【ART/トークショー】第9回 小吹隆文アートのこぶ〆 トーク編(ゲスト:木ノ下智恵子)@ギャラリー白(はく)kuro
H31.1/17(木)。テーマは90年代のアートの動向について、関西のアートシーンに精通したお二人が語るというもの。小吹氏は当時、雑誌『ぴあ』美術ライターとして、木ノ下氏は神戸クリエイティブデザインセンター(KAVC)の立ち上げ人かつアーティスト育成者プロジェクトの企画者として、90年代をつぶさに見てきた人物である。(現在、小吹氏はフリーランス、木ノ下氏は大阪大学 社学共創本部 准教授)
トークは短い「黙祷」から始められた。そういえばこの1月17日は、阪神大震災が起きた日だった。24年も経つと関西人でも何かが決定的に薄れてくる。
以下はトーク内容から要点を個人的にまとめ。
90年代当時のアートの動向について、「像がうまく結べない」という小吹氏の切り口から、主に木ノ下氏のKAVCでの取組事例などを踏まえて可視化がなされていった。
90年代のアートシーンを語る上で深く避けられないのがまさに「震災」であった。
阪神大震災、オウム教の地下鉄サリン事件など、現代社会を根底から揺るがす出来事に見舞われた時代にあって、アーティスト、アートそのものが「社会」との関りなくしては成り立たないものとなった。カタストロフィーのみならず、企業メセナの流行、NPO法人の開始(1998)、公募展や各地域でのアートプロジェクトの増加などといった動向と絡めたお話である。
その傾向は、90年代前半から顕著となった「バブルの終焉」から徐々に引き起こされていったものであったかもしれない。当時のアートシーンについて、小吹氏は、90年初頭はまだバブルの余力でふわーっとしており、若手作家の活動も80年代の引力圏に引き込まれていたことを指摘。木ノ下氏は学生時代で、自身がアーティスト側だったことを踏まえて、上の世代の作家らはとりあえず上っていける感、「とりあえず食べていけるでしょ」という余裕があったが、自分たちの側は懐疑的であり、特に震災以降、「そもそもアートなんかやっていて良いのか?」という切迫感があり、世代の感覚の違いがあったことを語った。
木ノ下氏は震災後の復興企画として、ジョルジュ・ルースの神戸での製作活動にボランティアとして関わる。この時の関わりが縁となってKAVCから声を掛けられ、試験を受けて職員となったという。
(参考link:ジョルジュ・ルース_『10+1』) 10plus1.jp
トークではKAVC時代での若手アーティスト育成・発表に係る取り組みとして、各芸術系学校に在籍している作家の卵をそこの指導教官が選んで展示を行わせる「仕組み」を構築したくだりが話された。これらの取り組み・展示が「神戸アートアニュアル」で、1996年~2005年の10年間で一区切りが付いた形になっている。アート作家が、自分の作品制作以外にも、冊子のデザインからミーティングなどの展示全体に関わることが仕組みとして導入され、企画の大元であるKAVC側はその共働者、伴奏者の役割を担った。
こうした活動によって、キュレーター、アートマネジメント、セルフプロモーションといった、ゼロ年代以降のアートシーンにおける基板が作られた旨が話題となった。
参考資料として「神戸アートアニュアル」各年の展示企画の冊子が回覧されたが、ものすごく良い資料だ。ほしい。うわあ。いいなあ。時代の、生の情報だ。まさに「90年代」後半からゼロ年代にかけて、時代の空気感と言うのか、どのような思考の作家らが現れ、どんな展示の傾向があったかが伝わってくる。
残念ながらKAVCの運営者が変わったため(※KAVCは神戸市が1996年開設、2005年からは指定管理者制度により運営。2005-2017年は大阪ガスクリエイト社、2017年以降は神戸市民文化振興財団が経営を継承)、木ノ下が在籍していた当時の資料をWebで閲覧することが出来なくなったらしい。一般に販売された冊子でもないため、図書館でも漁るしかない。
というのは、90年代に現代アート系の若手作家らがどのように「写真」を用いて表現を試行錯誤したのかを知る上で、有用な資料となるからだ。写真界側は盛り上がっていたので、その勢いは、当時写真界と無縁な学生だった私でもよく覚えている。隔世の感があるが、当時はWebではなく紙媒体に力があった時代なので、広告・ファッション・アート系様々な新世代のフォトグラファーが、各方面の雑誌で実に華々しく活躍していた。しかし、現代美術の側に属するアーティストらによる、映像表現手段として「写真」を扱った活動は、水面下にあったように思う。『スタジオボイス』を隅まで熟読していた訳でもないので、ガチのアート系の方々がどのような試行錯誤に明け暮れていたか、個人的には見えていないのであった。(今、私などが取り組んでいる作品作りが、既にやり尽くされたものかどうか検証したい)
