写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真関連】日本写真芸術学会 関西支部第4回写真研究会 「1970年代以降の関西の写真の動向を考え、アーカイブスの方法論を探る:オン・ザ・シーンを中心に」

【写真関連】日本写真芸術学会 関西支部第4回写真研究会

「1970年代以降の関西の写真の動向を考え、アーカイブスの方法論を探る:オン・ザ・シーンを中心に」

H30.6/30(土)

ビジュアルアーツ大阪校にて「日本写真芸術学会」関西支部による写真研究のレクチャーがあり、関西の写真動向について、自主制作の雑誌「オンザシーン」の歴史について語られた。

 

レクチャーの後には、貴重資料の数々を手に取って見ることができ、短時間ながら「地平」「オンザシーン」「PAAP」などを堪能させていただいた。70~80年代の写真のパワーが少し羨ましくもあった。

 

この日は、写真家にして写真雑誌「オンザシーン」創設メンバーの奥野竹男氏が登壇し、進行は吉川直哉氏が務められた。

 

以下、概要メモ&トーク後の資料閲覧より。(部分的に私見の追記あり)

 

関西支部の写真研究会は昨年(2017年)立ち上がったところで、2021年の大阪市・新美術館の開館を見据えて、関西における写真の歴史、特に1970年代以降から盛んになった自主活動の評価を行うものだという。そこで、散在している資料の集約、アーカイブに注力している。

 

(1)写真同人誌の流れ

源流は、1968年に発刊された「プロヴォーク」中平卓馬高梨豊多木浩二岡田隆彦ら)。活動としては69年の3号で終了。しかしその時代性を反映させた写真、「アレ・ブレ・ボケ」の新境地、及び批評テキストは、戦後日本の体制や「コンポラ写真」への強烈な批評性、触れれば火傷するような挑発に満ち、写真界を越えて多大な影響をもたらした。

(更に遡るなら、戦後日本における同人的活動の原点は写真家セルフエージェンシー団体「VIVO」(1959~1961年)がある。)

 

これに影響を受けて、写真同人誌「地平」が1972~77年の5年間で第10号まで発刊。当時、大阪写真専門学校(現・ビジュアルアーツ専門学校・大阪)の教員であった百々俊二氏が、黒沼康一氏らの協力を得て刊行された。

 

ちなみに「地平」は古書として希少価値があり、買い求めると非常に高いが、なんとWeb上でフリーに閲覧することができる。

 

www.dodoshunji.com

これはすごい。贅沢だ。ありがとうございます。

百々俊二氏のホームページ上でアーカイブがある。自動再生で、すぐに次のページに遷移してしまうのが難点だが、思想家としての黒沼康一の黒く尖った挑発を読むことができる。 

 

なお、2018年6月、「地平」は赤鹿摩耶や浦芝眞史らの若い世代を迎えて41年ぶりに復刊が決定し、「CASE TOKYO」にて展示(2018.6/30~8/4)が行われている。学生運動後の昭和と、平成の最後とを映像で比較するのは有意義であろう。東京行きたいな。新幹線安くならないかなあ。

 

さらにこの「地平」の刺激を受ける形で、写真雑誌「オンザシーン」(創刊1980.11月~第6号1984年12月、以降休刊)は誕生する。

 

(2)写真同人誌「オンザシーン」

元は、大阪写真専門学校の夜間コースに通っていた、奥野氏をはじめとする「黒沼ゼミ」の生徒らが、卒業後も2年間にわたり毎週の作品制作・合評活動を経て、雑誌という形で発表することにした。誰が言うともなく、そのような総意に落ち着いたという。

メンバーは社会人8名、各自が本業とする仕事を持ちながらの活動だった。メンバーは奥野氏、永田典子、田中晃治、岡崎聡、中村一夫、太田順一など。

黒沼康一の思想:写真を言葉できちんと語ること、写真は思想・思考とともにあるべきということの影響を受け継いでいる。

 

発刊の前身となったのが、写真展「視界の周辺展」である。

2年間の合評会活動の中で手元に溜まった作品ストックを、外に向けて出すという意味があった。しかしその展示は「普通に写真を飾るのでは面白くない」ということで、マルチスライド式のプロジェクターで映像的に写真を展開した。8人分を全36分、今のようにpowerpointで自在にBGMを組み込むわけにはいかないため、武満徹の弟子にBGMの作成を依頼し、再生の操作の時間表を作って打ち込んだという。

 

この展示により、新しい映像化の試みは果たされた(同時期に篠山紀信が同じようなフォーマットの「シノラマ」を展開し、その影響が当時から指摘されたが、「後で知った」とのこと。)が、流れ去る一度きりの映像としてではなく、「やはり写真は手に取って見れるものにしたい」との思いに至り、写真雑誌の発刊という考えがメンバー間の総意となる。

