nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】ART PROJECT KOBE 2019「TRANS-」_グレゴール・シュナイダー《美術館の終焉―12の道行き》@神戸各所

【ART】ART PROJECT KOBE 2019「TRANS-」_グレゴール・シュナイダー《美術館の終焉―12の道行き》@神戸各所

神戸が異世界に変わる。 

【会期】2019.9/14(土)~11/10(日)

 

神戸市の新開地、新長田、兵庫港で展開された、都市で同時多発する演劇のようなアートプロジェクト。作家はグレゴール・シュナイダー、やなぎみわの2名。うち、やなぎは野外演劇《日輪の翼》を担当、今回はそちらの公演は観ていない。なので本稿では、G・シュナイダーが神戸の街の随所に仕掛けた《美術館の終焉》、日常と隣り合う非日常の空間を追っていきます。

通常の、地域密着型アートイベントだと、複数の作家が参加し、1人1点、多くて3点ぐらいで作品を展示しますが、この企画ではシュナイダー1人が、行く先々で一貫した世界を演出し、私達を徐々に深みへ沈めてゆきます。こういう企画は初めてです。

 

ただし撮影禁止がかなり多くて、あまりビジュアルはお見せできませんが。一応順に沿ってメモです。各展示は「留」(りゅう)と呼ばれます。

 

(1)JR神戸駅~新開地エリア

■第1、2留:JR神戸/デュオドーム
《死にゆくこと、生きながらえること》

JR神戸駅の地下広場なのだが、基本的にプロジェクト自体は撮影禁止。いやあ辛い。なんやねんなもう。いや、わかりますよ。何でも撮ったらええもんやないっちゅうのは知っていますp。けども、おばちゃんは辛い。こういう期間限定で消えていく、街ぐるみのプロジェクトは、もので記録しないと記憶にも残らないんすよ。え?胸に刻めって? はい。胸。

広場にいる人たちは別のピアノコンサート聴きに来たお客。 

この白いのが作品というかプロジェクト。中では、参加希望者に3Dスキャナで全身撮影をしてもらえる。ただし75歳以上の高齢者に限られる。なぜならそのデータは最後の「第12留:丸五市場」にて、アバター・生きた亡霊となって立ち現れることになるためだ。展示を回っているうちにそのへんのメタな設定を忘れているので、最後に出会うと何気に「ホワッッ」「リンクしとる!」とベタに感動する。楽しかった。

  

ドッペルゲンガー

さきの写真で黒い箱があるよね。そこが舞台になっていて、定時になるとダンサーによるパフォーマンスが行われる。見れてません。くそっ。神戸は狭くて広いんだよ。その壁面にはどこか別の場所が中継で投影されている。重なる時間と空間。たぶんダンサーが登場する際には向こう側でもダンサーが これは後に「第10留:ノアービル」《ドッペルゲンガー》プログラムと連動していることが判明する。回ってるうちにそのへんの設定も忘れているのであとで感動します。楽しかった。

 

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<移動> 

神戸駅から地下街「メトロこうべ」を伝って高速神戸、新開地方面へ抜けます。ここは90年代から特に変化がないような気がする。いいですね。

やなぎみわ日輪は今回見送り。いつ観るねんな。中上健次だから観たいんですけどね。体験者によると海からの風がくそ寒かったらしいです。いつかは観たいが...

表示が助かります。点在する会場をつないで辿り着いていくこと自体が、一つの作品作りというか、自分で星座を作らないといけない。

 

■第3留:旧兵庫県立健康生活科学研究所

《消えた現実》

ここが事実上のメインコンテンツ。観るところが多いうえに撮影可という素敵な施設。素敵すぎる。泣いた。うそです。 

1948年から使用されていたが、老朽化に伴い2018年4月に新築移転し、このは建物は空き家となっている。「感染症部」が連打される部署名がいかつい。結構大きいなあ。良い廃墟になりそうだなあ。廃墟ランドにしてほしいなあ。なりません。5Fに上がります。

 

 

( ´ - ` ) 白い。 

 

