2010.01.09(土)【映画】ヴィターリ・カネフスキー3部作
大阪の九条に「シネ・ヌーヴォ」という小さな映画館がありまして、そこではかなりマイナーな映画をやってくれます。
7,8年前からちょいちょい出入りしていまして、今回のお目当ては、これ。
このチラシを街で見つけ、「ほんま、どないせえと」と思ったので、とりあえず観に行くことにしました。
そしたら本当に「一体、どないせえと、」という作品でした。
まずは映画館そのもののレビューから。
大阪ではミニシアターというと、このシネ・ヌーヴォか、『第七藝術劇場』かという、マイナー界のメジャーな存在です。元は他の映画館だったのが閉館、また新しく開館、というのを繰り返して現在に至ります。
97年にシネ・ヌーヴォとして開館。
地下鉄中央線・九条駅から歩いて5分前後。普通に駐車場やマンションの間にあるので初見だと少し見つけにくい。だがそれがいい。
九条シネ・ヌーヴォの入口。
丸い時計が雰囲気を出している。すぐ下の台にフライヤーがちりばめてある。
80席という小ぶりな室内です。が、「ここでしか観られない」というコアな映画をこれでもかとやってくれるので、皆、どこからかわらわらとやってくるんです。映画好き人種ならばこの映画館は欠かせません。
表にはメタリックの薔薇。
演出は劇団・維新派が手掛けました。
館内の天井が最も美しく、丸い天窓からうっすらと太陽の光が降り注いでくるかのような照明をしています。
中は入ってすぐ手前にレジカウンター、そこから突き当たりまで物販。
両脇に並べられた大量の映画雑誌やフライヤーを眺めながら整理券による入場待ちをするというのが毎度の定番です。
表の掲示板。
まめにスケジュールをチェックしていないと良作、怪作を見逃してしまいます。
ヴェルナー・ヘルツォークやら、寺山修二やら、何かと素晴らしい異才の特集を行います。
今回はヴィターリ・カネフスキー監督の3部作。
簡単にプロフィールを紹介します。
1935年生まれ、ロシア人。
モスクワの全ロシア映画大学に入学するも、在学中に無実の罪で投獄され、なんと8年間も獄中生活を送ります。
出所後は撮影スタッフや助監督として働き、1989年;53歳の時に作ったのが『動くな、死ね、甦れ!』。第43回カンヌ国際映画祭カメラ・ドール賞を受賞します。
2年後の1991年には続編となる『ひとりで生きる』をフランス・ロシア合作で製作。第45回同映画祭で審査員賞を受賞。
1993年は更に、この二作品の主演俳優パーヴェル・ナザーロフと女優ディナーラ・ドルカーロワの再会を描いたドキュメンタリーを作成。
後、2000年に1本のドキュメントを撮って、その後は映画界から姿を消しているようです。
今日までこんな監督は知りませんでした。
しかし一作目『動くな、死ね、甦れ!』があまりに衝撃的すぎて、内容を残しておこうと思いました。
おそらく日本語ではDVD販売も関連書籍もない状況なので・・・。
写真はパンフレットより引用。
B5より小さく、500円でした。
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『動くな、死ね、甦れ!』1989/105分
ZAMRI, UMRI, VOSKRESNI!
FREEZE-DIE-COME TO LIFE
DON'T MOVE, DIE AND RISE AGAIN!
