【シンポジウム】<具体>再考 第3回「大阪と前衛美術」(橋爪節也、竹内幸絵、今井祝雄)@大阪大学中之島センター
2019.1/6(日)
1950年代に日本で興った前衛芸術集団「具体美術協会」について、3名の研究者・アーティストから、大阪という土地の歴史、気風と美術との関係が語られた。
以下めっちゃ略メモ。
なお「具体美術協会」や「具体美術」を便宜上<具体>と略す。
(1)橋爪節也「大大阪の時代と前衛絵画―前田藤四郎の場合」
近・現代の日本の美術史家の観点から、大阪と芸術の関わりにおいて3つの特徴を提示。
①印刷・広告との距離 ―生活に密着する美術
②諧謔・ユーモア・リアリズム
③アカデミズムの空白 ―芯になる学校組織の不在
以下、本日の講演では、大阪と芸術との関りには随所に①~③があることを繰り返し言及しながら進行した。
前提としてまず大阪の歴史。
大阪には「大大阪モダニズム」(だいおおさか)の時代があった。大正14年(1925年)、大阪市が拡大した頃(第二次市域拡張)で、世界の都市人口ランキングで7位、東京を超えていた。
大阪市長・関一(せき はじめ)が中心となって経済界を巻き込み、街路、橋梁、地下鉄、港湾など都市基盤の整備が行われる。同時に、大都市とは文化と経済が伴わなければ二流三流との意識があり、文化・芸術への取り組みも視野に入っていた。展覧会施設としての美術館建設、美術家育成の教育機関としての工芸学校の開校、大阪市美術協会の結成が挙げられる。なお、ここでの美術館は震災や恐慌の影響により開館が遅れ、京都芸大のような中心的な存在にはならなかった模様(=③)。
よく言われる「阪神間モダニズム」の範囲まで広げると公立の近代美術館が存在する(兵庫近美)ことになるが、大阪府下にはそれがない。ただし難波の高島屋、心斎橋の大丸など、大阪府下の商業施設は、その外装、内装などが美術家、建築家らの作品と共にあり、これらの美術は「大大阪モダニズム」に特有なものとして捉えることが提唱された(南海など、阪急以外の電鉄系での文化となると、阪神間モダニズムとは呼べない)。
大阪では芸術と経済、日常生活との距離が非常に近いことが特徴的である。
大正~昭和初期の大阪の事例として、北野恒富(1880-1947、日本画で大阪の画壇をリードしつつ、クリムト風のポスターなども作成)、普門暁(1896-1972、「未来派美術協会」設立メンバー、そごうのショウウィンドウに未来派の造形作品を展示)を紹介。
大阪では超現実主義、抽象絵画の美術家団体だけでなく、写真においても「浪華写真倶楽部」「丹平写真倶楽部」が結成され、新興写真のムーブメントが起きていた。そして前衛写真は、商業広告のデザインに使われていた。心斎橋、丹平写真倶楽部の拠点となる「丹平ハウス」のはす向かいに立つ「をぐらやビル」では、「ショップガイド社」がカード決済のはしりとなる事業を手掛けており、写真作品はその広報誌に使われたもので、互いに交流があったことを裏付けている。
こうした大阪の美術の事例として挙げられたのが前田藤四郎(1904-1990)。刀剣乱舞のおかっぱちゃんではなく、版画家、関西画壇の著名人。
前田は版画により商業デザインを作成するが、現在のシオノギ製薬のデザインを手掛ける中で医学用資料に触れる機会が多く、医学用図案を取り入れての前衛表現を遺している。「リノカット」というリノリウムを用いた版画を得意とした。印刷と版画を融合させることや、版画においても石板、木版、銅板などを混合させることを試みた。美術を高尚なものとせず、自身の創意工夫も「三文版画」と呼んだ。
(2)竹内幸絵「吉原治良の「広報」と「広告」」
ポスターや広告史を専門とする研究者の立場から読み解く「吉原治良」の像。
