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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【映画】「ゆけゆけ二度目の処女」監督:若松孝二 @第七藝術劇場

 【映画】「ゆけゆけ二度目の処女」監督:若松孝二 @第七藝術劇場

 相変わらず、何が処女なのかはよく分からないのであった。だってこれは「詩」だから!

若松孝二監督作品を積極的に摂取する必要がある。

 

 

先日述べたように、思想を持たないシステムの僕(しもべ)が、自らの脚で立って「表現」をしようなどと決起するには、よきテロリズムの火を湛えた大先輩にまずは学ぶ必要がある。その点については写真史より映画の方が熱い。なぜなら昭和の映像(映画)は思想運動だからだ。ヌーヴェル・ヴァーグの風邪でも引いていたのかな。ともかく、魂を摂取する必要があった。

 

mareosiev.hatenablog.com

 

がしかし、詩であれ何であれ、生まれ落ちた時代が違うと、同じ日本人のはずが、全く意味が分からない。魂どころの話ではない。これは映画なので、少なくとも写真や詩よりは情報量が桁違いに多く、嫌でも分かると思っていたのだが、それが分からない。

 

若い女性が屋上でレイプされる、翌朝若い眼鏡の男と正体のない言葉を交わす、眼鏡の男が外へ行こうとか地下へ行こうとか連れまわす、男の自室には4人の刺殺体がある、彼が全て殺した、自分を弄んだ者を同じ目に遭わせたと言う、女は自分を殺してくれと乞う、理由がなければ殺せないと眼鏡の男は言う、女をレイプした男とその仲間の女らに再び出くわす、存在を嘲笑されて眼鏡の男は再び刺殺を始める、女は私を殺してと乞い続ける、そして屋上には女と眼鏡の男だけになり、殺して、殺せない、愛してる、愛が分からないとの堂々巡りがある、キャッキャウフフの戯れ、女を抱けない、女は屋上から飛び降りる、続いて眼鏡の男が飛び降りる、死ぬ。終わり。

この映画は一体何を言っているんだ?

 

到底分からないということにぶち当たって、平成最後の年に、ミニシアター内で難儀している。この『ゆけゆけ二度目の処女』は1969年の作品で、まだ日本に学生紛争の熱が残っている時代の世界観なのだが、80年生まれの私にとっては、古典の「詩」であり、登場人物らが何を泣いていて、何に苦しみ、何にキレているのかを知る術はない。村上龍「69」は非常に分かりやすかったのに対し、この差は一体何なのだろうか。

それはやはり、この映画の文法が「詩」だからとしか言いようがない。60年代後期という時代の空気そのものが、憂んだ「詩」なのかもしれない。話の筋道、物語としての構造はない。風、雰囲気、肌に触る温度のようなものがある。持って回った物の言い方、断片的で印象的で、けれど周囲の文脈から切断された、いや周囲の文脈を切断する言葉、上手いこと言ってやった風で、実は何も言ってないような、辞書で空気を殴りつけるような、レトリックというか、何なんだよ、何なのかな。そういう「場」がある。

だが私はその「場」から10年、15年後に生まれているので、何も共有できない。ただ、レトリックだけが響く。「ゆけ ゆけ 二度目の処女 男が選んだ最高傑作」「ゆけ ゆけ 二度目の処女 遠回りでも明るい歩道を」何だ何だ。「私を殺して!殺してよ!」「愛してる!」「殺してよ!」???だから、一体何なんだよ。

やばいな。

 

そういうわけで、マンションのビルが舞台で(若松監督が当時住んでいた物件らしい)、そのマンションの地下、階段、一室、屋上を行き来しながら、その外へは出ない。密室劇であり、そこから飛び出した時には、死人になる。書籍の外に出た詩の言葉が、支持体を失って死んでしまうように、彼らもまたビルの外に飛び出すと、死骸と血のりを遺して、生命・物語としては終わってしまう。