 

なお、この展示では、機材をメーカーに借りるなど交渉を行ったことで、後に雑誌のスポンサーに広告掲載の商談をもちかける上での足掛かりとなった。特にメンバーの中村一夫氏が、中堅の広告代理店勤めであったことが大きな牽引力となった。メンバーが用いた写真工房の名義は「オンザシーン」に引き継がれる。

 

 

「オンザシーン」第1号(1980.11/1)は、オムニバス形式でのスタートとなった。メンバー各人の持ち作品だけでは紙面が埋まらないことと、発刊に当たってはあくまで「オープン・スペース」であることを共通認識としたためだ。つまり編集メンバー個々人が写真家としての我を通す場ではなく、面白いと思ったものを載せる場として立ち上げた。

 

吉川氏「そうは言っても一人一人が写真作家なわけだから、葛藤はなかった?」

奥野氏「当時はなかったと思う。個々人では何しらあったと思うが、(オープンスペースとしての理念を)優先させたかった」「ジェラシーはあったと思う」

アンビバレンツな心情はあった模様。30代ぐらいの若手なのだからその方が自然とも思える。

 

1号はけっこう好評で売れたらしい。

手元に現物など資料があれば良いのだが、残念ながら現地でパラパラッと見ただけなので、作風などの中身については語ることが難しい。在庫もないとのこと。

ただ、奥野氏曰く「オンザシーンの内容をWeb上でPDF化することを検討している」とのことで、Web公開に当たって作家の許諾を得なければいけないと話していた。

 

なお、採算の算段については「3号までは定期発刊しよう」「誰も持ち出しのないように」と考えられており、メンバーが手空きの時にはミニコミ誌の仕事で広告収入を得て、「写真工房」の口座に入れ、200万円ほどの貯えが出来たという。「3号までで発行1,500部、売り上げとの差し引きで出費は100万円強」という試算だったので、この資金で活動の目途はついていたと言える。

 

「オンザシーン」第2号(1981.6/1)は、人気のあまり売り切れたという。阿部淳、太田順一といった、個人の作家の活動が強い力を放つ。特に太田順一「日記・藍」は、太田氏の愛娘が、夜間の救急体制の不備によって髄膜炎から脳障害が残り、2歳5か月で亡くなるまでの日常を撮った作品で、特に遺体となった彼女が棺の中で手を合わせて目を閉じ、静かに仰向けに収まっている一枚が、ただただ深い衝撃を与えてくる。

この作品を見たため、奥野氏は「見たら載せんわけにいかんじゃないですか」と、急遽2号の紙面の差し替えを行ったという。

 

「オンザシーン」第3号(1981.11/30)は、「全く売れなかった」、失敗とのこと。2号までの成功に気をよくして、攻めの2千部を出したが、いまいち。これにより以降の定期発刊が難しくなり、再び資金作りのため不定期発刊となる。

 

この頃、他の同人誌「Photo Street」(フォトストリート)に出会い、奥野氏は衝撃を受ける。高校の写真部員が作成したそれは、関西で最古の自費出版写真集で、CHペーパーという極薄手の印画紙に焼いた写真とガリ版のテキストを直接綴じた、異様にパワフルでアナーキーなブツである。

 

「オンザシーン」第4号(1982.9/1)は「なんとのう見えてきた ― 関西若手写真家31人の現在」という特集が面白い。紙面の都合で31名の写真家について、作品を1枚ずつしか掲載できなかったことから、大阪府立現代美術センター」での「写真の現在展’84」(1984.3/26-3/31)へと展開が拡張される。

同一団体に全館を貸し出すことは前例がなく、出来なかったため、2フロアだけを写真展示のスペースとして借り受けたが、それでも当時の写真展示としては最大規模の入場者数を記録したという。

 

そして「オンザシーン」第5号(1983.8/31)の頃には、編集メンバー一人一人に、同人誌を出していくことへの葛藤が深まる。

メンバーは皆、社会人であり、徐々に多忙な身となってきたことが原因である。田中晃治、中村一夫はもはや仕事が忙しく、自分の写真を撮る間もない状況。片や太田順一は、自身の写真作家としての活動に注力したいと考えるようになっていた。

 

こうした状況を孕みながら、第6号(1981.11/30)が事実上の最終巻となり、編集長・永山典子が「休刊の辞に代えて」を巻末にしたためた。あえて「休刊」としたのは、実質的には「廃刊」であるが、メンバーの中にはまだ続けるつもりの者もいたためであるという。この決定はメンバーの総意を得たものではなく、30代社会人らの個々人の意識の「せめぎ合い」がある中で、ここまで出版物として世に出してきた以上、「どうやって終わろうか」を考えざるを得なかった。この、同人誌とは言いつつ、出版物として社会に送り出してきたことについて、奥野氏は何度も「責任」という言葉で振り返っていた。現在のZINEとは社会における出版物の重みが全く異なるのかもしれない、と感じる瞬間だった。

