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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【映画】ヴィジュアルフォークロア(映像×民俗)「見世物小屋」「カベールの馬」「女が男を守る島」@第七藝術劇場

【映画】ヴィジュアルフォークロア(映像×民俗)「見世物小屋」「カベールの馬」「女が男を守る島」@第七藝術劇場

十三の第七藝術劇場(通称ナナゲイ)では、この11月から来年1月にかけて「ヴィジュアルフォークロア」という、民俗学的に価値の高い映像作品の上映を特集している。第1講となる11/10~16は、「失われゆく者たち」、今となっては消滅してしまった文化の映像記録3作を上映している。 

( ´ - ` ) 3作続けて鑑賞しました。よかった。

 

3作品の記憶などを簡単にメモ。

 

(1)「見世物小屋 ~旅の芸人・人間ポンプ一座~」(1997年/119分)

存在は聞いて知っていたが、興味を持つようになるころにはすっかり消滅してしまった「見世物小屋」の内部を記録したドキュメンタリー。人間ポンプ芸で生涯体を張り続けた安田里美氏の率いる「安田興行社」の、2日間の祭の舞台(1994年の秩父夜祭)を追いつつ、映画の冒頭とラストは、1996年の安田里美氏の葬儀のシーンを挿入している。これは「見世物小屋」という一つの日本の風俗がついに終わったことを示している。

 

葬儀のシーンがなかったとしても、映画全体を通じて、見世物小屋の運営はぎりぎりのところに来ていることが伝わってきた。一座9人の顔ぶれは、若い人がおらず、高齢世帯である。安田里美氏は当時で70歳ぐらいだ。自分の親世代ほどの人たちが、協力してトラックから荷物を下ろしては、何もない敷地に一から木材を組み上げて、居住スペース付きの舞台を作り上げていく。現場で鍛えられた実力を感じるとともに、本来、20~40代の若手がやるような仕事を、こんなに高齢世帯がやらなければいけないのかと、まず衝撃を受けた。

しかも、一座には、余所では受け容れてもらえない”アウトサイダー”がメンバーとして登用されていた。体に障害のある人、心や精神がうまく発達できなかった人などが、ともに働いている(佇んでいる)。それぞれのメンバーが、それぞれの事情でそこにいた。行政でも家族でも、彼ら彼女らの居場所を提供することは困難だろう。結果、社会の何処にも生き場がないため、引き取る形で一座が面倒を見ていた。言うなれば社会福祉の役割を果たしていた。第二の衝撃だった。一体どのような人たちが、異形の人間のふりを装って、前時代的な「見世物」をやっているのかと思ったら、作業所や「老人いこいの家」に居そうな人たちが、体を張っていたのだった。

これは安田里美氏自身が、過酷な幼少期を送ってきたことにも起因しているかもしれない。作品の中では一切言及されていないが、監督の北村皆雄氏によると、アルビノであった安田氏は4歳で興行師にもらわれるが、その際には座敷牢に入れられていたとの話があった。また、見世物小屋でデビューした際も、ケッカイという猿の珍種として客引きの看板役を務めていたという。物語を構成するパーツのいちいちが過酷なのだ。良き市民としてのプライドに瑕疵がないよう注意を払って生きている現代の我々からすると、タフな人生と生活だった。

 

しかし祭の当日を迎え、商売をやる段になると、それまでのボソボソとした雰囲気、どこか不安になるぐらいの様相から、全員一変し、演者として声を張り、動き回っていて、豹変ぶりが素晴らしかった。その集客のシステムもまた面白い。安田氏の妻・春子氏が店先で延々と一日中、口上を述べて客の足を止め、得体の知れない怪しい舞台の中へ客を引き入れるのだが、その際の主訴は「たこ娘」なる異形の女性が、脱いで裸体を露わにすることばかりなのだ。

後ろ姿の一部だけが窓から見えている「たこ娘」の身の上話を交えつつ、今回初めて衆目に全身を晒すこと、下半身が奇異な形状になっていて、ふらふらと歩くこと、どうぞどうぞさあどうぞ見てやってくださいとの秀逸な煽り、そして「たこ女」が歩き出すと乳房が見え、しかし下半身は見えない。このように言葉と音による盛大な煽りの中で、人間、部分的な視覚情報しか与えられないでいると、バランスの欠如を埋め合わせようと思うのか、その先をどうしても「見たく」なる。加えて、春子氏の流れるようなテンポのよいタンカと、開演を告げるベルの連打、周囲の祭りの喧騒が五感を覆ってしまう。だんだん客観的な判断は出来なくなっている。