観終わってもなおこのタイトルの意図は解らない。素晴らしい破壊的なパワー。こんな映画、観たことがない。剥き出しになった力のみ思い知る。その意味ではヘルツォーク×クラウス・キンスキー関連の映画に近いかも。安易な感情移入や、その世界の内側への没頭や耽溺の余地なんてなくて、理解や共感など、とてもとても。ただひたすら「凄味」が暴風雨のようにかき乱していった。
凄まじき映画でした。
主役男子(設定12歳、実年齢13歳程度)の若さが発する、規格や規範に閉じ込めることのできない原初の悪辣な暴動力とでもいうのか、どうしようもない行き場のなさが吹き荒れていた。
舞台は第二次大戦直後のソ連、収容所地帯に位置する田舎の炭鉱町スーチャン。これはカネフスキー監督の出身地でもある。
漢字表記は「蘇城」であり、かつて渤海が支配し、ツングース系民族が住んでいたことから中国
1800年代から石炭発掘のために開発され、粗悪で小さな炭鉱町だった。ロシア革命時にパルチザン(外国占領軍への抵抗運動や内戦・革命戦争における非正規の軍事活動など /wikipediaより引用)活動が盛んとなり、革命終了の1922年以降は新しい炭鉱の開発が進み、大規模な住居などの設置が進められた。
現在の地名は「パルチザンスク」。
ウラジオストク、ナホトカのすぐ北あたりにある。
位置としてはロシア領土が中国の北東部、周辺自治州などを回り込んで伸びている端の端。
白黒フィルムがこんなに効果的な映画は初めて。1989年に作られたというのに、まさに、二次大戦直後当時の記録映像かと見紛うほどリアルなざらつきを以って迫る。主人公ワレルカは母親ニーナと二人で大きなバラックに住んでいるが、古い文化住宅をもっと粗末にしたようなうす暗く寒そうな
バラック近くの広場には人だかりができていて賑わっている。それは露店の市場で、人々が様々な物を持ち寄って売り買いしているのだ。しかし普通に想像する「市場」からは程遠い劣悪なもので、本当に人間が集まっているだけ。別にゴザや絨毯を敷き詰めた一角があるのでもなく、屋台やアーケードを組むでもなく、有象無象の人間がただの広場にわらわらと集まっているだけだ。
ロシアの大地は殺風景で、吹き抜ける風は常に冷たそうだ。地面は常に残雪と水たまりでぬかるんでいて、更に冷たさが伝わってくる。冷え冷えとした足元と、粗末な防寒着でひしめく人々、得体の知れない顔の数々を見ていると、本当にこれが旧ソ連のドキュメンタリーに見えてくる。
人々の話し声は強烈で、全ての会話が「怒鳴っている」のが印象的だ。声を張り上げなければ掻き消されるほどの大声が周囲から飛んでくる。
バラックの中でも、学校の中でも、何かしら会話は「怒鳴る」ガデフォルト。こんなに人が怒鳴っている映画は初めて観た。
主人公ワレルカは、うさんくさい表情と帽子で登場。いかにも食えない顔です。憎たらしい。同じバラックに住むガリーヤという女の子が市場で茶を売っているのを見て、家に飛んで帰り、自分も真似して茶を売る。そしてガリーヤにまさかの妨害。しかし客に渡すお釣りを用意していなかった。すかさず財布を取り出して細かいのを渡し、フォローするガリーヤ。なのにまた大声を張り上げてまさかの妨害。何やってるんだワレルカ。「その娘のお茶は買っちゃだめだ!」「うちのお茶は泉の水だよ」いやいやいや。なにを。
万事そんな調子で、憎たらしい餓鬼・ワレルカなのだが、ガリーヤは事あるごとに彼の傍に付き添い、大人顔負けの冷めきったコメントを口にする。それがワレルカの危機に助言を与え、真の保護者のように彼を救う。というよりガリーヤの助言がなければワレルカはもっと早期に警察に捕まっていたはず。
茶を売って貯めた金で買ったスケート(大きな板に滑走用の足を付けた、ソリのようなもの)で遊んでいたワレルカは、二人組にそれを強奪されてしまう。「犯人、知ってるわよ」とガリーヤ。