 

芽吹いたところで幕を閉じざるを得なかった「オンザシーン」でのくすぶりを、第2ラウンドへ持ち越した企画が、1989年、写真雑誌「PAAP」(パープ)であった。

しかしこれも「創刊準備号」を発刊したものの、第1号の準備時点で、作品を依頼した写真家からレスポンスがなく、半年待っても音沙汰無しだったので、おじゃんとなった。

時代の移り変わりを反映してか、パープというタイトルは語感だけで選ばれ、「写真なんてそんなに意味はない」という気持ちだったという。

 

締めくくりとして、「オンザシーン」終盤の「行き詰まり」について、奥野氏は「新陳代謝が上手くいかなかった」「次の世代へ荷物を引き継いでいけなかった」と心境を明かした。更に、その活動はメンバー一人一人の負担の上に成り立っていて、機材や活動スペースも奥野氏が提供してあげていたという。

 

まさにそれがインディペンデント活動の最も難しいところだと思う。社会人(会社人)の状況は些細なことで一変するのが常だ。課長になったり、上司のやり方が変わるだけで、日常は別の形のものになる。

 

レクは以上。

 

黒沼康一という関西(西日本)写真界の重要人物について、全く体系化された記述ができていないことか課題だ、とのお話もあり、写真はやり尽くされたように見えて、やらなあかんことがいっぱい手が回ってないらしい。たいへんです。

 

後は資料閲覧。超たのしい。 やばい。

 

阿部淳だったかな?  うわっこれ梅田や。阪急百貨店とJR大阪駅の間の高架歩道。聖地ですよ。聖地。都市写真というと猫も杓子もプロもアマも東京を撮って語るのだが、日本には大阪という都市があるんですよ(ダーン)(つくえをたたく)。

 

はい。

 

 「地平」、表紙からしてやばい。Web版も便利でいいけどやはり現物がほしい。。。プロヴォークみたいに復刻版出さないかな。

 

 パープ。

 

 「オンザシーン」の中を見ましょう。

 おっおっおっ。中川先生じゃないですかお久しぶりです。

いち写真家としての、社会的に発言権を持たない層(労働者)と同じ目線に立ちに行くといった活動はもとより、関西の70~80年代写真界におけるインディペンデント活動史の「生き証人」であることが今回のレクでわかった。(言及は特になかったが、「オンザシーン」の歴史とこれまで見知ったことがなんとなく繋がった)

 

そしてもう一人。

畑館長。 

この方こそ活動の全容が知れないぐらい多岐にわたっているし活動の規模も大きい。

オンザシーン掲載時には、32才、いち写真家であった。しかしそのテキストは、現在仰っていることとあまり変わらない。写真は職人の工房仕事のような、小さな世界のものではない、もっと広い世界へ繋がるものだ、個々人が発信する時代なのだという思想は、今も日々繰り返しておられることである。この若い頃から一貫しておられることを初めて知った。

 

畑館長は80~90年代、同人誌など写真家の自主活動の後の時代、写真集や図書館の存在意義を「社会」へと認めさせるフェーズを築いてこられたと言えるだろう。写真・メディア表現という領域を、関西における文化・教育を、具体的な「場」として、公的なレベルに押し上げてきた功績は大きい。関西が「いち地方都市」に落ちるか否かは、まさに文化のレベルで決まると思う。文化がなければ、中央集権の見えざる手にからめとられてしまう。

 

 

話がそれたが自分の中で色々と繋がったわけで、後段はその整理。

当時の資料を見せてもらうことで、関西の現代史が具体的なものとして浮かび上がってきつつある。Web記事も書籍もよいのだが、生のトークと生資料は必須だ。実感がわきます。

 

オンザシーン休刊の辞。

 

 コンポラ。

 

 当時のカメラ広告がいかつい。これ女子は参入むりだろ。野郎の世界だなあ。

 

 

畑先生。この頃は岸和田の紡績工場の特集なのでかなりの初期。バイオロイド鶏はもっと後です。

 

 「地平」はめっちゃ尖ってるというか攻めてて良かった。復刊していただきたいものです。。

 

 

 

(*´・_・`) やばい面白い。

なんだこの攻撃力は。テーマやコンセプト一辺倒な現在とちがって、物理で殴りかかってる感が面白いなあ。FF2(FC版)みたいや。

 

 

 

(  ╹◡╹)✨でした。