 

( ´ - ` )  白い。

 

 

(* ^  ^ *)  白い。

 

 

白い。前後の平衡感覚が失われる。白い中を歩いていると自分を囚人なのか、精神を失った者のように思う。廃墟ですらない。廃墟は前後関係が重要で、過去の堆積があって初めて廃墟と呼べるのだが、ここは何だと呼べるのだろうか。時間を失った、時の流れが凍結した通路は、自分がどこから来たのかも分からなくなる。

白い空間の中の扉は、動かず背景になっているものと、開いて中に入れるものとがある。たまに中に入れるというのが、本企画の肝になっている。生身の体で探索できるフィクション。我々観客は演者にもなる。そして、白いとは言え、完全な「無」ではなく、ところどころに現役時代の姿を残していて、たまに現実に帰る。その揺り戻しは強烈だ。 

取り残された危機、危険のしるし。それが無かったとしても、機械的に続く「白」に囲まれていると、死や喪失の念が自然と湧いてくる。だがボルタンスキーの空間が他の誰かの死を強烈に想起させられる(=こちらは生き残った者としてそのことを覚える責を担う)のに対して、こちらは自分が失われて「死」に放り込まれる。こちらがこれまで貯えてきた記憶や経験をリセットされる思いがする。

 

 

( ´ - ` ) ああ。

 

 

( ´ - ` )  白かった。

 

部屋を出ても喪失の余韻が効いていて、そのあたりの壁の白さが無として響いてくる。元は役所の一機関なんですけどね。職員がいなくなったあとは無機質な空間が異様なものになる。

さほど広くはない廊下、ワンパターンな色と形の連続は、古い「職場」そのもので、本来は「死」や「無」と相反するはずだ。が、人の気配が絶えた古い施設の中に立っていると、時間と空間の方向感覚はやはり狂うようだ。扉の色が少し暖色寄りなので、先程のように異世界に飛ばされることはないが…。スタッフからは「扉を開けてみて、開いたら入ってよい」とアナウンスされている。なので一枚ずつ扉を開けて回ることになる。ほとんどは閉まっているが、どうかな。リアルRPG。いやゲームよりもずっと・・・    

 

 

( ´ - ` )ノ ガチャ

 

 

( ´ - ` )  こんちは、

 

 

 

( ゚q ゚ ) あー

 

 

あーあー

 

 

( ゚q ゚ ) あーあーあーー。

 

 

反射神経は阪神・淡路大震災の記憶と直結した。この時点で私は更にシュナイダーの思惑に巻き込まれるのであった。白い世界で無へとリセットされ、異世界へ放り込まれた後で、突きつけられる、「あの時の」世界。何を想起するのかは人によって異なるだろう。新潟の地震、東日本の震災、或いは昨今の台風の風水害、もしくはもっと抽象的な破壊全般のイメージ、心象とも映るかもしれない。そうやって個々人が何かしら負のイメージで心を揺さぶられる。あかんこれ震災や。あかん震災や。私は穏やかではなかった。あかん。

 

あかん。良い意味であかん。

観客は散乱した設備、備品の間を抜けて、歩いて進んでいくことができる。入口から覗き込んだ瞬間、まるで阪神大震災の時に崩落した状態のまま放置されているかに見えた。だが進みながら落ち着いて観ていくと、この廃墟は来場者が安全に観て回れるよう配置された「舞台」であることが分かる。偽りの舞台が、実の記憶と混ざり合って、着実に侵入してくる。シュナイダーの舞台は確実にこちらを侵食する。

 

確かにこれは美術館ではありえない「鑑賞」の形だ。

美術館という日常から隔離された特権的な場では、どこまで行ってもこちらは「観客」、目の前にあるものは「作品」で、責任分界線が存在する。しかし日常の延長にあるところ(あるいは日常から脱落した、逆方向での非日常の場)で叩き込まれる場では、「作品」とこちらとの間に間仕切りがなく、直接に作用する。