放課後に二人で犯人の家へ向かう予定が、ワレルカのクラスでペンの盗難事件が発生。正直に名乗り出るまで家に帰しません!と鉄仮面の女教師。このあたりの連帯責任や自由剥奪に力を入れている体制の描写は、旧共産圏の香りが実にリアル。ガリーヤが教室に来て女教師に何かを囁くワレルカ一人だけ解放されるが、なぜ特別扱いになったのか解らない。「転校するって言ったのよ」「そんな!僕はどうしたらいいんだ!」口論になるも「じゃあ一人でスケート取り返してくれば!?」一人取り残されて、途端にどうしようもなくなるワレルカが、怒って帰るガリーヤを慌てて追いかける。二人は始終この調子で、ワレルカがへこまされたり、行き詰った時には必ず、ガリーヤの存在が傍にある。
最初は原題が「守護天使」となる予定もあったとのこと。次作品『ひとりで生きる』では明確にワレルカの口から「守護天使」という言葉がガリーヤの妹;ワーリャに対して使われる。
この町は収容所と敷地の区切りがほとんど曖昧なのか、ワレルカは頻繁に収容所へ遊びに行く。そこでは、妊娠すれば特赦で放免されることだけを考えて男にセックスを迫り、妊娠しようと髪を振り乱すガリガリに痩せた15歳の女囚人や、ロシア語を解さない日本人捕虜など、アウトサイダーと呼ぶにふさわしい人種が目につく。
「つっきがぁ〜〜あ〜〜 出た出ぇたぁ〜〜〜♪」と、ものすごく聞き覚えのある歌が流れてきて驚かされた。これ!日本の民謡じゃないか。
他サイトを参考にすると、「南国土佐を後にして」、「五木の子守唄」、「炭坑節」といった民謡が作中で流れていた模様。白くくぐもった曇天の中で、寒そうな土地とうら寂しそうな日本人捕虜たちの姿に妙にマッチするものがあった。
物語の流れを牽引するのが、ワレルカの悪ガキぶりというか、根深い「逸脱」の性分である。生きているだけで社会、システムからはみ出してしまう。反抗しても、従っても、逃げ出そうとしても、とにかくどんな動機によるアクションでも、「逸脱」となり、彼の行き場は狭まれてしまうのが特徴だ。
小学校の便所にイースト菌投入事件。これは映像的にもウッと来る。イースト菌が便器内で発酵し、校庭が糞尿浸しになった。グチャッ、グチャッと音を立てる足元が何ともグロテスク。白黒フィルムだからこそ正視に耐えたが・・・。党幹部の地方視察に備えてか、校長が張りきって音頭を取っての行進練習はおかげで足元が溢れ返った糞尿でドロドロの中で行われる羽目に。カネフスキー監督? これ、自身の実体験では??
ワレルカ自身の反抗もさることながら、彼は、「世界」とでも言おうか、自身を取り巻く全ての人や物(日本人捕虜や守護天使ガリーヤを除く)から度々拒絶されてしまう。これは不良やアウトサイダーとなる人間が辿る共通の過程なのかもしれない。
ゆっくりと町を走る貨物列車では荷台に乗ったのを機関士に見つかり理不尽な暴行、蹴られる蹴られる。小さな子供相手に大の大人がそこまでやるのか?と怖くなるシーンだ。
母親もワレルカを理解しない。市場で茶を売って稼いだ金を「財布から盗んだんでしょ!」と聞かず、茶を売ったと聞けば「そんな卑しい仕事を!」とガリーヤもいる前でわあわあ言う。わりと粗末な扱いを受けるワレルカに同情します。
良心が咎めたのか?全うに生きようと思ったのか? この便所イースト菌事件をワレルカは母親に自白する。その結果、母親も母親だが、ワレルカを引き回して学校に自供に行く。ガチガチの旧共産圏、結果は火を見るより明らかな「即攻通報」。それぐらい母親も分かると思うのだが・・・とにかく校長はいきり立った後、速やかに警察に電話を掛ける。必死で嘆願する母親。「お前も謝りなさい!」いやもうムリだろ。息子を助けたい一心で、しまいに教師用の定規を奪うように手にとりワレルカを強く叩き付ける。せめてこの必死さが好転へのきっかけとなれば、と観ている私も思ったが、女教師「たった一本しかない定規ですよ!折れたらどうするんです!」
・・・さすが、旧共産圏。レベルが違う。定規>>>>>年端のいかない子供の将来。こんな社会、逸脱せざるを得ないかもしれない。まともな神経なら。