 

しかし実際の見世物のメインコンテンツは「たこ娘」の秘められた肢体などではない。安田里美氏の体を張った「人間ポンプ芸」だ。

これが、注視してしまう。老人が「はいっ!」と、小さな異物を飲み込んでは、腹部をとんとんとやりながら、それを吐き出す、それだけのシンプルな世界である。簡素な即席の舞台の中では、いかがわしさと安っぽさが充満し、最初は目のやり場に困った。これでどうやって金を取るのかと不安だった。
なのに、いつの間にか釘付けになっていた。白と黒の碁石を、色を選り分けながら吐き出したり、刃を出した状態の小さなナイフを、刃を畳んだ状態にして吐き出したり、紙をスパスパ切って見せた直後のカミソリを飲み込んでは、それを吐き出したり、生きた金魚を飲み込んで、それを釣り上げてみせたり、飲み込んだ50円玉を鎖に通して吐き出したり・・・派手さは一切ないが、淡々と、ただただ、異様で驚異の世界に釘付けになってしまった。もはや猥雑さやいかがわしさ、土着性などというよくある言葉では言い表せない地点へ、拉致されてしまった。私はいつの間にか「たこ娘」の存在も設定もすっかり忘れていた。恐らく観客もそうであったろう。

それは神秘の芸であった。同時に、場末のいかがわしさが充満していた。

 結局のところ、少々調べては見たものの「人間ポンプ」なる芸の真相、技法は科学的にも謎なのだそうだ。咽頭や食道をうまく使って、何らかの工夫をしているのかもしれないし、本当に胃にまで異物を落とし込んで、胃を自分の意志で動かして口まで送り返しているのかもしれない。いずれにせよ、人体の通常の限界を超えた領域を見世物としていることは確かだ。だが、超人として見るわけでもなく、芸達者な老人として見るわけでも、プロの手品師として見るわけでもなく、この眼はもっと理解不能なものとしての魅力を見ていた。

一つには、世俗の真っ只中でどろどろと客商売をやっている商売人として。かつ、もう一つは、この世のどの社会(システム)にも属さない、ある種の聖人として。その二つの存在への魅力と衝撃を、濃厚に味わってしまった。何度も見たくなる類のものではない。まず理解不能である。不能なのだが、激しい衝撃を受けた。

「たこ女」も「人間ポンプ」も「山鳥娘」も、自分の体を、自分からとても遠いところに、突き放したところに差し出して、観客の眼に投げ出している。ただ、そのままの生の体では、受け手が戸惑うだけになるから、いくばくかの「芸」や口上による、あからさまに嘘のふりかけをたっぷり振り掛ける。まるでからくり人形のようだ。これは一種の、変形した場末の「科学」なのかも知れない。人体を「私」個人が所有せず、客観的に稼働させ、「場」に差し出すという意味において。

 

(2)「カベールの馬 ~ 1966年イザイホー ~」(1966年/28分)

見世物小屋」を撮った北村皆雄監督が24歳の時に制作した短編ドキュメンタリー映像作品。若さゆえか全編を通じて、記録というより寺山修司ばりに創作映画のような、神の島としてのミステリアスな情念が濃く息衝いている印象も受ける。

沖縄本島から5.3kmに位置する「神の島」久高島(くだかじま)では、神事に携わる女性のカミンチュー、すなわち「神女」の資格を得るために、12年に1度、「イザイホー」という神事が行われる。後継者不足が深刻なのか、1978年を最後として、その後は行われていない。

島で生まれ育った30歳から41歳までの女性が、その日は万難を排して島に集まる。映像では、髪を下ろした白装束の女性らと、白鉢巻きの女性らとが集団で小走りし、林の中の小屋に集結してリズムを刻みながら「ェイサイ! ェイサイ!」みたいな掛け声をかけてぴょんぴょん行ったり来たりする。七つの橋を渡る儀式らしい。渡るとどうなるのか、どの時点で渡ったことになるのか、それにどういう意味があるのか、全く分からないまま、これまた軽い衝撃を受けながら映像を観ていた。オババの語りにヒントがあったのかも知れないが、もはや理解が追い付かない。文化・風俗なのか呪術なのか。いっそ呪い殺してくれ。