さて、
アーティスト、アート自体が社会的にならざるを得なくなったことについては、木ノ下氏は良くも悪くもという立ち位置であり、むしろ「まずさ」のニュアンスも滲ませた。作家のピュアな視点で語ろうとしても、それが許されない状況が震災以降の風土であるようだ。
皆、優秀だが粒ぞろいな(学校教育やコンペのプレゼンへの対応による結果としての)作家活動が目立つようにようになったということだろうか。教育を受けていない90年代初頭の世代のほうがむしろやたらと巨大な作品をぶち上げて来るといった、想定外の力があったようだ。
これにはまた、越後妻有、横浜、愛知などに代表される、地域に密着したアートプロジェクトも無関係ではないだろう。時代としてはゼロ年代の動きだが、その下地は90年代に培われたプロジェクトの企画・実践システム、そしてアートの範疇の移行(=オブジェクトが時空間そのものを扱うプロジェクト的なものへ変化)によるところが大きい。小吹氏言うところの、90年代は「若い子がプロのアーティストとして食べていける時代が来たという幻想」を持つことが出来た、「具体的な生業としてのアートを”リアルに”考えることが出来た」時代は到来した。しかしそれは引き換えに、作家が社会、組織の要請とうまく折り合いをつける(=食っていく)ことが、作家活動のスタンダードとなっていったことを意味しているように感じられた。
90年代の作風として、両名が共通して挙げたのは、私的な、私小説のような表現が増えていたことである。「私」、「私」の周囲、「私」の友達、といった、日常の至近距離における関係性が対象となる。
それは写真界隈がまさにそうであった。インドやアフリカやニューヨーク、あるいは南極などの秘境やあるいは戦場が撮られることも重要とは分かりつつ、ビビッドなリアリティはそこではなかった。都内の女子高生の化粧台やclubで落ち合う仲間などの方が胸を指すようなリアリティがあった。
ちなみに小吹氏が当時、「80年代の引力から抜け出せた人」と実感した作家として、栗田咲子の名が挙がった。残念ながら私の知らない作家さんで、私は芸術系の出身でもなく、写真外の領域についてはヌタウナギ程度の視覚しか持ち合わせていないのでここでの言及は避けます。sake進行
(参考link:栗田咲子_『ART遊覧』)
90年代の表現を行う作家として、木ノ下氏は束芋について取り上げた。
(参考link:束芋_『art access』)
さすがの芸術音痴の私でも、束芋作品は知っている。動画だからだ。しかもアニメーション。なんとかビエンナーレやメディアアートの特集の際には、やはり目にする機会があり、妙な後味がするので記憶から消えない。
また、振り返って80年代の表現に関しては、「ニューペインティング」や「ニューウェイブ」といった動向はあったものの、実際にはそれらには属さない多様な表現が多く存在していたので、決めつけることはよろしくない、と小吹氏から指摘があった。国立国際美術館で開催中の『ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代』を観ていると、実際、途中の80年代半ばあたりから作風の一貫性や傾向など語りようもないことが分かる。と思ったら、これを執筆している本日(1/20)で会期終了のようだ。あれまあ。
ともあれ、80年代の再考、再評価と、その流れで90年代なるものを考えていくことが、昨今注目のテーマということで、2020年代を思考するための準備期間のような趣があり、良いですね。どんどんやっていただきたいと思います。やる。はい。
しかし実際、こうして束芋などアーティストの10数年前のWeb記事を振り返って調べようとしても、wikiから貼られたlinkが軒並み404エラーで壊滅、ということがまさに起きており、資料・史実として蓄積されないことを実感します。ええのかこれ。現在のWebメディアについては管理者、サーバ側の都合でリアルに「消滅」することも話題になり、紙媒体が結局最強、みたいな話も出ました。「いや俺、こうやってぐだぐだ書いてるけど、ある日突然全部無になるねんなあ」「無やなあ」「いやな仏教観やなあ」と思いながら聴いていたわけで、「Webメディアとアーカイブって結局どうすんのよ」という面倒な課題を考えつつ帰路についたわけですが、トークは面白かったです。
( ´ - ` ) 完。