前述の機関士へ復讐のつもりか、校長や母親への腹立ちのためか、ワレルカは貨物列車のポイントを切り替えてしまう。見事に機関車は横転し、この事件について警察が聞き込みを開始し、家のすぐ傍まで黒づくめの男がやってくる。やばい。現場に落としてしまったパチンコを証拠物件としている男。動揺してそわそわしっ放しのワレルカ、対比的にあくまで冷静に「ばれないわよ」と言い切るガリーヤ。この映画は監督の「自伝的作品」とのことなので、同じような無茶を幼年期にしていたのかもしれない。むちゃくちゃだ。
この後、ワレルカは逮捕を逃れ、町から逃れるために列車に乗って家出してしまう。辿り着いた先のウラジオストクで放浪生活となる。ここでも荒んだ寒々しい描写は天才的に活かされており、路上で水たまりに体半分をうずめて寝ている酔っ払いの中年、それを引き殺しそうになる友人のオッサン・・・とにかくこの映画では、フリークス寸前のきわどいオッサンがどこかしらコラージュ作品のように登場する。それが、他の如何なる映画にもない強烈な「ロシア」を物語っている。訳の分からない強盗や物乞い、狂人と化した元・学者、小麦の配給に怒号を上げて群がる婦人らなど、大人の余裕のなさがメーターを振り切っている。「子供」が慈しまれ、生きていくスペースはどこにもなさそうだ。必然的に、はみ出した生き方をせざるをえない。
ワレルカは強盗団のねぐらを聞き付けて仲間になることを志願し、宝石店へ潜入させられ一仕事やり終える。本人は一味に加えられたことで満足しているようだ。が、「バラされるんじゃないか」と、強盗青年らからは全然信用されていないあたり、彼の子供っぽさが出ていて良い。そこに、綺麗な身なりの少女が近付いてくる。ガリーヤがわざわざワレルカを連れ戻しにやってきたのだ。無邪気に自分が強盗団に入ったことを自慢げに言うワレルカだが、いつもの調子で冷静に「殺されるわよ!」と危機を諭す彼女である。このまま行かせてはまずいと気付いた強盗団と、必死で海岸沿いに駆けて逃げるワレルカとガリーヤ。
二人の逃亡は成功し、スーチャンへ向かう機関車に飛び乗る。もうすぐで故郷というところで機関車は終点となり、線路伝いに二人は歩く。
まだ思春期が始まるかどうかの年齢である二人の間には、恋愛や性的なものではなく、かといって単なる友情でもなく、もっと何か清く、不思議な繋がりが生じている。今まで叫び声と雑踏、凍れる寒さと荒れすさんだ情景へ叩きこまれてきた観客は、春の訪れのような暖かさを感じるだろう。
『二人は愛し合っていた/幼くても本当の愛/
そして何度も/誓い合った/お互いを忘れないと』
当時の流行り歌を口ずさむ二人。
しかし走り去る機関車には例の強盗団の悪そうな顔がチラリと覗く。そして、ガリーヤが唐突に撃たれる。
最後には目を覆いたくなるような光景が映し出される。全裸で、肉のたるんだ中年婦人が発狂し、自宅の周りを箒にまたがって駆け回っているのだ。「ヤギさんヤギさん」と意味不明の言葉を繰り返して、素っ裸を子供達に曝して走り回るその婦人こそ、ガリーヤの遺体を正視できずに発狂した彼女の母親だ。私はこんなにも黒い衝撃を残して終わる映画を他に知らない。
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『ひとりで生きる』1991/97分
前作『動くな〜』の続編。
撃たれて死んだガリーヤの妹、ワーリャ(勿論女優はガリーヤと同じ、ディナーラ・ドルカーロワ)が悪童ワレルカの「守護天使」となり、傍に寄り添う。
舞台は15歳になった彼らと、再び極東の町スーチャン。
今度は淡く美しいカラーフィルムなので、世界が一変している。前作に横溢していた殺人的な狂騒のカオスも、ここでは静寂や落ち着きにとって代わられている。
