【写真】木津川アート2018(「クニを見る、恭仁から見る」成田直子)
成田氏の展示は屋外で風に吹かれて揺れている。眼のクローズアップ写真だ。空き地で眼が泳いでいる。生きているような生々しさがある。
この巨大な眼が語るのは、黒目に反射した風景についてである。作品のサイズはかなり大きく、黒目が顔ぐらいあり、その反射景は周囲の景観と呼応してゆく。それは今ここに見渡せる空間だけでなく、時間の広がりとも繋がりを持つ。
本作は「木津川アート2018」出展作品であり、眼が置かれているこの場所は、1300年前の平安時代に「恭仁京」(くにきょう)という都の中枢が置かれていた土地である。わずか4年で更に遷都したという、幻の都だ。
見ての通り作品が無ければ、ただ平らな土地である。都の面影を想い起こすための糧にできそうな建築物の跡や、土地の特徴などは特になかった。平らな土地と説明書きの看板があるだけだ。過去の世界でどんな栄華や、あるいは抗争が錯綜していたのかをイメージすることは、歴史の専門家やよほどの夢想家でないと難しい。ただただ穏やかな時間が流れていた。
しかし成田氏の作品は一つの可能性を与えてくれる。過去の世界と、現在の「今ここ」とは、眼球というメディウムの上で連結できるのではないか、というものだ。
まちの景観や我々の暮らしは、この1300年の間に、別世界と呼べるまでに変貌した。しかし我々の肉体の構造、眼球の仕組みは、基本的には同じと言ってよいだろう。生々しく濡れた瞳を見ていると、様々な年代に生きている人たちの眼を直接覗き込んでいる気分にさせられた。その眼に宿した光の色、景色の丸み、色彩の滲みは、千年、二千年ほどの時空なら飛び超えて、連結できるようだった。眼はどんな歴史書よりも雄弁かもしれない。
作品ではあえて分かりやすくモノクロームやカラーの使い分けで時代区分の違いを演出していたと感じたが、全部カラーだったとしても、モチーフの主題がしっかりしていたから伝わったと思う。平安時代の民も、戦前戦後の民も、平成最後の民も、それぞれに皆が瞳に何かを映して見つめ、思いを馳せていたことを、作品によって連結された時空の中で、この「体」をベースにして共感する。何もない平らな土地では、過去世界の宮中や文化を想うのは難しいが、かつて此処に立っていた人たちが、私と同じ体――この瞳に、何を宿して息衝いていたかを想起することは、成田氏の作品によって可能になる。その射程距離は恭仁京の時代のみならず、更に近代、昭和の戦前、戦後と、細かく刻みながら遡上することが可能だ。歴史と呼ばれている、重層的で厚い情報の地層を、土の塊ではなくコンタクトレンズのように加工し、付け替えてゆくことが可能となる。
眼のクローズアップ作品ということで、マン・レイ「涙」を反射的に想起するが、数秒後にはそれとは全く違うと分かる。本作では、眼の表面に貼り付いた「景色」が主役である。ヒトの眼に囲まれるというのは、本来落ち着かないものだが(犯罪抑止効果すら認められ、近年は防犯ポスターに多用されている)、ここでは眼は被写体でありながらメディウムへと転化されているため、イメージとしては強いのだが、眼差しはこちら(鑑賞者)を透過して、それぞれに遥か遠くを見ている。だから、朧気で、どこか優しい。
しかし写真の面白いところは、メディウムと言えども、その「目」の個体差をしっかりと写し出してしまう点だ。眼を差し出した協力者各位の個性・・・目頭の位置、睫毛の長さや密度、黒目の大きさ、マスカラの塗りといった、個人のドキュメンタリーにも繋がっていきそうな点が興味深かった。
( ´ - ` ) 完。