写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】写真新世紀2019(第42回公募 受賞作品展)@東京都写真美術館

【写真展】写真新世紀2019 @東京都写真美術館

見たのは結局真空だったのかも知れない。 

【会期】2019.10/19(土)~11/17(日)

 

言わずと知れた日本写真界の登竜門。「優秀賞」受賞者は7名、うち1名がグランプリ。「佳作」受賞者は14名。

入場無料、撮影フリーとなっている。会期が1カ月ほどしかなく、毎年観に行けるものではないので、記憶の新鮮なうちに感想などを書き留めておきたい。

 

 

1.優秀賞

◆遠藤祐輔《Formerly Known As Photography》

写真と動画を対にした2枚1組の6作品。スナップ写真とその「前後」を有する動画を対比させることで、スナップ写真の価値、意義を問いかけるもの。制作の動機は、ストリートスナップにまつわる困難さについての考察。一つは街中でのカメラ操作が忌避されている現状、もう一つが、写真・動画記録媒体の普及に伴う「決定的瞬間」への疑問符だ。

誰かが既にやっていそうな発想だが、ちゃんとした形で見たのは初めてだった。シャッターボタンを押す数秒前から撮影する機能(タイムシフトなどと呼ばれる)は、スマホでもお馴染みの機能だが、10数年前からコンデジに搭載され始め、従来の写真における「決定的瞬間」の唯一性の特権、スナップの意味は十分に脅かされてきた。スナップが振るわない、むしろ動画の方が面白いのもそうした記録インフラの変化のためだろうか。

スナップに価値があると証明するためには、撮影者の意図せざるタイミングで自動で撮られた写真には価値がないと言う必要があるが、なぜ「その」瞬間が「価値」を帯びるのか/帯びないのか、その検証は動画や連続写真によってはまだ為されていないのではないだろうか。この問いは深めていくと面白いと思う。

 

◆江口那津子《Dialogue》

ここにはアルツハイマー認知症と診断されて10年になる母親との関わりが表されている。幼少期に母親と共によく訪れていた祖父母宅の周辺を40年ぶりに辿り、かつて母と共有していた記憶を写真で形にする。その景色は記憶自体との距離感を表している。

大きく2面に分けた構成、左の面は整然と配列され、右の面は重なりとまだらに満ちている。左側の面では、祖父宅付近の景色は、遠い昔のヴィジョンをおぼろげに掴みに行くように、薄っすらと薄っすらと白く、徐々に確かなモノクロになる。だが右側の面では、多くの写真が色あせ、薄く、確証はなく、上から上から混ざり合う。記憶と印象に区別はない。

右の面には作者の母親の写真が大きく貼り出され、薄く色あせた様々な光景のモノクロの隙間に、作者の幼少期と思われる写真が、それだけは克明な面立ちで残されていた。左の面は作者自身、右の面は母親の「記憶」を体現したものだろうか。もちろん母親は制作に介入できないだろうから、どちらも作者の解釈に基づくが、そこには「私のことは娘と分からなくなっても、娘がいたことは覚えていてほしい」という痛切な願いが込められているのかも知れない。

両者の「主観」を対等に並置させる発想は、看護師ならではの感性だと思った。医療現場では、様々なものを失った患者に対しても、その自我、主権を尊重することを重要視している。

 

壁面の展示構成は見事だが、写真集もまた記憶の距離感をテーマとして構成されている。白く霞んで祖父母宅の景色ははっきりとは見えない。いつしか母親側からの記憶、過去へと入っていく。風景画が挿入される。母親が過去に描いたものだろう。その中では、世界は色彩豊かだ。

 

 

◆田島顯《空を見ているものたち》

日本中のアメダス観測機器を撮影して回っている純粋な力作。夏休みの自由研究を大人げないレベルで果たしたような取り組みで、こういうマニアックなコレクション系の取り組みはコミケなど同人界隈でも見られるが、度を超えているのがいい。また、写真がいい意味で地味なのもいい。とはいえ、単品で展示に耐えうる大きさで、質を高めた時に、それぞれの写真でまた見えてくるものは確実にあるはずだと思う。気象を正確に観測するために要される設置環境、東西南北での風土の違い、機材の装備の違いなどだ。