職業訓練校に通うようになったワレルカは相変わらずトラブルメーカー。ワレルカがいることで周囲との摩擦が起き、物語は進む。というか、観ている限りは彼に悪気はないように感じる。むしろ周囲の人間達の方がモラルに反していたり、硬直した価値観や規範を押しつけてくるのに対して、彼が全く上手く合わせられず、自然とはみ出してしまうというのが悲劇だ。恐らくはワレルカは正直すぎたかもしれないし、恐らくは不器用だったかもしれない。自分を生きるのに必死なのだろう。大人たちは更に生きるのに必死で、多感な子供の側に立って世界を感じることは望むべくもない。
前作からずっと友達として可愛がってきたペットの豚;マーシャの屠殺がそれをよく表している。町の男たちと母親は問答無用で殺そうとし、追い回され死の影が眼に射し始めるマーシャを悲痛な気持ちで助けたいとするのはワレルカだけだ。そして学校の教師や校長は相変わらず子供の気持ちなど理解するでもなく、事に乗じて生徒と手慣れた校長室での密室セックス。まともでいろという方が無理だろう。これを機に家を飛び出し、母親とは気持ちを通わせることがなくなる。
職業訓練校のダンスパーティーの場でそれは決定的となる。不良グループの一員きどりのワレルカだが、リーダーと対立し騒動となる。間の悪いことにワレルカ一人が教師に捕まり、貧乏くじキャラは前作に劣らずひどいことを見せつける。「国から支給されたものだ!」制服も下着も脱がされ、全裸にされたワレルカは即、退学。
どこまでも傍に付いてきて、ワレルカの気持ちを察するのがワーリャだ。付いてきすぎだろうとも思うが・・・。
前作ではあくまで子供以上、思春期未満という超絶妙な時期を描いていたため性的な関係ではなく聖的なものだった。今回はもう思春期に入った二人だから、自然と寄り添い方は手と手を、体と体を重ね合うものとなり、ある日、藁を敷きつめた納屋で結ばれる。
だが、前作のように「ガリーヤなくしてワレルカなし」のような、守護天使の絶対的な存在感を感じない。ワレルカの眼は妹ワーリャではなく、あの時殺されてしまったガリーヤを見ているかのような空虚さがある。
観ているこちらも「妹さんとこうやって結ばれるぐらいなんだから、姉ガリーヤが生きていたらなあ・・・もっとこう・・・」等と下世話なことを考えてしまう有様です。
そして何も言い残さず、ワレルカはスーチャンを発つ。逃亡壁は相変わらずだ。この映画には相変わらずが多くて楽しい。アムール河を北上して、親戚宅を訪ねる。このあたりも相変わらずの、凍り付いた地面と寒そうな空だ。親戚はずっと留守で、隣人のソフィアの家に転がり込む塩梅となる。そこでなぜか婦人に気に入られ、性的関係を迫られたり、いい服を買ってもらったり、万事好調となる。なんでこんなに順調なんだ!? この展開はワレルカにとっては逆に新しくて目を引く。働きだした造船所の勤めもこなしているようだ。偉いぞ! っていうかバッドエンディングの不安が逆に・・・。どうかこのまま幸と安定が続きますように。
何気に、前作でも登場した日本兵捕虜が今回もいい味を出していて、ワレルカにとっては何となく気の許せる同類なのだろう、やはり度々彼らの溜まり場である収容所へ行き、ろくにロシア語を喋れない彼らを見つめて止まない。ロシアという世界、この作品の住人らのどこにも根を下ろしていない「ヤマモト」をはじめとする彼ら日本兵捕虜はまるで幽霊のような存在感の不確かさを漂わせている。彼らの発言は「お茶」ぐらいで、彼らの胸中を窺い知ることも、彼らの側がワレルカの心と交流することも描かれていない。ラストには「ヤマモト」がワレルカの極限の姿に無言で立ち会うことになり、ワレルカのどうしようもない孤立を一層浮き上がらせている。
万事が上手くいっているように見えたワレルカは、気がなかったのか、忘れていたのか、ワーリャからの手紙に返事を出すことがなかった。しばらくの月日が流れた後、ワレルカはソフィアの家族と共にモスクワへ行くことになる。更なる飛躍である。このまま順風満帆に終わるのか・・・?