だが展示の体裁をとる限りは、それも運営の匙加減ひとつでまた分界線が強力に効いてきて、安全・不可侵な「作品」へと逆戻りしてしまう。自由で予測不可能な「鑑賞」体験と、作品保全上の観客のコントロールとのバランスはなかなか難しい。その点では、この旧県立生活化学研究所は、観客は放置されており、非日常へ存分に迷い込むことができた。なので一番楽しかった。

 

まだ続きがあります。階を更に上へ移動。

 

扉を一枚ずつ確認。リアルRPG。モンスターはいませんが。きゃつらは私たちの心の中にいる。ババーババー(エンカウント音)

 

 

( ´ - ` ) ガチャ。

 

 

( ´ - ` ) こんちは。

 

 

 

( ´ - ` ) うう、

 

 

( ´ - ` ) ぐう、

 

なんか後味がすごい悪い想像をしました。コンクリートの冷たい広がり、硬くて暗い質感、蛇口、排水、タイル・・・。「動物たちがここで何されていたんだろう」感。

いや、何も変なことされていないんですけどね。兵庫県の北条博士の異名をとったマッドサイエンティストの遊び場であるとかそういう景気の良い話はなく、まあ県の検査スペースですから。とは言え、機材や設備が取り払われた「無」の中では、こちらの想像は掻き立てられた後に吸収される場がなく、暗いタイルとコンクリートに反射、増幅されて、ここは収容所として浮かび上がる。歴史の陰たる収容所を産み出すのは私達の想像力なのだ。家畜の疫病の検査、食品の検査などが行われていたと思われるが、かなりの広さの中を歩き回っていると、馬や豚がここに連れられてきて、調べられ、洗われ、そして体液が排水溝を伝って流れ・・・と、何か色々と連想が進むのを止められない。

冷徹なコンクリートの間が終わり、屋上に出ることができた。

 

外の空気を吸って気分が楽になった。

 

ここも何か動物をつないでおく畜舎的なスペースだった? ハイテンションな保育所みたいになっており、まあ園児がどうとか、内部の施設の解剖とか実験のイメージへまたしても接続詞が走り、混乱するわけです。アウシュビッツ!それはおまえだ!  はい。

 

そうして散策は終了。この建物もいずれ取り壊されることは間違いないので、貴重な機会となった。 

この一ヶ所だけでなんか満足した。1時間ほど滞在。

 

 

■第4留:メトロこうべ(地下街)

また地下街に戻って歩いていきます。TRANS-を追うと神戸地下の経験値が貯まります。

 

新開地付近のこの地下街は、古本屋と卓球があってですね、90年代から基本的な構成が変わっていないので素晴らしいですのよ。高校の頃に一冊100円とか50円で筒井康隆とか森村誠一を買ったような気がする。

メトロこうべ開業の明るく賑やかなイラストがあったりして、昔はもっと陰鬱な雰囲気だったような気がするんですが、なんか明るいですね。古本屋が増殖してほしいなあ。ふえろふえろ。

 

■《条件付け》

さてこのような並びにTRANS-の展示(展示と呼んでいいのか??だんだん分からなくなってきた)があります。地下街の店のない側の壁に、仮設の何かがある。通路が膨らんでいるのだ。歩いていて違和感に気付くことができるのは地元住民ぐらいだと思う。

この無数に並ぶトイレ?個室?のような扉とスペース群が展示。見事に同化しており、最後の最後まで、元からそういう設備があったものだと勘違いしていた。

係員のチケット確認を経て、この扉から入場。中は撮影禁止。他の扉は全て開かない。

入ると、小部屋が延々と続く。2つのユニットから成る部屋が終わりなく続いていく。排水管の接続先の金具だけが壁と床に残っていて、浴槽や洗面台があったらしき気配だけが漂う。モノはない。

誰が何のためにこんな小部屋で洗面、洗体を行っていたのか、しかも集団で。労働者か。何のための当直室だ。それにしては小さすぎるし、古いのか新しいのかも分からない。緊急時のための仮設浴槽が?そんな事態とは一体?

