写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【映画】zk 頭脳警察50 ー未来への鼓動ー @第七藝術劇場

かつてこの国には革命への熱が激しく渦巻いていたという。もう伝聞形でしか知りようがない。いや、現在でも、各種の平和的なデモや共感からのハッシュタグとRTの嵐は常々起きている。姿形は変われど、大きな力に対して抗い、自分たちの声を届けることは、切実に求められ続けているように思う。一片の詩を書き付けること、それを読み上げ、歌い上げることの力、そこに時代や年齢は関係ないことを思い知る。

 

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頭脳警察の「いま」を追ったドキュメンタリー映画である。

ボーカル・ギターのPANTAとパーカッションのTOSHIの2人を軸として、生い立ち、結成、解散、再結成から今日に至るまでの「頭脳警察」の活動を、日本社会の動向とともに追っていく。だが、視座は「伝説」への憧憬ではなく常に「現在」へと立ち返るよう構成されている。過去のライブ映像も多数引用されるが、それらは資料として、あるいは過ぎ去った時間として、あくまで参考程度に触れられている。最も生き生きとしたサウンドと振動で映し出されるのは、この2~3年の間に催されたライブ映像だ。

 

それは回顧のためのバンドではない。「いま」を生き続けているバンドであり、「いま」を刻んでゆくライブ。それを追うこの映画もまた、「いま」に全力を振っている。

ラストシーンは令和2年3月28日、新型コロナ禍の東京の片隅・ライブハウス内。人のいなくなった都心に続いて、無観客ライブ形式でのレコーディング光景が映し出される。本作のテーマソングである『絶景かな』を流し、エンドロールへと締め括られる。何もない、敗北感もない、何百年が過ぎても、永遠なんてない・・・同じことを繰り返してばかりの世界を達観する、そんな、透明な無常観に満ちた歌である。

「絶景かな」。マスクの転売ヤーやマスクをせずに出歩く輩やマスクをしてない人にキレ散らかす輩や連日TVで全方位的に煽りに煽る連中などに心身五感の全てを振り回されてばかりだったが、そんな渦中に、こんな歌が産まれていたのか。無の風景論、喜怒哀楽を超えた、なんという透徹した眼だろうか。

 


「絶景かな」頭脳警察 新曲 2020/3/28 渋谷Lamama

 

コロナ禍を契機としてそれをテーマに取り込んだ表現者は多かっただろう。だが『絶景かな』と頭脳警察の面々らは、どこか泰然としている。

頭脳警察は結成されてからずっと、世界の、すなわち、いち個人を取り巻く大きな状況、自己の外側で変化と動揺を続けるものとの呼応の中で、詩を書き、歌を歌い、音を鳴らしてきた。活動史を振り返って見ていると、世界と共にあるバンドだとひしひしと感じる。

 

1950年にPANTAとTOSHIの二人は生まれ、1969年に「頭脳警察」結成、翌年デビュー。時は政治の季節、東大安田講堂は陥落し学生運動は先鋭化、1972年にはあさま山荘事件が発生し、闘争の場は成田空港建設反対の三里塚へと移される。一方で大阪万博に象徴されるように、思想や主義、革命などとは無縁な、生活水準の向上した庶民が多数派となる時代へと移る。これが80年代なるものを形成していく。

頭脳警察の挑発的・扇情的な歌詞は、学生運動の渦中で愛され、熱狂的な支持を受けた。しかし、活動家の魂を奮わせるような音楽は、彼らがやりたいと思う音楽とは次第にかけ離れてゆき、身動きがとれなくなってしまったという。ステージに立つ度に”革命三部作”『世界革命戦争宣言』『銃をとれ』『赤軍兵士の詩』を求められることに疑問としんどさを感じ、1975年に解散。

その後も、音楽性の選択・分岐において、メジャーとなるニューウェーブには進まず、されど、攻撃性に閉じ籠るでもなく、PANTAとTOSHIは個別に活動し、多数のアーティストらに楽曲を提供したりライブに参加。1990年、復活ライブ。翌年再び解散。面白かったのは、75年解散後の活躍が非常にマルチであることだ。相手が誰であろうが――天下のトヨタであろうが仕事をする。多角的な対応力と、幅広くから必要とされる魅力を持った表現者だったのだ

 

夢にも思わなかった。危険な反乱分子だとずっと思い込んで生きてきた。(ある時期までは実際にそうだったのかもしれない。)

 

私は「頭脳警察」の名前しか知らなかった。高校3年の頃からインディーズのパンクバンド等を漁り始めたので、雑誌等を通じて自然とその存在を知ることとなった。が、実像を知ったのはこの映画が初めてだった。1st、2ndアルバムが続けて発売中止になったこと、伝説のとか思想犯とかあらゆる厳めしい形容が絶えないこと、バンド名と曲名の凄みが強すぎること、そして解散ライブのレコードジャケに用いられた三億円事件の警官モンタージュ写真が危険すぎること。これらの強烈極まりない情報が、「頭脳警察」なる存在の外殻を、あたかも赤軍派の武闘派のようなものとして混同的にすっかり作り上げてしまっていた。彼らと直接出逢えなかった世代の人達の多くもそうではないだろうか。

 