船に乗り込むその時、彼を追ってやってきたワーリャとばったり再会。巨大なカバンも置き去りにしたまま再会を喜んでテンションが上がるワレルカだが、テンションが上がり過ぎているのをソフィア一家に見られ、急激に不審な目で見られる。このあたりから離別くさいバッドオチ臭が漂う。危険だぞワレルカ。更には、自分が出し続けた手紙のことをワーリャに訊かれると、迂闊にも全部棄てたと正直に答えてしまう。
無論、女心が許さないワーリャ。激怒である。今まで心配して、想い続けてきたのは何だったのか? 聞く耳を持たない。すったもんだの挙句、ワレルカの元を飛び出してゆく。同時に、ワーリャと明らかにただならぬ関係であることを見せつけられ、今まで可愛がっていたのにそっぽを向かれた形となったソフィアは「私たちだけで行くわ」とワレルカを切り捨てる。やりとりにしてほんの数分のことだ。一瞬と言っても良い。一瞬にして、得てきた豊かさ全てがその身から離れていく。まるで世界そのものから「やっぱり」受け容れられていないかのような展開だった。
帰りの船へと早々に乗り込むワーリャ、必死に説得して追い縋るワレルカだが、一度決めたらもう動かない。元には戻らない、とワーリャは断言する。船が遠ざかってゆくまで、岸のワレルカと船の通路のワーリャは大声で不毛なやりとりをしている。もうムリだとはっきり告げられる。とうとう本当に独りになったワレルカは岸の係員が船から「少女が海に落ちた」という不吉な連絡を受けるのを耳にする。それ以上の描写はないが、ほぼ間違いなくワーリャだろう。「守護天使」はまたも死んだのだ。
港に近いぼろぼろの集落では、男がネズミの入ったネズミ捕り大量に積み重ねて、ガソリンを撒いている。害になるから殺すのだと言う。ワレルカは無性に許せなくなり炎上するネズミ捕りを必死に蹴り倒す。山が崩れ、燃えながら四散するネズミは暗闇に映えてとても美しい。次第に炎はネズミから伝わって奥の小屋へ燃え広がり、ガソリンに引火して爆発を起こす。
ワレルカは飛ばされて意識を失う。
その後、ふらふらと小屋の一つに入る。赤ん坊、ワーリャ? 死んだガリーヤ? 死体・・・。夢なのか、彼の業を照らし出した内面の何かなのか。
この世そのものから弾き出され、皆が生きている輪の中へ入ることが許されないことが決定付けられた彼は、最後に胸に入れたイスラエルのタトゥー。俺が嫌いなら殺せばいい。殺さないんなら俺の方から消えてやる。俺は一人で生きるんだから。
自分の心境、心情をついに自分の言葉で口にするに至った彼。
どちらかと言えば、真っ当な、通常の映画の構成の域へ入ってきた。前作は、構成も何もかも型破りで、凄まじいエネルギーのカオスが吹き抜けていった。『一人で生きる』は真っ当に内面を捉え、ドラマとして形を成している。私は前作『動くな〜』の方がどうしても好きだ。だが『一人で〜』も、ケツを出した大人、怪しい通行人、馬の超長としたペニスを手にうろつく男、全裸の人など、よくわからないがとにかく凄いと言わざるを得ない人間がそこかしこに投入されている点は流石だと言わざるを得ない。
最後まで他者とのディスコミュニケーションを描ききったこと、絶望をきちんと貫いたこと、本当に称賛に値する。
マジデ ハラショー。
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『ぼくら20世紀の子供たち』1993/84分
ドキュメンタリー映画。ロシア、サンクトペテルブルクの街で生きる街路生活の子供たちを追って、話しかけ、彼らのストリートライフを捉える。
ソ連からロシアへ切り替わったところで、民主化されたものの生活が急に豊かになるはずもなく、目指すべき将来の目標や拠り所とする価値観もないことが窺える。親は酒飲み、子供は放置といった家庭環境も影響していそうだ。子供たちは非常に得意げに、自分の犯罪歴を語り出す。小学生ぐらいの子は窃盗が主のようだ。赤信号で停止した車の窓ふきをしたり、残飯を拾ったりして食いつないでいる。
