nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.3/22~4/15 吉川直哉「The Albums ~ ファミリーアルバム、はっぴぃドッグより ~」@BLOOM GALLERY

2020年と2022年に東京で発表された「Family Album」「はっぴぃドッグ」の2シリーズを再構築・併置した展示。家族写真の複写と、日々共に暮らす愛犬の肖像、何気ない身近な存在が語るのは「家族」と「記憶」との関係だった。

【会期】R5.3/22~4/15

 

展示タイトル、DM、SNS広報の画像、どれをどうとっても「家族」「ファミリーアルバム」そのものである。そしてギャラリースペースの奥に入ると、多数の愛犬の写真「はっぴぃドッグ」シリーズが散りばめられている。犬だ。可愛い犬です。

なるほど確かに、「はっぴぃドッグ」シリーズは一見、ごく普通な、愛犬家のファミリー写真である。

 

だが写真家の作品である以上、ただの家族アルバムであるはずがない。作者名を伏せられて写真だけを見たなら自分がどう反応していたか、スルーしてしまっていたかどうかは分からないが、少し丁寧に見ていくと、愛犬家の写真と決定的に異なる点が3つある。

 

まず1つは目線。犬と対等な目線で撮られている。ペットと飼い主という関係にありがちな、飼い主に従属させるような上から下へ見下ろす視点、愛玩の対象と見なす目線ではない。特に顔のアップ写真は顕著で、撮り手/飼い主から独立した存在、コントロールされざる者として、そこに居る。

 

2点目は、今回の展示というよりも同名の写真集の話になるが、新型コロナ禍以降の日常生活の記録である点だ。壁面展示は愛犬のカットに絞られているが、写真集では非常に明確に、2020年以降の日々を時系列で掲載している。具体的には、作者がこの愛犬「リキ」をワールド牧場から引き取って飼い始めたのがちょうど2020年1月13日で、それ以降の日々の生活、散歩などの中で撮り溜められた写真がまとめられている。写真集の発刊は2022年10月、作中で明記されている日付が2022年3月21日なので、少なくとも新型コロナ禍真っ只中の2年間強の日々の記録となっている。

写真集の最後の方に掲載された一文が象徴的だ。

パンデミック、海の向こうの戦争、大きな事件、祭り、祝事、惜別・・・。いろいろなことに目や耳を奪われ現実感が遠ざかる。そういうときにぼくは写真を撮る。写真は記憶を助ける道具である。」

ここに「記憶」というキーワードが登場する。本作はよくありがちな飼い犬を愛でるための写真、ハッピーな家庭を誇示する写真ではなく、記憶を巡る作品であることが示される。

 

3点目は壁や道路に映る影・シルエットの写真である。作者、もう一人の家族(息子?)と愛犬の3人が並んだ影の写真が、複数枚提示されている。自分達のセルフ写真ではなくあえて影を撮り、影を家族写真として扱う行為は、本作を単なるペット写真、愛犬家の写真と決定的に別の領域へと導く。なぜなら言うまでもなく影は具体的な情報、現在形という質感や位置エネルギーがゼロ化された、何処にも位置付けられない/何処にでも跳躍して接続可能となるイメージだからだ。

3人(2人と1匹)という肖像の影、家族の影=「型」が接続する先は、「家族写真」のイメージであり、「家族」なるものの原型や記憶である。2点目で触れた「記憶」と「家族」「家族写真」との接点、結合がここではっきりとしてゆく。

こうして「はっぴぃドッグ」シリーズの愛らしい犬写真に「家族の記憶」「家族写真の記憶」への言及があることを見い出していった(実際、私がそのように展示作品を辿っていった)わけだが、実は作品の制作順序および展示の案内からすると逆である。「はっぴぃドッグ」展示解説および写真集冒頭のテキストに「ぼくは「Family Album」の続きを作ろうと決めた」とある通り、これは先行する「Family Album」シリーズから派生した続編なのである。

 

ここで同時展開されている「Family Album」シリーズに話を移す。

「Family Album」は、母親の突然の逝去をきっかけとして、作者自身の幼少期の記憶や家族写真アルバムを振り返ることで制作された作品である。内容は、過去の家族アルバムの複写と、現在/母親が去った後の家庭、「家」の写真から構成される。

作者にとって母親の存在が大きく、その喪失もまた大きなものだったことは言うまでもないが、これまでの写真家活動においても「家族アルバム」は重要な意味を持っていた。母親の逝去の時期との前後関係は不明ながら、2000~2001年のアメリカ留学時には、写真集の複写行為を通じて、家族アルバムの一部を複写することで物語の再構築を行うことを思い付き、2011年の東日本大震災では写真洗浄・救済ボランティア活動の意義とともに「人生にとって写真は大切なもの」と写真の価値を認め、家族アルバムの続きを作ることを決心したそうだ。

 

