宇宙や星空、胎内の遠さ――「神秘」を、見るのは誰で、語るのは誰なのか。そのことを問う作品だったように思う。
【会期】R1/18~2/12
黒い空と星を映したその作品は、版画なのか絵画か、墨なのか、特殊な素材の彫刻なのか、それとも写真なのか。
写真が元になったシルクスクリーンは、厚みのある空間を醸し出していた。
このように作品が黒くて周囲が白いため、コントラストで画像が潰れて気味だが、作品には夜の星空、星の表面が描き出されている。その表情は主観というよりドライな、「地質」を感じた。空の向こうを表しているのに土を感じる質感である。
写真をトレースして塗料を塗ったのだろうか?
教えてもらったところによると、NASAの公開画像(=写真画像)を元に、シルクスクリーンを200~300回重ねているという。更に、塗料には桜島の火山灰を混ぜ込んであり、物質性、特に土・鉱物の質感が織り交ぜられている。実に写真的な絵でありながら厚みを伴い、地質を感じるのはそのためだ。
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さて私は残念な子なので、シルクスクリーンがどういう工程かを知りませんで。説明を見ます。孔版画の一種で、要は以下のようになります。
①感光剤を塗布したメッシュを用意
②元画像をメッシュに当てて、紫外線で感光させる
③感光箇所は固まるので、他の部分を水洗する →版下(原稿)ができる
④版下を印刷したいものの上に置き、塗料をスキージ(ゴム製のブレード。刷毛の毛じゃないやつ)で塗り込む
→元画像の形のところだけメッシュの孔が開いているので、素材に画像が印刷できる
( ´ - ` ) 理解が進みましたね。よかったですね。
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注目したいのはやはり、元になっているのが画像データとは言え「写真」だということだ。厚みや質感を持たない「写真」が、膨大な手作業と、塗料と火山灰の堆積によって、物理的な「質」を獲得している。
見ての通り黒色ベースのため、モノクロ写真の彫刻版、こちらの世界ではゴーストのようだった「写真」が、実体化するための肉体を手に入れたように見える。写真を受肉化させて立体造形に近い平面表現へと立ち上げる(逆2.5次元?)、この手法自体はこれまでの作品でも一貫しているようだ。
NASAの公開画像デ-タを用いた作品と言えばやはりトーマス・ルフだが、あちらは画像データをそのままプリントしており、「宇宙」はあくまで彼岸で、人類から切り離された科学であり、「データ」という絶対零度の領域にあった。だが芳木作品ではこうして丹念に、手作業と火山灰(鉱物)によって物質へと受肉化されている。作者の手に「宇宙」を引き寄せるようにして。作者の地に足の着いた地質として。
一方的に「見る」対象でしかなかった彼岸の存在、神秘の存在、ともすれば消費されるばかりの「イメージ」そのものであったもの――ここでは「宇宙」や「星」を、執拗なまでの作業量によって「こちら」へと手繰り寄せていく行為を、どう捉えればよいだろうか。
同じ空間に並ぶもう一つの作品群を併せて見るとき、その意味が何となく解ってくる。胎内のエコー画像を同じ手法で刷り上げたものだ。
お腹のエコー画像も天体・宇宙の写真と同じぐらい見慣れた「写真」イメージだ。どちらも直接この手で触れることのできない、そして神秘に満ちたイメージである。特に胎内の様子は新しい命を宿した母体という聖域と容易に結び付く。これを見て胆石の検査を想像する人はあまりいないだろう。
前者はNASAやJAXAなどが、後者は医療機関が主に管理している。天体写真は個人で趣味でも撮れるが限度があり、高度で詳細なものは無理だろう。技術的・設備的にも、両者のイメージをいち個人が撮影・保有する――「見る」主体とはならない。二次的・三次的に流通したイメージを受けて、例えば学校の教科書やTV・新聞などで触れることになる。
だんだん、観察の主体と被観察者、文系・理系の選択肢と男女比などが連想されてくる。宇宙の星と胎内の命は直接に肉眼で見えず、見たり語ったりする主語が他の誰かにあるがゆえに遠くて神秘である、その点で共通しているのではないか。
これまで一方的に見られ・観察される対象であり、見る側によって占有されてきた「イメージ」を、膨大で丁寧な作業によってその手に・体と足元へと、自分の一部のようにして引き戻す行為、自分のこととして繋ぎ合わせようとする試み・・・男性原理によって社会的に占有されてきた世界を、いち個人である女性が取り戻そうと試みる図式として捉えずにはいられない。
ここで前回の展示について振り返ってみる。
約2年前、2020年2~3月に京都のワコールスタディホールで催された展示「fond de robe ー内にある装飾ー」だ。
もう少し踏み込んだ話がプレスリリースに記載されている。
現代と約100年前の女性の下着を、同じ手法によって立体的に刷り上げた作品である。普段は衣服と肌・肉体との間にある下着、これも男性と女性の立ち位置の兼ね合いから、「見る」「見られる」の狭間にある存在で、そして装着する人の身体の象徴でもあり、社会的なステータスを表わすものでもあった。
私はこの展示を観ていないが、概要を読むと今回の展示と繋がっているように思う。
私は作品を見るときに、「ジェンダー」や「フェミニズム」を可能な限り度外視したいと考えている。それらは共産主義的な資本主義批判と同じぐらい(同じところから生まれたのではと思うぐらい)、万能包丁のように現代の事柄を何でも切れてしまう、だからそれで括ると逆に作品や作者を個別に見ずに、色んな言いたいことを仮託してしまえる可能性もある。
だが芳木麻里絵作品においては、この視点は欠かせないようだ。
一見、繊細で精緻な造形の美しさが主役に見える。そして概念のような「イメージ」が質感を伴った「形」へと表される、転換の発想が見事だ。が、技術やアイデアだけの作品と呼ぶには、ワコールホールでの精緻な下着イメージを刷り上げた展示は、そう甘いものではない。もっと厳しい指摘が込められていよう。
シルクスクリーンにそれだけの手間・労力を必要とした大元の動機は、やはりこの社会に流通している遠き神秘の「イメージ」を、「こちら」側=女性個人の側へ引き寄せねばならないと作者が考えた、そう解釈するのが文脈として適切なのではないか。そのように思った。
桜島の火山灰も展示されていた。作者は鹿児島県の出身である。
宇宙や星が誰のものか、考えたことはなかったが、胎内の脈動のイメージ・エコー画像は、誰のものか、下着は、そうして問いを重ねていくと、答えに窮するところがある。見る側と見られる側の分離という、都合のいい体系が見えてくる。
神秘は、遠き場所は、誰が見るのか、誰が語るのか、その主語が今、盛んに問われているように思う。
( ´ - ` ) 完。