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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【映画】「処女ゲバゲバ」監督:若松孝二 @第七藝術劇場

【映画】「処女ゲバゲバ」監督:若松孝二 @第七藝術劇場

 「三丁目の交番、あれも爆破します」(『止められるか、俺たちを』ラスト)で若松孝二ファンになりました。痺れます。20年前に出会っておきたかった。そんなわけで1969年の初期作品『処女ゲバゲバ』。これが怪作というか問題作であった。

ゲバはゲバルト(ドイツ語で「暴力」)のゲバ。ヤクザの親分の女・花子と、駆け落ちしようとした下っ端の男・星という名のチンピラが、同じく下っ端のヤクザ者と娼婦らに荒野に捨てられ、死を宣告されるところから始まる。

 

そしてそのまま荒野でラストまでを迎えることになる。現実世界から切り離された時空間で、星と花子の衣服を徐々に脱がせ、目隠しをしたまま、体の一部を拘束したままで嘲笑し、 土の上に転がす。星と花子には悲壮感はなく、交わす言葉は学生のポエムのように微笑ましくもある。表向きのストーリーはあって無いようなものだ。事態は徐々に狂ってゆき、現実離れした象徴的なシーンが繰り広げられるようになる。

丸太で組んだ十字架に張り付けにされる裸体の花子、獣と化す男・星。寓話、象徴の美を映像に表したのだろうと思った。キリストを模した十字架の磔となった花子のカットが最後まで延々と繰り返し登場する。誰も荒野から出ないまま、一つの完結した神話のようにして荒野の中でこの話は終わりを迎える。

 

ストーリーを見よう。ボスの命令で手下ら男女複数名は星を処刑する。全裸にし、白いテントで女たちに犯させるが、この時に星は「ボスの命令で、始末をつける前に1日だけボスと呼んでやる」と、男ならそれが夢だろう、ボスのお情けだと言われ、かりそめのボスとして扱われる。ここで主人公は、チンピラ映画や青春映画における登場人物としての嘲笑・いたぶりの対象から、寓話の主人公、人界から隔離された荒野における王と化すのである。

この時点で神話的というか、王殺しの話・フォークロアであったことに気付くべきであったが、「若松孝二の初期作品=当時世間が驚嘆したピンク映画」という図式で見すぎていて発想がひどく狭まってしまった。確かに女性のヌードは頻出するが、エロスとは程遠い展開になってゆく。だがどこが若松作品としての見所なのだろうか。全共闘世代の若者がどこに共感し、驚嘆したのか見出だそうとしてしまったため、先入観に捕らわれしまった。寓話的なセリフのやりとり、特に目隠しをされながら花子と星が、ここは地下室だとか、湖があるに違いないと憶測を語り合うシーンは、単なる時代遅れなポエムとして棄却してしまった。そこにこそ、この物語がピンク映画ではなく、時空を超えたフォークロアたる舞台設定があったはずである。

 

星はテントの中で娼婦の一人を絞殺して、テントから直下の窪みへ全裸でボトリと転げ落ち、全裸で逃走する。この場面でヒトから獣へと生まれ直した主人公は、ひたすら果てのない荒野を全裸で走るが、その跳躍はまさに人外の疾走力であった。人を殺めたことのショックか、恐怖か、原初的な感情のまま咆哮を上げてひたすら走る。その肢体はなぜか逞しく、ひきしまっていて野性的だった。

そして女から剥ぎ取って手にしていた肌着をまとってしまう。なんと、両性具有の、男でも女でもない存在となる。この、女物の肌着を身に付けた筋肉質の若き男性というビジュアルは、ヒトを超えた者として主人公を理解も共感も不可能な立ち位置へと至らしめる。また、冒頭から冗談混じりに花子に囁いていた「俺には尻尾があるんだ」という陳腐な戯れ言、睦みごとの修辞に思えた言葉が、重要なモチーフとなって生きてくる。全編を通じて、人外の存在となった者による王殺しの話が語られる。最後に繰り返し流れる歌は、主人公になぜ尻尾が生えているのか、ということを繰り返すだけの不可思議な歌である。秩序の破壊者、穢れた存在、人外の者を謳う、和製聖書のような映像作品である。

 

女性の肌着をまとって彷徨う主人公は、夜、荒野で、その大地主であるボス(実は所属していた組織のボス)のキャンプに偶然出くわし、一宿一飯の恩義を受ける。その際に覗かせてもらったライフルのスコープに映った乳房を撃つと、それは花子であり、瀕死の重傷を負わせてしまう。