水場というものは強烈に訴えかけてくるものがある。生活で水を使う場は一際重要だということもあろうが、水場の生活感は桁違いに高く、自分以外の誰かがそこで生活していること、その命のナワバリのようなものを意識してしまう。私は誰かの生態に踏み込んでいるのだ、そのことを水場は催させる。

相手の生活圏にもろに踏み込んでいること、だがその生活や主体の痕跡が見当たらないこと、亡霊でも相手にしているのだろうか。どの扉も開かない。換気扇だけがある。終わらない回廊の先に何を見るのだろうか。結論はないまま、いつしか出口に辿り着いた。なんだこれは。なんなんだこれは。 

 

■第5留:神戸アートヴィレッジセンター(KAVC:カバック)

新開地に用事があることって人生でほとんど無かったんですが、唯一、KAVCは私に新開地へ来る必然性をもたらしたと言ってよいでしょう。

<★link>KAVC

https://www.kavc.or.jp/ 

 

 

《自己消費される生産》

この作品は映像のため写真なし。大きく2段階に分かれ、前半はブレアウィッチめいて、撮影者が手にするカメラの位置は定まらず上下も狂いっ放しだ。何やら部屋を散策し続けているようだ。何者か・撮影者は移動し続けている。夜なのか暗い。足音が反射し、床や扉、梯子を行き来するのが何度も繰り返して映される。盛んに梯子を行き来し、地下に降りているのか、天井裏に上っているのか、暗く、前後左右がなく、目的も行き先もない。閉ざされた空間は底なしに深く感じる。撮影者の顔は分からない。足音や扉を開く音がひたすら響いている。

後半では、普通に画面が明るくなる。家庭内、台所、妻らしき女性の後ろ姿が映っている。調理をしている。カメラは風呂場に移動する。シャワーを浴びながら男性が身をかがめて何かをしている。全裸でちょこちょこ手を動かしている。カメラは寝室に移る。階段と廊下の折れ曲がりが繰り返され、床、階段、扉がクローズアップされ、ここは家屋の中のはずだが迷宮化し、家屋の全体像は分からなくなる。迷路。迷路。迷路。そしていつしか再び明るくなり、キッチン、女性。バスルーム、身をかがめる全裸の男性。時間も空間もループしている。逃げ場はなく、迷い込む。

 

 

( ´ - ` )  終わった。

 

 

( ´ - ` ) まいごや。

 

 

■第6留:私邸1

《自己消費される行為》《喪失》

「私邸」の2つのプログラムは具体的な情報が伏せられている。当日、KAVCに来た人にだけツアーの予約が可能だ。時間を区切って限られた人数だけガイドに案内されてゆく。文字通りプライベートな空間で展開されるため、撮影禁止、場所等の詳細も漏洩は禁じられている。 

会期終了間際になると即・満席。 

 

(  >_<) 予約してたけどJR神戸のマクドで一服してたらツアー行ってもうた ああああ しくったあああ   あああ。  行ってもうたあああ。

ちくせう。

KAVCからツアーガイド出発、近隣のどこかの物件へ案内され、その中で作品を体験するのであった。うう。 

 

■第7留:私邸2

《恍惚》

こちらは無事にツアー参加できた。ふう(汗。

案内されたのは少し離れた飲食店街、かなり寂れた雑居ビルの裏手に回り込み、完全に個人の生活の場へと立ち入っていく。情報を秘密にし、撮影禁止としているのも納得だ。表は飲食店でも、ビルの裏手は無防備な誰かの「私」の場なのだ。やたら急な階段を、住人の生活スペースなので部屋の中はあまりじろじろ見ないように、と注意されながら上へ進む。なぜここまで配慮の必要な私的な場を、会場として貸してくれたのか、どういう経緯で借りることになったのか、色々と謎が多い。