なお、壁面に展示されているのはごく一部に過ぎないことが机上の写真集からイヤというほど分かる。こうした現地調査を物量で示すには、写真に勝るメディアはない。

写真は全国分ある。これがアメダス網の全てを収録しているかは素人の私には分からないが、南西諸島や九州のアルバムを見れば、網羅の度合いがよく分かった。これはガチのやつです。やばい。

同人界隈での評価と写真界としての評価が重なるか分かれるかの分水嶺に、写真としてのドキュメンタリー性、アートとしての展示思想が打ち出せるかどうかがあるだろう。それはつまり社会との接続だ。本作は日本列島と天候の問題をリンクさせており、昨今の異常気象に抗する地味な裏方・主役としての装置を明らかにしている。ニコンサロンなどでまた再開してみたい。

 

◆吉田多麻希《Sympathetic Resonance》

サーモグラフィーカメラも併用して、熱や動きから「自然」の存在感を捉えたもの。温度を捉えたときには通常の写真では像を結ぶところが白く消えたり黒く沈んだりし、静かさと躍動感が揺らぐ。犬が蠢き、鳥が飛び立つ。中央の1枚だけモニター画面になっていて動画が流れる。動物だけでなく水、流体、分子をイメージさせる物理そのものも射程に入っている。

あまり感じ入ることがなかったが、全部のカットが等価ゆえに勿体なかったせいかもしれない。サイズと間隔、余韻、緩急は重要だ。展示の方法を変えるだけで相当印象が変わると思う。冊子のメインカットに使用されているカラス1羽の佇む姿を横から捉えた写真は、光に消え入りそうな体が躍動を秘めていて、良かった。

 

 ◆中村智道《蟻のような》

今回の写真新世紀のグランプリを獲得した作品。壊れそうな・壊れてゆく自己が婉曲的に表現されている。外部から浸食されてゆく個としての「私」の内。肉ではなく、周囲との関係性やペルソナが侵されてゆく危機が表れていて、正視できなかった。

 

作者はアニメーション作家であったが、闘病中の父親の死に際しては自身の契約上の制約から何もできなかったこと、また作者自身が過労によって心身を壊し、本業であるはずの絵を描くこともできなくなったことがステートメントに綴られていた。その経歴があってもなくてもこの作品は、正視し難い痛み、浸食の危機が表れている。

個人的な話で恐縮だが、私は浸食、特に蟻にめちゃくちゃ弱い。蟻はだめだ。だめ。なのでまともに写真を見られない。蟻は写真の内側でイメージにむらがり、むさぼる。イメージ群は更に額装の内と外で入れ子になりながら反復される。自己の世界や言語を再生し、バラバラに崩されまいとする作者と、それがそもそも内側から冒されていることとの、終わりのないせめぎ合い。蟻は、クローズアップでも撮られている。作者の分身かもしれない。

 

今の時代、雇用や人間関係で厳しい環境に耐えて生きている人は多い。一億総中流とは何だったのか。人知れず心身を壊しながらギリギリで耐えている人は多いはずだ。この作品、共感する人もいるのでは・・・ いや、共感を前提としていないだろう。生きるために作者はこれを作らざるを得なかったと思う。蟻を見ると夢に出るので、もうこれ以上は見ることはできない…。

 

 

◆小林寿《エリートなゴミ達へ》

金村修、小松浩子の系譜に連なるようなスタイルで、ロールは汚く濁り、波打ち、写り込む写真は荒々しく、写真と言うよりも元・写真だったものが溶け出すようにして宿されている。どの写真も「写真」として自立せず、流れ、溜まり、滞り、それゆえに見ざるを得ない写真。

作者によれば、発表されるあてもなく溜まり続けた写真の堆積をどうにかしようという思いが結実して、本作に辿り着いたという。現代アートの文脈からコンセプトをかっちり固めて「写真」を手法として活用し制作する場合には、このような事態にはならないかもしれない。しかし戦略としてではなく「写真」そのものに身を浸した場合、写真はこのように物理的に半無限で蓄積される。経験則だがそれに終わりはない。特に世代的に、森山大道荒木経惟に少なからず影響を受けた世代は、業病に侵されているも同然で、撮る行為自体が生活に前傾化する。眼に見えるものを写真化すること、それが写真家のアイデンティティーとなり替わるためか、結果、写真はたいへんな量で堆積する。それも使い道のないものが。だから作者の状況と試みは我が事として受け止めた。写真家という人種のどうしようもなさと、写真というメディア表現のどうしようもなさが、綺麗事なしに表れていたことが面白かった。