3日か4日をかけて、たくさんの手順を踏まえて儀式を終えると、資格ありということになって神女に認められるというのだが、このあたりの儀式の体系や手順が全く分からないまま、オババがしきたりなど解説めいたことを述べ続けており、それが解説と呪文の間ぐらいのナレーションなので、「イザイホー」が何であるかについては全く理解ができていない。できなかった。まあそういうものかもしれない。

 

しかるに客観的に資料として制作された、東京シネマ新社の映像の方が分かりやすい。なんせ北村監督版は寺山修司のような呪力があったので…。それでも独特の単語が多数飛び交うので、初見のRPGを解説なしでプレイするより難しい部分があります。

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この久高島がなぜここまで入念な神事を執り行うのか、なぜ信仰が村の統治の隅々に行き渡っているかということは、本土でドライな都市生活を送っている我々にはまるでピンとこない点ではある。我々の遵守するモラル、人の目、法令などの代わりに、神や祖霊の存在といった信仰がルールとして生きているのだ。それは久高島が、琉球の創始神・アマミキヨが降り立った場所であり、国開きを行った場所、すなわち琉球神話の聖地そのものであるからだという。

タイトルの「馬」というのは、異界から神が馬に乗ってやってくるという信仰に基づく。「カベール」は島の最北端の岬の名称で、アマミキヨの降り立った地である。馬を聖なる乗り物、神獣と見なす信仰や伝説は地球上で無数にある。神女は修行の中で、白い馬に乗って神がやってくるのを見るのだとかオババが言っていて、ここぞというところでトランス状態にちゃんと陥ることができ、見るべきものを見ることのできる人材を育成・選出する作業が、このイザイホーなのかなと思った。資質のない人、やる気のない人を神女とすると、島のリーダーとして秩序を担っていくのは困難であろうし、島民の納得も得られないだろう。また、神がかり的な気質を持たないものであれば、聖地の側が弾くかもしれない。

現在も、旅行案内サイトによる観光の手招きはあれど、島に現存する「聖地」御嶽(うたき)には立入禁止であることや、植物も石も持ち出してはならない旨を強調している。

 

(3)「女が男を守る島 ~神の島 久高~」(1984年/48分)

前作「カベールの馬」の撮影以降、機材の質を向上させつつ久高島の記録を行っていた監督だが、年間30を越える島の神事がいずれ消滅することを見越して1982~84年にかけて記録した映像作品。実際に現在ではほとんど消滅してしまっており、それはさすがにまずいだろうということで、近年は現地で上映会を催したりしたとのこと。

本作は、テレビ放送用としてまとめられたもので、前作に比べて説明が分かりやすく、島の暮らしと信仰の関係の深さがしっかり理解できた。

島の神事を統括するのは「ノロ」という神職であること、その他40~50もの種類の「神」が島民に割り当てられていること(島民は200人程)、主な産業は農業と漁業であること、男は漁労に従事し、沖縄本島に魚を売りに行くこと、15歳だか16歳になると大人入りの儀式(踊り)を行い、漁労に参加するようになることなどが語られた。

例えば漁労に携わる男性を代表する神職者は「ソールイガナシー」という、何だかかっこいい神の名を与えられており、神に仕える人というよりも、神そのものとしての存在になる。その分、1年なり2年なり、島民の漁業の安泰、安全について責任を負うことになる。これは組織の中で、部長や課長や、防災班長など役割と立場と責務を明確に決めておく仕組みと似ている。要は信仰と組織マネジメントを両立させているのだと分かった。

しかし大変そうな職責である。祭が30もあればその調整・運営のために動かなければいけないだろうし、祭では歌ったり踊ったりできないとだめだし、もちろん島民をまとめあげるのに人徳も必要だろう。ソールイガナシーの任命は島の男性にとって、人生で最も重要なイベントであると解説があり、家で夜長アブサンを舐めながらyoutubeで「聖剣伝説2 全裸プリム一人旅 武器Lv1」などを鑑賞して喜んでいる私は、「ぐはっ」と呟いて悶死しそうになった。切ない。

しかし何せ、映像で分かりやすく編集されているとはいえ、未知の国の仕組みの話であるから、たいへん情報量が多く、到底1回聞いて頭に入るものではない。このヴィジュアルフォークロアのシリーズについて、今回の上映分のパンフレットでもあれば非常にありがたかったところだ。ないのである。仕方がないので、色々と調べながらこうやって書いているが、辛い。情報のソースは乏しい。

 

皆さんこのblogはあてにしないでくださいね。第七藝術劇場で作品を観てください。

 

 

( ´ -`)完。