優しかった。

ジャンルとしてはフォーク、ロックに当たると思われるが、こちらの感覚を包み込み、染み込むようなメロディで、それでいて、眼を自己の外側へ――つまり社会とか国といった見えざるものへ、向けさせるような、背を押して促してくれるような音楽だった。多くの若者たちが連帯し盛り上がったわけだ。

歌詞も、もっととんでもない暴力的なものかと思ったら、普通に真っ当なことを言っている。航空機のハイジャックや爆弾テロを指向する思想犯罪者の先行イメージ・レッテルがあまりに強くて拍子抜けしたぐらいだ。(SEX PISTOLSドキュメンタリー映画でも同じような経験をした)

文学的とでも言うべきだろうか。確かにメジャーな歌謡曲、J-POPの不文律からすれば、ありえない歌詞だ。「体制」や「常識」「約束事」に対する疑義の訴えを全面に押し出しているが、Twitterでの罵詈雑言や粘着、自己正当化の瞬間芸を毎分毎秒目の当たりにしている我が身にとっては、たいへん高尚というか、背骨から詩を切々と読み上げる美しさを感じた。17歳の時に書店でヘルマン・ヘッセの詩に出逢って痺れ、後に『さようなら世界夫人よ』を作ったぐらいなので、PANTAの中では圧倒的他者としての、残酷なまでに広くて手に負えない「世界」なるものが初めから「見えて」いたのかも知れない。

 

PANTA、TOSHIの両名も優しい。柔軟だ。というより、おじいちゃんだ。本作タイトルのとおり、頭脳警察は2019年に結成50周年を迎え、2人も70歳を迎えた。ヴィジュアルとしては完全におじいちゃん。

1990年・再結成時のライブ映像を見た時、見覚えがあったので、やはり自分の印象・記憶としては90年代ぐらいのヴィジュアルイメージで止まっている。多くの人もそうではないだろうか。その印象を裏切り、60歳代後半の二人の姿をベースに据えた本作は、最新の頭脳警察であり、頭脳警察のリアルそのものであった。

 

何よりも目を見開かされたのが、PANTAの肉声である。歌声である。それは10代、20代の強さと輝きを湛えていた。それに応えるTOSHIのパーカッション。青空を宿したような、透明なブルーの光が、歌の中に輝きを放っている。なんということだ。私は信じられなかった。彼らは明かにおじいちゃんなのに、私よりも遥かに若くて鮮烈なのだ。彼らは確かにおじいちゃんなのに、今この瞬間が最盛期で、最も若いのだ。信じられなかった。

 

変化し続けること、まとまらないことを重視していることが終盤で語られる。頭脳警察50周年再結成の新メンバーとして1990年生まれの若手3名を加えたことが、何よりもの証左だろう。常に新しく、まとまらない「初期衝動」であることを望んでいる。 

それが最もビビッドに現れていたのが、新曲の制作光景だ。映画の撮影で忍びの里の長を演じたことから着想を得たPANTAが、新曲『乱破者』を思い付き、メロディを試作し、スタジオでセッション、各パートの音の解答を徐々に見つけ出していく過程は、衝撃的だった。音楽に携わっている人、いや創作全般において現場は同じかも知れない。しかし、そこにいるのは、何度凝視してもおじいちゃんである。おじいちゃんなのに、冴えわたっていて、現役バリバリなのだ。誰よりも自由に、柔軟に、精力的に、旋律を見つけ出していく。試して試して速度を変えて、繰り返すごとに、バラバラだった音、手探りだった音が、曲としての重さと色どりを備えて、凄いスピードで進化していく。

 

もうひとつ、頭脳警察のとんでもなさを見せつけられたのが、2018年「ヤルタ国際音楽祭」での公演だ。

思想団体・一水会の手引きによって、ロシアへ併合されたクリミア半島のヤルタ(文字通り「ヤルタ会談」の地)でライブを行うこととなった頭脳警察は、気楽に音楽を楽しみに来た異国の聴衆らに向かって、『7月のムスターファ』を歌った。曲を作った動機を日本語で語るPANTA

ムスターファとは、あのサダム・フセインの孫にあたる。2003年7月に米軍の急襲により家族もろとも殺害され、たった独りで米兵と抗戦したという。その時のことを、殺害の情景を、演奏前にPANTAは説明する。単純に音楽を楽しみにきた人々の訝し気な表情がたまらない。唐突に、予期せぬ形で、自分達の外側の世界を突き付けられる聴衆たち・・・ PANTAは構わず言葉を続ける。アメリカやロシアといった大国の都合、思惑によって翻弄されるのは、アラブ諸国も東欧も同じである。日本語の歌が響く。日本語を解さないはずのクリミアの聴衆が、怪訝な顔をしながらも、盛り上がるのでも盛り下がるのでもなく、立ち尽くしながら、得体の知れないものに動かされていた。

 

容赦のない人達だ。痺れる。痺れるものがあった。いつまでも燦然と輝く過去の伝説に対して、伝説からどこまでも自由である。それは常に「いま」に生きているからだ。加齢と時代の変化の板挟みの中で、それほど難しいものもない。ひょっとしたら革命を叫んで暴れるよりもずっと難しいかもしれない。それを日常的のやってのけているのが、頭脳警察だった。

 

 


映画『ドキュメンタリー 頭脳警察』予告編 

 

 ( ´ - ` ) 完。