会場では主に家族アルバム写真を複写した作品が展開されていた。作者自身が「アプロプリエーションの作家とは異なる」と書いている通り、アプロプリエーションではオリジナルと複製との差異やズレの意味を問うたり、全く異なる文脈へとイメージを連れ去り投入する。だが本作では、複写の時点で新たな角度とフレーミングから新たな焦点化が加えられ、しかも部分拡大気味に撮影されており、元の写真とは別の写真になっている。

更に言えば、元の写真は公に流通している芸術作品や広告ではなく、ある一般家庭における私的な家族写真であり、しかも作者の家族(親)の撮影・所持物である。アプロプリエーションの対象とはなりえず、複写によっても表現上の文脈のズレや転換はそもそも起きない。

 

ここで企図されているのは、写された作者の側から、時の流れを超えて写真を見返すこと、今や親となった立場から、かつて親が写し保管した写真を、アルバムを見返し、クロスする視点から複写することで家族アルバムを解体・再構築することである。

作者の幼少期の写真はどれも、斜めから切り込まれたり一部をクローズアップされ周囲は強くボカされたりして、具体的な顔は隠され、かき消される。人物像・顔は作者個人のものというより共有物に近いイメージとなり、過去に関する情報の記録であることを止める。逆に「家族アルバム」の記憶性が強く引き出されていく。

このイメージは誰のものなのか、誰のための像だったのか。改めて複写の中で探し始める。斜め上から切り込む複写の目線は、個人に帰属する思い出の域を超えて、これらを固有に私的なものとして共有していた記憶の共同体があったことを指摘する。「家族」は再発見される。ここに写された情景や時間を、出来事・記憶として共有した人達が確かにいたことを感じさせる。

 

「家族」という人間関係・コミュニティは何から成立しているのだろうか。血の繋がり・遺伝的形質、氏名の繋がり、儀式、土地の繋がり、生活を共にした年数など、様々な要素が挙げられるが、中でも「家族アルバム」に象徴される「写真」が果たす役割は非常に大きいだろう。家族が共同で送った生活や歴史の実体としての像を提供し、それらは家族が確かにあった証拠・根拠として、実感として機能する。「記憶の共有」である。

恋愛関係でも同じイメージ作用があるが、家族は構成員がより多い。複数の、様々な世代や性別の構成員がある情景や記憶を、我が事のエピソードとして共有していること、その歴史的な積み上げこそが「家族」の中身を満たしている。その証人であり実体・実となるものがまさに「家族アルバム」というイメージ体である。

像だけでは意味を持たない。エピソードによる肉付けとその共有がこれらのイメージを共同記憶へと押し上げていて、その共有行為と写真との結び付きの繰り返しが「家族」という人間関係の内実を埋めている。家族写真は家族によって生まれるが、一方で同時に、家族写真が「家族」なるものを確証させる物として機能しているのではないだろうか。

 

写真集「Family Album」の奥付けにある小さな写真に、幼少期の作者が犬のぬいぐるみを抱いて写っている。このぬいぐるみの名前は「はっぴぃ」といった。

犬のぬいぐるみ「はっぴぃ」は作者が1歳の誕生日にプレゼントされた。棄てられた後、作者が4歳の頃に飼った犬もまた「はっぴぃ」で、それはすぐ知人の手に渡された。「はっぴぃ」は、作者の母親が独身時代に飼っていた犬の名でもあった。その後、長い時間を経て、先述の通り2020年1月に作者は偶然「リキ」と出会い、引き取ることになる。

 

「家族」の型は反復される。

家族という集団が一定のパターン(男・女の組、中高年・子供の組、+老人、+ペット、等)に則った、構成の枠組みから成るものである以上、構成員の入れ替わりによって型の反復が起きる。特にペットは最も/劇的に簡単に、素早く出入りする。

一方で、写真は「家族」像のイメージを反復する。家族に共同所有されていたイメージを示して、そこにある家族が在ったことを内側から証明するのと同時に、描写の中身が抽象化された際には、ある家族の外形・型も指し示す。

「Family Album」は作者自身の家族アルバム写真の複写を通じて、「家族(写真)」の二重の抽象化を行っている。一つはそれぞれの写真の内部の個人情報を抽象化して、エピソード記憶の固有化・共有化以前の状態へイメージを逆戻すこと、もう一つは家族の型の抽象化で、メンバー構成員の外形的な組み合わせの型を示すのだ。

 

「はっぴぃドッグ」の3人(二人と一匹)のシルエット写真はこうして「Family Album」の抽象化された人物・情景イメージと結ばれる。「家族」が何から出来ているか、何が繰り返されているのか、そして何が一期一会なのか――が漂ってくる。

「はっぴぃ」と「リキ」はまるで写真のように作者を取り巻く「家族」の存在感を型で反復し、エピソードを催させて「家族」の質、共同の記憶をもたらす。おそらく客観的に観測/撮影した時には彼らはただの「犬」であり「ペット」であり、その家族は愛犬家一家となる。だがその中には一期一会で唯一無二の時間と質がある。ここに流れているのが過去から現在形で連なっている記憶の共有と変遷、それを催させ確証させるのが「家族アルバム」であり、写真の力なのであろう。

 

( ´ - ` ) 完。