3階に上り、じゃらじゃらした珠のれんをくぐり、右側の部屋に入ると、お一人様の空間。手前の机上にはパソコン、壁にはゲームセンターの貼り紙。部屋の奥にはパチンコ台が、上下2列で壁を埋め尽して並んでいる。妖しく電光が溢れ、陶酔感に溢れている。音は一切なく、シロップのような発光がサイバーな日本という幻想をかき立てる。現実の日本ではない。どこのアジアの国か分からない甘くて痺れる幻想の中にいる。プレイヤーのいないパチンコ台は、プレイの対象、プレイヤーのためにではなく、ゲーム世界の背景として光り続ける。閉じたこの場では全ては背景へと後退していて、私たちはぐるぐる回りながら鑑賞し、現実とゲームの境目で滞留している。

しばし時を過ごし、ゲーム世界から、また急な階段を下って物件を出た。元通り、平らな街に出てきた。夢から覚めたらしい。

 

面白かった。 

 

(2)新長田エリア

新長田と長田の違いを説明しろと言われても返答に窮するが、駅前に巨大な鉄人28号がいる。今回は観ていない。 

■第8留:神戸市立兵庫荘

いきなり地図の外になるが、⑤駒ヶ林駅の2駅東にある御崎公園駅から北へ歩いて5分ほどのところに「兵庫荘」という物件があり、そこが会場です。

《住居の暗部》

ザ・公舎という出で立ち。公営の低所得・男性労働者向け宿泊施設だったが、2017年度末で閉鎖。 

昭和33年(1958年)に建てられ、神戸港の港湾労働者などが多く利用してきたらしい。見た目はさほど古くないが、戦後日本の発展とともにある裏方的な存在だったようだ。つい最近まで現役だったことが逆に驚きだ。

 

内部は撮影禁止。1階部分が展示会場。

 

入口でペンライトを渡され、散策する。中は真っ暗で、非常口の看板だけが緑色に光っている。暗い。中のもの全てはシルバーに塗装されている。床も天井も、扉も、扉の奥にある室内の隅々、蛇口も、床も、天井も、そこに残された生活用品や布団も、全てがシルバーだ。

暗闇の中で銀色は、固まって見える。時間が硬化している。流れが止まっていて、化石化している。しかし、第3留《消えた現実》のように時間と空間が在り処を失ってしまうのではなく、そこにはある「今」が、今そこから微動たりともしなくなった、流れを一切失った状態なのだ。隙間なく塗料を浴びせられた物品の数々は大まかな輪郭だけを残して名詞を失い、何ものでもなくなっている。試しに触れてみると手触りも不自然で、元の物体から変性している。特注で、調度品によく似たオブジェを作り直したのだろうかと疑ったが、上から銀色を塗ってあるだけでオリジナルの物品そのものではある。が、レンジ、やかん、コンロ、冷蔵庫、机、棚、箒、ゴミ箱、ベッド、ふとん、ペットボトル、ゴミなどあらゆるものが、銀色になって変性し、「生活」の痕跡を留めつつも、空間は別の次元に移行している。

懐かしさでも、廃墟感でもなく、未来でもない。時間が「今」の時点を以って硬質化してしまったのだ。このような停止の仕方は写真にも出来ない。 

 

■第9留:神戸市営地下鉄海岸線・駒ヶ林駅コンコース

《白の拷問》 

駒ヶ林駅の地下道は白くて長い。作品の続きのようだ。長い長い回廊を通り抜けてゆくと、神戸市バスや路面電車の写真アーカイブが続く。そして端に到着すると、係員しか入れないポンプ室への業務用扉、これが作品への入口だという。例によって撮影不可、1人ずつ順番に入っていく。

 

真っ白につやつや輝く通路、両脇に赤い引き戸が並んでいる。即座に留置所だと思った。説明によると、『アメリカ軍がキューバに秘密裡に設けた、グアンタナモ湾収容キャンプ内の施設を再現したもの』らしい。知識がなくても、嫌な予感がする。整然としすぎた間取りと清潔さ、管理の目的だけが形になったような環境だ。一枚一枚扉を調べていくと、やはり開くものがあった。中身は全くもって、独房である。床と、段差の上に寝床(ただの段差)、そして銀色に輝く水場だけがある。だけしかない。ヒトという動物を容れておくための籠だ。

