として撮り、あるいは写真を集めてアーカイブ化する活動の枠組みを行政などに提案しようとしている。

風景や暮らしは一見、永続的に見えるのだが、いちど失われると再現はほぼ不可能だ。素朴な丘や田畑を刈り取ってソーラーパネルだらけにした後、いつ誰がそれを復元する/できるのだろうか。

日常が変わってしまう。それを低コストで記録し留めるには、写真は最高のメディアである。

地域密着フォトはそれだけで全て唯一無二、貴重ということになってしまい、語ることが難しい。が、野村恵子や古賀絵里子のような取り組み方もあるので、色々と模索は出来ると思う。内心、自分自身に言い聞かせつつ。真似できないので頑張ってほしいな。

 

■『PRE-POST』金栗歩

接頭辞「pre」は「前の、以前の」を意味し、「post」は逆に「後の」を意味する接頭辞である。前の・後の、が、同時に接続されているということは、「ビフォーアフター」のような単なる時系列、過去対現在という二項比較ではないだろう。

大小のモノクロ写真の軸には、作者の血の縁が繋がれているのだろうか。尖った若い男性、若い女性のセクシーな背、母親ぐらいの年齢の女性、この3枚を基軸にして、都市の雑踏から切り出された、はみ出した人やマシンや雑踏が写し出される。時系列は不明である。幼少期の記憶を辿るようでもあり、今現在をソリッドに掴み取ったようでもある。 

 

■『Atlas』佐藤颯馬

「atlas」には「天空を担ぐ巨人」や「地図帳」といった意味がある。しかしこの作品群は怪奇で、そのどちらともつかない。言うなれば、AIやWebのクローラーが探索して、人間界の「様子」「世界」を機械的に判断して収集・選択したような、有意と無意のどちらともつかない光景を切り出しているようだ。それらは大小が入り乱れ、写真は散らばり、重なり合い、意味の素の塊はかなり整理されつつあるが、まだ意味の生成は不確かだ。

人がおり、横断歩道をゆく無数の通行人がおり、抱き合う体があり、繋ぎ合う手があり、青空がある。それらはまるで、人間界へ投入されたAIが、この我々の世界を手始めに機械学習し始めたかのようにぎこちなく、一周回ってエロティックだ。人の顔がノイズに満ちていて解像度が安定しない点が、まだ「人間」を掴みかねているようで、良い。 

誰かの作風にかなり似ているのだが、思い出せない。既視感があることは確かなのだが…

 

■『メガロタウン五番街』小島菜波

 90年代には多く見られたのかもしれない、若い・女性の・日常の・ビビッドな・私たちの、物語と断片の狭間、のようにも見える。だが確信犯的に、1枚1枚の絵が「きまって」いて、短編映画のPVのように、見る側に物語を自然と想像させる。それがどんなストーリーかは分からないが、聞こえないはずの音楽とともに物語の入口へ誘導していく強さがある。

タテヨコ混在で「面」に組まれたそれは、写真というより更に戯曲性を増している。なぜだろうか。タイトルの「メガロタウン五番街」は、大阪市平野区平野宮町にある、「地元」の商業施設の名称かもしれない。作者の地元を巡る話なのだろうか。喜怒哀楽の多くが伏せられた表情、ゲーセンだかコインランドリーだか得体の知れないマシンから、意味の反転した地元に降り立つ主人公。アリスぽくていいなあ。

 

 

という。

( ˆᴗˆ )忙しくて書くのが後回しになっていたら会期がもうない。ヒィアァー