3〜4歳という非常に幼い子もいるし、女の子もいる。可愛らしい顔つきの子もいるし、いかにもワルやってますという顔の子も。日本でなら幼稚園、小学生低学年の子らがお互いに身を寄せ合って兄弟姉妹のようなコミュニティを形成し、自助しているのが興味深い。親の財布から金を盗った、車のバックミラーを盗んだ等の自供を笑いながら、じゃれるように、誇らしげに、慣れた顔つきで語るのだから、まったく観ているこちらは、事の善悪をとやかく言える余地が全くないことを改めて気付かされる。
取材する子供の年齢が徐々に上がっていくにつれ、持ち物や犯罪内容が本格的になっていく。高校生ぐらいのグループになると、廃屋に無断で住んでおり、侵入して「ちょっといいかい?」と声をかけたカネフスキーから走って逃げだした。暗く、ボロボロに荒んだ空間には申し訳程度の電灯と、傷だらけの木机、ソファ。なんとか安心させてなだめ、少年らを呼び戻し、インタビュー開始。ナイフをずん、と机に突き立てて犯罪歴を語る彼ら・・・状況はどんどんひどくなっているようだ。
しかしそこはやはり子供。菓子を与えたり、歌を歌わせたり(なぜか異常にしつこい)、日々の暮らしぶりについて次々に質問を重ねていると、最初はどこか怖さすら感じた彼らの風貌、物腰に子供らしさが戻ってくるのだ。対等な目線で対話し、相手の話を聴くのは大事だとうんざりするほど言われているが、妙に納得させられた。コミュニケーションに対する無邪気さには、陳腐ながら何かしらの可能性を感じてしまった。
対照的なのがラストの方で登場する、「ギャング」構成員である成人男性らだ。彼らは既に組織として犯罪を行っており、カネフスキーの食い下がりに対しても無視を決め込む。まるで軍人のように厳格な風貌で、無駄なことは何も洩らさなかった。システム化された存在となった彼らの抱える問題も根深そうだ。
次にカネフスキーは少年院を訪れる。
正直、さきの2作品からあまりにテンションが落ち着きすぎていて、眠くなり、途中を覚えていない。なんせ、こちらは現実を見つめ、現実に生きる彼ら、彼女らと同じ目線で話を聴くというドキュメンタリーだ。彼らは絶望の渦中を生きている現在形の主人公ではあるが、さすがにワレルカのような破天荒な破滅のドラマには生きてはいない気もした。ストリートの住人としての日々を「繰り返して」いる。それはそれで凄味があるのだが・・・
年齢別に仕切られた施設の中、10歳までの子供、11〜15歳までの子供、そして16〜18歳までの青少年が入れられる区域を辿り、鉄格子をはさんで一人ずつインタビューを続ける。「どんな罪で?」「君は何をした?」傷害、強盗、窃盗、薬物など、思いつくたいがいの犯罪が語られる。
最後の青少年の区域で、なんと青年になったパーヴェル・ナザーロフが現れる。前2作でワレルカを演じた男優である。一瞬、間が空く。微妙な間だ。他のロシアンキッズのご多分に漏れず、しっかりと窃盗など犯罪を犯していたのだ。創作という枠を超えて、現実にアウトサイダーとして生きていた彼だが、実際のところ、パーヴェルが逮捕されたからこそこの作品を作ったようにも思えてならない。
後日、カネフスキーはガリーヤ・ワーリャ役を務めた女優ディナーラ・ドルカーロワを連れて少年院に再来する。すっかり大人びた二人の、面会室での再会。
徐々に二人の言葉、心が通い始め、ギターを爪弾くパーヴェル。『動くな〜』でラストに歌った、あの歌を二人で口ずさむ。
ここを出たらどうするの? 役者をやるよ、話は来てるんだ、と将来を語る二人の言葉は、ドキュメントとは思えないほどきちんと選択された言葉で、観る者に前向きさをしっかりと感じさせる。
良い話だった。
現実的には非常にすさんでいる路上なのだろうが、ともかく、本当に現実をアウトサイダーとして生きてしまったパーフェル(ワレルカ)にとって、救いというか、暖かな未来を感じさせる瞬間が生まれたことは間違いない。
この作品から既に16、7年が経ち、経済状況は著しく変化した。今どうなっているのか、現地を訪れてストリートを見てみたいという気になった。こわいけど・・・。
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どうやらカネフスキー関連のこれら作品、DVD化される動きになっているらしいのです。
しかし具体的な時期については未だ不明。
どうなるのでしょうか???