吉原治良の年表を辿ると、<具体>創成期と、彼が父親の死去に伴い会社「吉原製油」を引き継ぎ社長に就任したタイミングがかなり近い点を指摘。吉原治良の写真、動画といった先駆的な技術に対する芸術的関心は、社長業においても「広告」という形で連動していたのではないか。
・1930年代_写真:数少ない写真作品が遺されており、拡大、接写という技術を用いて肉眼では識別しえない視覚を実験的に求めていたことが分かる。紹介された写真作品は『九室』(きゅうしつ:「二科会」の内部に設けられた前衛的絵画の集団が作成した機関紙)という雑誌に掲載されたブリコラージュ的な造形作品。
・1930年代_動画:初期に「cine-memo」(シネメモ)という実験作品を制作。毛のディテールが分かるところまで鶏を接写している。80本近くが確認されている。
・1950年代_<具体>リーダーと会社経営者との二足の草鞋。1954.8月、<具体>設立。同年12月父親逝去。1955年1月、<具体>の機関誌を発刊。2月、社長就任。この時期の近さからして、吉原治良=芸術者と経営者とがクロスオーバーした存在だったのではとの推論。
なお、吉原は機関誌の発行こそ<具体>の活動の柱として考えていた。印刷物なら自身らで発行でき、国内・国外に向けて発信できるという戦略上の理由であった。そのため機関誌は日本語と英語とで書かれている。
・1960年代_吉原精油のTVCM、<具体>のアドバルーン活動(スカイフェスティバル) =企業の広報活動と実験芸術とのクロスオーバー
今回の講演で一番の目玉となったのが、過去のTVCM映像のアーカイブ作業中(約8千本)に発見された、吉原製油の1本のCM(1960年)。
サラダ油のCMなのだが、完全に独自路線だった。
油滴である。
どこがサラダ油や \(^o^)/
同業他社が「ご家庭で簡単においしくサラダ油を使ってサラダを食べられます」と明快な消費喚起、素敵な洋風ライフスタイルに向けたメッセージを発しているのに対し、この吉原治良が手掛けたCMは、完全に30秒間の実験映像である。
・油のしずくをひたすら接写。
しずくが動く、落ちる、上る!!!
・最後は動く油のしずくが画面分割でサラダ油の缶のデザイン絵に転化
具象を極めると抽象化される。本当にそのような映像なのであった。CMとして尖り過ぎている。素晴らしい。朝食を洋食でおしゃれに、などという生活上のメッセージはどこにもない。ただただ、油滴を接写し続けるという凄い映像だった。最後の最後に「オセイボハゴールデンサラダユセット \アーッ/」と、やっと広告らしい声が入るものの、圧縮され早回しになっていて、全く商売をする気が感じられない(誉め言葉)。これをリアルタイムで観た子供らの中には深いカルチャーショックを受けた者もいたのではなかろうか。
この動画、できれば一般の人でも触れられるようにしていただきたいものだ。
(3)今井祝雄「都市大阪の感性 ―〈具体〉とその後」
最後に、〈具体〉のメンバーであった今井先生から、芸術家の立場で大阪の美術活動に関わってきた経験を踏まえて、美術史や自身の活動の変遷を振り返り。
①1950年代~ グループ活動の時代
美術界隈では、硬直化した既成の公募団体等に意義を見いだせなくなり、グループ活動が盛んに興る(デモクラート、具体、テンポ、グループ位(い)、PLAY)。その活動はミュージアム内から都市空間の美術へ。
②グタイピナコテカ開館から70年万博
1962年「グタイピナコテカ」開館。場所はちょうど、阪大中之島センターの近所。今でこそ高層ビル群だが、当時のそれは土蔵3棟を改造した展示会場で、リノベーションの先駆けとなった。7年半継続。(命名はミシェル・タピエ。「ピナコテーク」、絵の倉庫から)名付けられた。
(参考)グタイピナコテカ、吉原治良