清潔感とツヤにより、具体的な事件や、そうした場所に閉ざされた人間、その顔などを想起することはなかった。特に思いを掻き立てられることはない。ただ、ヒトを収容するための場所は、このようにひどく抽象的なものなのだ、ということが具体的に理解でき、良い気分はしない。そう、抽象的な諸々のものが、ここでは物理になって立ち上がる。監獄制度の彫刻だ。

  

■第10留・11留:ノアービル

ドッペルゲンガー

新長田の本町筋商店街、少し古い雑居ビルの中で、確か和室だったと思う、撮影禁止だったので記録がないが、靴を脱いで上がった気がきがする。モニターには見た覚えのある映像が流れていて、それが全然動いていない。何もない空間を撮っていて、ああ、あれだ、JR神戸駅の下でやっていた、《ドッペルゲンガー》の無人中継の片割れだと気付いた。不在の双子で、この広がった展示会場をもう一度、観客の中で繋ぎ直し、循環するようになっている。 

 《空っぽにされた》

ノアービルの階段を上って屋上に出たが、何も無かった。逆に言えば、屋上があり、空間があった。元々、何がどこまで作品なのか分からない企画なので、それでも別に気になることはない。この平らな空間が、実は廃材や設備を全部どけて作られた「間」かも知れないし、ビルの低さゆえに特に見るところもないため、床の模様を見ていたら、精神的な抽象画に見えてきた、ということでもいいかも知れない。つかみどころはなく、あるのか無いのか分からないところを彷徨った。

また階段を下って、ビルを後にした。 

 

■第12留:丸五市場

《死にゆくこと、生きながらえること》

1918年(大正7年)に設立された。レトロ市場として時折、ファンも訪れる。かく言う私も10年近く前に撮影に来たことがある。シャッターが開いていようが閉まっていようが、あらゆるところからにじみ出る滋味のような「良さ」がたまらない。人の手がずっと入れられてきたことが分かるからだ。それは1995年の阪神・淡路大震災をも生き延びた風格と呼べるのかもしれない。 

丸五市場では専用アプリのインストールを推奨される。起動させると、ほとんど人のいない市場のあちこちに、人間が立つようになる。これが、JR神戸駅下で3Dスキャンされていた75歳以上の方々の姿である。

拡張現実の亡霊。この人たちは完璧な・人間らしい人間の映像ではない。質感はどこかゴム製の彫刻のようにごわごわしている。何より、実際の人間と大きく異なるのは重さの質感だ。3D画像は重さが感じられない。居るのだが浮いているのだ。しかし普段着で立っているその人達に、3D上で近付いたり回り込んだりしていると、あながち映像やデータと言って切り捨てることもできない。不確かな気持ちになる。

距離によって彼ら彼女らは現れたり消えたりする。デジタル亡霊である。原理的にはこれ以上、齢を取らない、不死の存在だ。しかし、解説によると『増殖する亡霊たちは、TRANS-会期の最終日にひとつの存在へと昇華され、第1留に出現する。』とされている。不死の亡霊には終わりがある――第1留から第12留まで繰り広げられたミニマルで壮大な死や無のフィクションの舞台は、会期終了を以って閉じてしまうことが明確に予言されている。

可能ならその瞬間に立ち会ってみたいものだ。

 

ここまでの行程で、観客がそれぞれに抱いた死や喪失、無の体験の中で出会った存在は、どんなものだっただろうか。私はやはり、初手から阪神・淡路大震災の記憶に引きずり込まれ、東日本大震災の記憶とともに、震災の犠牲者やその時の被害が念頭にあった。直接に身近な人を亡くした訳ではないが、多くの、不特定多数の暮らし、そして国土が壊滅したことで生じた、心の一部をえぐって持って行かれるような想い、それを思い出した。

 

 

良い企画だった。一人のアーティストに全権、全会場を委ね、長い小説を足で読んでいくような行為、これはたまりません。もっとやってください。 

 

 

( ´ - ` ) 完。