冒頭から女性が不良ヒッピー野郎たちに丸太のように屋上に担ぎ込まれて、レイプされる。彼女は17歳らしい。ただ女性には、これが二度目のレイプだという意識や記憶、追憶、語りはあるが、自我らしきものがあまりない。これは映画という体裁の「詩」だからなのか、終止、ラストまで、女性には自我、自意識らしきものがない。内面がない。レイプされること、裸にされることが、いちいち風が吹くぐらいの「軽さ」なのだ。眼鏡の男もそうだ。人を殺す、殺してしまう、女を抱けない、それらの重大事について、現象としての結果はあれど、それが引き起こす当人の人間としての何かは語られない。起きている全てが詩のように、ことばで詠まれ、ことばで吹き抜けてゆく世界である。憶測すら出来ないが、ゴダールからもっと政治を抜いて無色透明な風を吹き込んだような文体だ。学生運動の果てに若者はとんでもないところにたどり着いてしまったのか。

そこに立っている登場人物らも、彼らの嘲笑や性行為や、悲鳴や命乞いや狼狽も、詩の語り部に過ぎないから、悲壮感は全くない。現代の文学、映画で扱われている「性暴力」「レイプ」とは、単語は同じでも扱っている事象、文体が全く異なる。時代劇とまでは言わないまでも、それぐらい世界線の遠さがある。性行為自体が、それこそ時代劇における剣撃と同じように、現実のそれとは似ても似つかない「型」なのだ。作中の全てがリリックだと言っても良い。

 

風とリリックの中でこの映画を映画たらしめているのが、狂気、殺意の眼だ。

主人公となるのは、実はレイプされる女性ではなく、眼鏡で奥手な童貞青年の方だが、単なる異性に不慣れなオタク野郎ではない。秩序の外側にいる、「鬼」である。あどけなく、幼く性に不慣れな男子に見える時もあれば、人ならぬ者、人を人とも思わず殺しまくってきた、刹那的で深い絶望を宿した存在にも見える。冒頭、夜の屋上で4人の男らに代わる代わる犯される女性を、彼は屋上の手すりのあたりに立ったまま、眼鏡の奥の危険な光を宿して、事も無げにただ見ていた。夜に溶け込み、眼鏡の奥を光らせている、闇の王たる風格は、人外の危険さを感じさせた。終盤、惨殺を決行する彼はまた、闇の王へと回帰する。眼鏡は返り血でベトベトに汚れ、フィルムがモノクロのため、それは赤くはなく、黒い。この狂気が五体を突き動かすとき、彼は「詩」のレトリックから自由になり、行為者として、「映画」となっていた。

性交を拒み、どれだけ誘われても情に、愛に、性に身を委ねることができない眼鏡の青年は、常人の理解の及ばない「鬼」――真のテロリストとして生きている。彼は、性衝動や欲望をまき散らす存在を嫌悪し、それが自分に干渉してくる際には、背や腹に包丁を突き立てて、命を奪う。感情と思想の狭間にある、また別の原理で彼はしっかりと人を殺す。男女の区別もない。自分の存在を穢し、蔑ろにされることは、殺しの理由となるという。

 

正義ではない。悪でもない、極めて「生理」に近い動機で人を殺す存在。それは当時の学生らが置かれていた状況を根底から批判しているようにも見える。どちらの派閥が正しいか、革命などもう終わったのか、する気はないけど就職しないといけないのか、結局誰が真実なのか。熱病の残響を引きずりながら、当初の革命とはかけ離れたところをぐるぐる回る状況に対して、眼鏡の主人公の「鬼」なるニヒリズムと、「私を殺してよ」と繰り返すばかりの女の「生」の虚しさが、ビルという都市の密室で響き渡る。生きることと死んでいることとが区分し難い、温度の無い淡水の中で、言葉が交わされ、すり抜け、何かを殴りつけ、改めてもうここには何も無いことを確認して、二人は死んだ。その全体が「詩」というものなのか。よくわからないが、静かにざわざわとさせられ、鑑賞者の内には、感染の痕が、このようにして遺された。このウイルスは消えそうで消えない。

 

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