翌朝、再び荒野の放浪を始めるが、星は自身を窮地に陥れた組織の男たち・娼婦たちのキャンプに舞い戻ってくる。皆、目に見えない位置からの銃弾に怯えている。そして胸から血を流したまま磔にされている花子を見て、悲しむでもなく発狂するでもなく、彼女の足元にしたたり落ちる血を啜る。この時にヒロインの花子はヒトではなく肉を持ったキリスト、聖者として場に力をもたらす。男たちは星を棒で追い回すが、まだ彼のことを「ボスの命令だから」と、ボスと呼んでいる。

ここではすでに一般社会、一般の映画における理論や感性を超えた、原始社会の原理のような奇怪な力が場を支配している。まさにフォークロアの世界だ。聖者の血を飲むことで、仮の王を、真の王たらしめてゆく。

 

私はここを革命や学生運動と絡めて考えていた。キリスト教民俗学のフレームで読み解いた方が楽だったように思うが、いかようにでも読もうと思えば連想付けて読むことが出来るのではないか。

銃弾は革命の実行、花子の血の赤は革命の成就、花子(聖女)の瀕死は、傷つけてはいけない存在=愛や家族への損傷(=革命の本質的失敗)、取り巻きのギャングの男や女たちは社会構成員(ヤクザや闇社会と、そのウラの社会である学生や会社員など一般民間人)の代表・象徴。彼らの怒号や棍棒の応酬は、まさにゲバ棒で内向きのセクト争いを繰り返す暴力の愚(実際に発狂し始めた男達は、何故か棒で同士討ちを始める)。そして最も大切な存在を傷付けてしまった主人公は、本当の意味での「革命」の成就後の存在(当時日常的に行われていたような、学生紛争としての組織的反抗、思想的闘争ではなく、理性を超えた自己批判により、真のアウトサイダーと成ってしまうこと)。覚醒後の星が、女をちぎっては投げ捨てるように犯してはテントの外へ放り出す行為は、社会構成員の上下を完全に混乱させ、場の秩序を崩壊させ、そこにいるものへの脅威をもたらすもの(冒頭でさんざんな嘲笑といたぶりを与えていたものを、供物として喰う側に回る)、スサノオ的な存在。これらがマルクス共産主義社会主義とどう関連するかは不明だが、一応そのように枠組みと役柄を類推して鑑賞することが可能だ。

 

そんな彼らの動乱のシーンも、組織の真のボスの趣味的な銃弾によって狩猟され、さらに破壊される。もう物語としてのカタルシスもオチもない。遠距離から趣味で撃たれ、わけの分からないままに女や男たちが死んでいく。これは権力の正しい力の行使である。権力の行使者は姿を見せず、手を汚すことなく、人民に力を一方的に加えることが可能である。そしてボスは記念写真を撮る。だが、その隙にズダ袋の中で一度袋叩きに遭って死んでいた星は、生死を曖昧にさせ、生へと転じて、ボス達の背後に立つ。そして主人公は王もろとも、皆殺しにし、荒野を火に変えて、聖者となって歩いてゆく。その最後の姿は、映画の話法を超えていて(後退していて?)、まさに聖書的だ。

 

権力者はカメラを使ってはいけない。実はカメラは権力と相性がよろしくない。脱権力の装置とでも言おうか。一方的にカメラを向ける側でいるうちは良いが、カメラを自分に向けた瞬間に、それは王の持つ特権を無化させる。機械の目の前では、王は民と対等になり、不死や支配の特権は剥ぎ取られる。だから組織のボスが二度も記念写真を撮ってしまったとき、既にこの映画の物語の枠組み、構造的な力もろとも、王は決定的に死んだのである。ただ、写真の外側から動いて迫ってくる主人公だけは、カメラにとって圧倒的異物として、捉えきれない存在となる。

そのような写真・映像の眼の力を、若松監督は絶対に自覚していたと思う。出なければ2度も、一眼レフを用いた記念写真のシーンを挿入しない。若松監督にとっては、銃よりもカメラのほうが、重大な脱権力の装置だった気がする。

 

観ている時は「うーん」「よくわかんない」「1969年の若者の感性ってこんな感じなんですかね」という感じだったが、言葉で振り返ってみると、何だか凄いものを観た気がしてきた。王と王殺しの話、カメラという装置と、革命の話。権力は誰のものか、それを無化させるのは何か。面白い。答えはいつだって無力な狂人が握っている。