この頃の〈具体〉は屋内で絵画をやるようになり、今井先生はオフ・ミュージアムの活動をやりたかったのに…という想いを募らせ、解散後のパフォーマンス、パブリックアートへ繋がる。(ミシェル・タピエに見いだされた<具体>は、西欧へ紹介されるに当たって、輸送の可能な絵画作品を作るようにシフトしていったとの話も)
「読売アンデパンダン展」(1949-63)以降、全国で類似のアンデパンダン展が盛んに興った。読売のそれは、無審査・自由参加から展示内容がエスカレートし、反芸術の標榜の場となったが、観客・美術館サイドに対してもトラブルが多発する「はた迷惑な」展示活動でカオスを極め、1963年に突然中止となった。この頃より個展の時代となり現代美術ギャラリーができる。
また、商業施設がアーティストに空間制作を依頼するようになる。代表例にジャズ喫茶「チェック」、堀江のディスコティーク「スペースデリシャス」。後者は1968年、今井先生が担当。角と隅のない内装だったという。
60年代後半からはインターメディア、環境芸術。70年万博では外庭で具体のメンバーと合作、『ガーデン・オン・ガーデン』発表。12~13mの石をウィンチで引っ張って地面をえぐるものだったようだ。
③<具体>解散後の関西アートシーン ―都市空間とのかかわり
1972年、吉原治良の死去に伴って<具体>解散。今井先生は「ハプニング」と称し、街の鉄塔に勝手にスピーカーを括りつけて作家3名の心臓音を放つ(1972.7月_今井祝雄、倉貫徹、村岡三郎)などの活動を行う。以後、パフォーマンスアートへ。
80年代は「関西ニューウェイブ」の機運。インスタレーション、ビデオアートが盛んに試みられた。この2点はNMAOで開催中の展示『ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代』では抜けているものである。
またパブリックアートも盛んで、新大阪駅前に『タイムストーンズ400』を制作。「これで食べていけたんですけどね」、しかしバブル崩壊を機に一気に仕事がしぼむ。現在は地域のアート・プロジェクト、「アートフェア」が盛ん。「若い人が作品を持ち寄って批評し合うような機会が減りましたね。相互研鑽がないのが寂しいような気がします」。
(参考)パプリックアート
④オーサカ感覚
「大阪特有の感性=おもろい・けったい・いらんことしい」
「いらんことしい」は過剰さ。面白かったら大阪は受け入れる。
(例:かに道楽 ←城崎の人が開業したのが始まり)
ただし残念なことに、新しいものを生み出す文化的土壌はあるのに、やったあとは放ったらかし。資料を取っておいても取りっぱなし。芸術文化、歴史のフォローが必要では。例として近松門左衛門。尼崎と大阪で扱いが異なる。
橋爪先生の指摘した「アカデミズムの空白」について、まさに大阪はその通りで、別に埋める必要はないが、もう少し考えてもよいのでは。 大学や美術館が中心となってやっていくとよいのではと。
勿体なかったのはやはり70年万博。「太陽の塔」がありながら、そのあとの活用を考えていなかった。あれを美術館にすれば、世界でも類のない、美術品であり建築であり美術館であるという唯一無二のものになっただろう。結局、川崎市の岡本太郎美術館に存在感を取られてしまった。
(4)登壇者3名によるディスカッション
中座しました。てへ。
大阪人である私自身に強く思うところだが、実際かなり「今」の感性が強すぎ、過去や歴史、伝統に対する関心はひどく薄い。なのでまさに、重要建築物がまるまるさくっと取り壊されて、後に「あーあ」という思いになる。
なりつつも、実利、生活の利便性が優先される感性で生きているせいか、そのことに頓着しない。生活と美術が密接な感性というのも、逆に「茶碗割れたらまた買うたらええやないか」ぐらいの無意識なる矮小化を来しているフシもあって、こら、あきまへんな。
( ´ - ` ) てなもんや。 完。