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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】深瀬昌久「家族」刊行記念特別展 @POST(恵比寿)

【写真展】深瀬昌久「家族」刊行記念特別展 @POST(恵比寿)

一見、古く懐かしい「家族写真」だが、どこか/かなり演劇的だ。美しいプリントと明るい虚構性がじわじわくる作品群。

【会期】11/15(金)~12/8(日)

 

JR恵比寿駅の南西、住宅に囲まれた中に現れるアート系の本屋「POST」。店内の奥にはギャラリースペースがあり、深瀬昌久の写真が展開されている。こんちは。

( ´ - ` ) こんちわ。

いやあけっこうなお品揃えですね、良い。アート系全般豊作。洋書ばかり。字が読めない。やヴぁい。わたしAHOなんで英語読めない。ギャー。

 

だがAHOでも読めるのが深瀬である。日本語だし、写真だからだ。

今回の展示は、MACK社より刊行された写真集「家族」の特別展である。元となる同名の写真集は1991年にIPC社から出ているが、稀少すぎて中古市場でプレミアが付いている(チラッと見た商品は9万円近かった)。伝説的な名作、写真史に残る怪作が、本当に目に触れることのできない「伝説」と化してしまうのは、後世にとっては大きな損失でもある。9千円でおつりがくる価格で復刻されたのはうれしい限り。最近こういう名作の復刻(奈良原一高とか)が相次いでいて喜んでいますが慢性的に財政難です。あうう。財政。あうう。

 

さて、家族。会場はマイルドに洗練された葬儀会場の面持ちである。家族という集団そのものを弔うような題字だ。

 

従前、深瀬昌久という写真家は謎が多かった。

70年代、荒木経惟森山大道らと「ワークショップ写真学校」を開催したり、それこそ「私性」に基づく観点から撮られたカラスや、妻・洋子にまつわる作品群などから、荒木経惟と並置して語られる存在であった。が、その世界観や作品について、体系立てて語られる機会には長らく恵まれていなかった。1992年に新宿ゴールデン街で深酒、転倒、そして施設に入所してからというもの、部外者には回復したのか逝去したのかすらも、よく分からず、どこか伝説めいた写真家だった。

私が深瀬の遺した仕事の全体像を知ったのは、2018年のKYOTOGRAPHIEにおける回顧展、そして同年9月に赤々舎から発行された全集「MASAHISA FUKASE」によってである。その多彩で実験色溢れる作品群は、衝撃としか言いようがなかった。一方で、ずば抜けた写真の才能に恵まれながら、写真によって、そして寂しさのようなものによって、人間性や暮らしをとことん蝕まれてゆく者の、凄まじい生き様があった。人生と写真との関係が反転したような人物であった。写真が凄みを増すごとに、報われないところへ行ってしまう人。そんな印象を受けた。 

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本展示と写真集「家族」では、昔ながらの家族の集合写真が並ぶ。だが全く普通の家族写真ではない。「家族写真」という舞台を用いた演劇のように、それはどこか空転している。

美しいプリントだった。フラットで蕩けるような銀色が味わい深い。これらは深瀬の実家である北海道美深町の写真館において、1971年から開始されたシリーズである。フォーマットはまさに、町の写真館で撮ってもらう、ザ・家族写真。最近めっきり見なくなったが、これぞ身内の極致のような場面だ。 

本来、私は人様の家族や仲間、私的な関係性にそこまでの興味を持つことが出来ない。私に限らず似たようなものだと思うが、他人の家庭事情や恋人など、閉ざされた関係を見せられても、そこではこちら側は赤の他人として、絶対的部外者として、親しげな眼差しの交換の前から切り離されたまま、自ら通り過ぎる以外にないのが常である。

 

しかしこの家族写真は、見てしまう。美しい焼き加減のフラットさと相まって、もう一つのフラットがある。個人の、作家本人の家族を撮りながらも、それは身内で閉じていない。むしろ不特定多数の個を招き入れる箱のような仕掛けが強く働いているのだ。

見ているとつくづく奇妙だ。

まず、深瀬本人が登場しない。代わりに上半身裸の若い女性が、左端に微笑んで立っている。これは一体何の写真なのだろうか? 少々エキセントリックな家族なのか? いや、しかし裸の女性は次の1枚では別の女性に入れ替わっている。それに写真は時に、全員後ろを向いていて、誰の顔も写っていなかったりもする。かと思えば、深瀬昌久本人が参加して、レリーズを手にしていたりする。被写体が自ら撮る「家族写真」とは一体? 

「家族」シリーズでは、真面目な集合写真の中にこうしたちょっとしたズレが用意され、家族という概念は強く揺さぶられる。肌を晒す女性の謎かけは、絶大な威力がある。場違いな裸、場違いな白い襦袢、そして異様さを打ち消すような彼女の笑顔、そんな彼女の違和感を打ち消す家族みんなの笑顔。この集団は双方向に働き合い、家族写真という私的な記録のフォーマットであることを脱して、家族の体裁を装ったパフォーマンス性の高い一団へと転じ得る。裸の若い女性は、一般的な「家族」におけるどの構成員と役柄を交換できるのだろうか。エキセントリックな芸術家肌の姉・妹だろうか、新妻だろうか。家系図からはみ出た容姿と風体と確信犯的な笑顔はいずれにもフィットせず、空回りする。彼女を起点とする意味の揺らぎは、「家族」という社会的集団の在り様について、ある発想を抱かせることになる。血縁や情による運命的紐帯――絶対的な繋がりではない、ということを暗示しているかのようだ。ここに、家族の関係性とは、都市の片隅で催される舞台演劇のように、どこか即興的――コンテンポラリーな集まりとして映ってくるのである。