そのどうしようもなさは手作りの写真集(?)に最もよく表れていた。

優秀賞にノミネートされた作家は、その報を受けてから展示を練るので、応募段階ではこの写真集(?)を提示したのだと思う。それはノートや雑誌「家電批評」などに直に貼り付けられた夥しい量の写真だった。写真として評価される以前に却下され、しかし水面下では無限に堆積し続ける写真、「写真」未満の写真である。だがこれらの写真(未満)群の堆積を見ると、作者が明らかに何らかの表現意図を持って大量に撮り溜めていたことも分かる。1枚で見て分かる写真はなく、どこか抽象的な、群として集めないと分からないものばかりだ。

作者にとっては、棄てられるべき「写真」未満のものたちを「写真作品」へ立ち上がらせたことで、写真たちへエールを贈るような意味合いもあったのだろう。客観的に見ると、旧来の「写真」――作家の日常、生活、身体感覚に即したスナップ、その印画紙で堆積させた物質としての写真を集め、熟成させ、発酵させたものとして映った。昭和がやり尽くした旧来的なスナップ写真は、発酵によって再び顧みられ、写真史との照応によって味わわれるものとなったのではないか。

個人的には、アカデミズムや現代アート寄りの写真も悪くないが、否定しえない写真家の業を真っ当に表す作家が評価されることは、嬉しく思う。それは、毎回観ているわけではないにせよ、写真新世紀という企画自体の薄味さ、芸術系大学の卒展の延長線上に思えた空気をかき乱すものとして本作が「汚く」「映えた」せいでもある。

 

 

◆幸田大地《background》

モノや対象の見え方、そして作品化による他者の保存というテーマに即し、『「亡くなった母のポートレイト撮影を継続したもの」としてまとめられた作品』。

会場では木々が静謐な佇まいで写っている、ということまでしか感じられなかった。こうして改めて写真の記録を顧みると、作者の意図は伝わる。遠近を失ったモノクロの木々は枯れていて、だが立っている。その背後にも薄っすらと影のように写し込まれた像があり、それらが漂わせる気配は、不在感と存在が重ね合わせになる。

 

この作品がどのようにすれば会場で伝わるものになったのかは分からない(私自身のコンディションもある?)。

 

以上で優秀賞受賞者の作品でした。

あと前回のグランプリ受賞者による作品の展示もあります。

 

 

2.昨年度のグランプリ受賞者

◆ソン・ニアン・アン《Artificial Conditions - Something To Grow Into》

動画映像作品+インスタレーションである。この時点で力尽きていたので通して観ることができていない。むりでした。 他の展示(「イメージの洞窟」「山沢栄子 私の現代」)を観た後で、更に優秀賞受賞者の展示を読み込み、更に佳作受賞者のポートフォリオをめくるのに、物凄い労力が費やされた。倒れる。写真と違って動画は「尺」の消化が不可欠なのが辛い。。。辛い。。。。

 

昨年のグランプリ受賞作品では、白いタイルの集合のような作品を展開していた。シンガポールを覆うヘイズ(煙害:二酸化炭素やPM10、PM2.5などを含む)を、日々の大気汚染指数を元に暗室ワークへ転換した、科学的でコンセプチュアルな作品だった。それらはシンガポールの空を撮ったようで撮影行為すら為されていないものだった。てっきり空の写真だと思った。

本作は、苗木の育成が管理されている様子が写されていた。鉢植えが1万個床に置いてあった。変な話だが、1万枚の苗木の写真だったらめっちゃ真剣に鑑賞できた。アジア各地の、名前もよく分からない苗木から街路樹、都市の景観の一部として組み込まれる姿を、写真で平面でひたすら見せる… それは観たかったかな…。 

 

3.佳作受賞者

佳作受賞者の作品で、気になったものを少し見ましょう。こちらは公衆電話ぐらいの(古い?)かなり限られたスペースに収まるよう、ポートフォリオと作品プリント数点あるいは動画モニターが提示されている。なので展示で工夫する余地はほとんどなく、ポートフォリオが全てとなる。照明がめっちゃアルバムのフィルムに当たって反射しまくったり、なかなか環境が厳しい。優秀賞とえらく条件が違うので、皆さん優秀賞を狙っていくか、反射を抑えられるアルバムを使いましょう。

 