 

そのように思わされるのは、やはり写真が「家族写真」としてのフォーマットでしっかり構成されていること、プリントが美しくフラットで作家の主観を排されていること、そして一番には、深瀬の両親を核とした構造の強さゆえである。

裸の女性以外のメンバーは実際の深瀬の親族であり、どの写真表にも共通して登場するが、中でも一番ぐっと視点を引き付けるのが、父親の存在であった。深瀬と似た面立ちゆえに、主人公不在の画面内に、深瀬当人のビジョンを期待し探し求める眼が帰結してしまうからか。古き良き家父長制の安定感を期待してしまうからか。

後に、この深瀬一家の写真からは徐々にメンバーが欠けてゆく。深瀬自身にも妻・洋子との別れ、様々な波乱が待ち受けている。1971年の初回の撮影から5年間継続されたのち中断、1985年に再開、そして1989年の写真館閉館を最後としてこの家族シリーズは終了となる。家族の破綻を先撮りした、予見的な遺影とも呼ぶべきだろうか。本作の醍醐味はそこにあろうが、そのあたりの物語は、後に紹介するyoutube動画にて堪能されたい。

 

だが深瀬家の外側でも、「家族」という構成団体は、大きく揺らいでいた。

「家族」シリーズが作成された70~80年代にかけては、日本社会において家族の有り様が大きく変貌し、それまでとは異質な問題を孕むようになった時期とも重なるだろう。戦後復興からの近代化、高度成長の過程で急速に進んだ都市化、都市への一極集中は集合住宅住まい、郊外の発展、「核家族」の急増をもたらし、1975年には世帯構造において最大の割合を占めるようになった。最小単位にまで細分化された「家族」は、都市部で地縁・血縁から切り離された暮らしを営むこととなり、また経済発展に伴うライフスタイルや価値観の変化は、幸せのあり方や「家族」の意味と姿をも大きく変貌させた。それは社会問題の現場の最前線ともなった。

思い付いた象徴的な事柄が「家族ゲーム」(1981年小説、82年TVドラマ)や「戸塚ヨットスクール事件」(1983年発覚)だった。家族の構成員が、同じ屋根の下に寄り添う家族の扱いに難渋し、これ以上割ることのできない社会の中で、激しい不協和音を生じさせていた。その原因と症状は一様ではないが、少なくとも「家族」の役割が、外部に対する演技の場と化した時代であったことは否めないだろう。そこでは多くの問題が隠蔽され、よき夫・よき妻・よき子供という、よき「家庭」が民間人によって「演出」されるようになっていた。家庭は実生活の場であるにも関わらず、ステータス、格付けの表象ともなっていった。「家族」という演目、それは今もなおSNSなどWebを通じた事故演出の形で続くものでもある。

 

深瀬の「家族」に見る演出性は、マイルドに、しかし鋭く、こうした社会情勢を暗喩するものにも見えたのだ。それが、私の眼を放さなかった理由だ。 

勿論、深瀬昌久の作品、制作動機の根っこは、社会問題とはリンクしていない。徹底的に己の孤独と思慕の念に生き、写真によって生き、自己を見つめすぎるぐらいに見つめていた人物である。自分以外を撮っていない作家である。しかし写真家に限らず、極めて優れた作家とは、圧倒的な個、どうしようもなく濃く、暗い「私」のうちに、外界の状況、不穏さや揺らぎ・・・「時代」としか呼びようのない普遍的なコンテンポラリーを、予期せずして呼び込んでしまうものである(それゆえに不朽の名作となるのだろう)。

「家族」シリーズは撮影の度に、構成員の配置やポーズが工夫され、異質な人物を投入されながら、虚とも実とも、深瀬本人の遊戯とも本気の思慕とも付かぬ――そのいずれでもあるヴィジョンとして撮り溜められていった。アレンジを加えられながらも、家族写真というフォーマット自体はしっかりと守られていった点は、まるで昭和の末期において実体を失いつつも、概念・表象としては強く残った広義の「家族」にリンクしているかのようだ。寺山修司は60年代、家系図を自らの言葉で語る(騙る)ことで、「イエ」をフィクションの源泉とした。つまり個人と「イエ」の距離は強く肉薄しており、それからの脱出がテーマだった。だが深瀬の時代には既に「家族」は抽象化し、彼はそれを演技と喝破しつつも、実のものとして、そしていつかは失われるものとして、写真によって手繰り寄せ直そうと試みていたのかも知れない。

 

そのような、「家族」という集団を巡る問いかけと、長い旅を感じた。写真の中の人達が、どんどん齢をとり、構成員が欠けてゆき、ついには遺影になってしまうのである。この流れは、上記のような話だけでは足りず、写真と喪との関連、家族と喪との関係も語られなければならないだろう。

 

最後になるが、本展示の元となった写真集「家族」は、「深瀬昌久アーカイブス」を担うトモ・コスガ氏の苦労の賜物である。トモ氏は自身のyoutubeチャンネルにて、本作に秘められた深瀬昌久という写真家の人生、そして深瀬家の歴史を通じて、「家族」シリーズに込められた想いや意味を語っている。深瀬昌久という写真家を知るには。こちらの鑑賞をお勧めします。

 


家族写真に見る遺影 // 深瀬昌久『家族』// 写真集を読む

 

 

鑑賞時には比較的さらっと観れたのだが、言葉にするとあれもこれも言わないといけないという事態に陥って、改めて深瀬作品のおそろしさを知ったのであった。ぐぬう。

 

( ´ - ` ) 完。