◆尾藤能暢《それぞれの窓からのそれぞれの眺め》

素通りできない力のあるスナップが続く。1枚1枚にかなり力があって、特に人物の姿、表情に惹き付けられた。仲間や身内を見つめるものなのか、知らない人ともポップな関係が築けるのか分からないが、出て来る人々が弾けている。逆に人物ではないカットとの落差が激しい。人がいないとき、かなり心象光景に近いというか、都市で暮らす者の底知れない孤独感が表わされているようだった。それは終盤に近付くと一層深まり、人物らの元気の良さは別の作品だったかのように潜まり、パーティーから抜け出て虚空へ向かって歩いていくようだった。

1枚1枚の力があるだけに、何かまとまらない印象だった。静と動の写真の質が違いすぎるため、それらを統御するには更なる編集の力が必要なのだろう。面白かった。

 

 

◆宇平剛史《Skin》

人の肌だという。言われて初めて気付いた。プリントに選ばれたこの1枚はかなり黒く、暗く焼かれ、「肌」の造形がしっかりと描写されていた。それがプリントによる暗さなのか、肌の黒さなのかは分からないが、生きた彫刻としての美しさがあった。

だがポートフォリオを見る限り、モノクロの焼き加減は白や灰色など様々で、この黒さは肌に由来するものではないと分かった。すると逆に、作者が肌の接写を通じて、何を表そうとしているのかは分からなかった。石内都と違って、その肌には特徴的な刻印や表情はない。特徴のない肌のフラットネスから、何を語らせるのか。

ポートフォリオが照明を反射しまくっていて、なかなか肌の質感を見るのも難しかったせいでもある。

 

 

◆伊藤ゆかり《身体》

写真が編み込みによって構成されている。作者は3DCG画像の技法に注目しており、写真としての画像を物質レベルで奥行きのあるものへ立ち上げることを企図したようだ。技術的なことは分からないが、細かく、蛇の鱗のように編み込まれた写真は、縦方向にではなく横方向で奥行きを持っていた。この視座と構成が必ずしも3DCGとニアイコールではないと思うが、情報の転換に当たってはピクセルで像を表現し、奥行きを持つことが肝だと分かった。

3DCGやゲームなど拡張空間内での映像と「写真」の関連を語る作業は、今まさに写真側から行わなければならない課題だと思っているので、面白い取り組みだと感じた。印象に残るヴィジョンゆえに、壁面での展示が見てみたい。

 

◆立川清志楼《15minutes》

15分間の映像。何が起きるわけでもなく、写真に限りなく近い動画。確かに背景の緑などは揺れ動き、ポートフォリオの写真には経過時間が記されている。15分ずっと見ていたわけではない。ただ10秒観ていてもその中身は微細に動きがある。

ここから始まる作品だと思う。この手法でやれることが無限にあり、無限にある中で何を必然あるいは偶然として提示するのか。既に多くの映像作家が試行してきたフォーマットであるようにも思う。それゆえに退屈ではなく、またここがアルファであり、ベータの姿が気になる。

 

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( ´ - ` ) 以上す。

 

総じて、今の世の中の周縁、作家ら個々人の非常にパーソナルな視点から語る、孤独な詩、自己療法のような世界観だった。現在のこうした社会的状況ゆえに、これらの作品が生み出されたという説明は可能だ。作品個々がなぜ評価されたかの説明は可能だ。しかし逆が説明できない。こうした受賞作品が指し示し、告発する現代・社会とはどういうものであるのか、という点は説明ができない。それぞれが周縁の点だからだ。これはTwitterなどSNSのプラットフォームが動画・静止画・文字を総動員し、刻々と即応するメディアとして優れているため、争点のコアを持っていってしまったことにも大いに起因する。youtubeなど動画メディアが解説、トークを乱発し、分かりやすい言葉で社会を語っていく状況のも、写真の役割をますます「語りえぬもの」や「語られないもの」への接近に至らせている一因かもしれない。

写真という単一のメディアが可能にする応答の在り方では、現代のコアを突くことが難しく、説得力も不足するという事情は重々承知している。だが写真がここまで個人的な傷や記憶の話しか扱えないのかと思うと、それでは鑑賞者はこの展示会場で何を見れば良いのか、そこが分からなかった。対案を示せと言われると困るが、大きな真空を伴ったような会場だった。

 

( ´ - ` ) 完。