写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】米戸忠史「とまどう視線」、山下隆博「イディンダカライに沈む夕日」@大阪ニコン

【写真展】米戸忠史「とまどう視線」、山下隆博「イディンダカライに沈む夕日」@大阪ニコン

大阪ニコンニコンサロンとTHE GALLERYの両会場に、モノクロ写真がずらりと並んでいる。似ているようで全く違うモノクロ作品。

【会期】米戸忠史:2019.9/26~10/2 / 山下隆博:2019.9/26~10/9 

 

◆米戸忠史「とまどう視線」@ニコンプラザ大阪

30代前半の頃には岩宮武二の教えを受け、2001年には須田一政塾大阪に所属していた作者は、モノクロのスナップ写真を展示。コンセプトについて、撮影時に「撮った」と思っていたものとは異なるものが写り込んでいること、それらは決定的瞬間でもフォトジェニックでもなく、自身の視線は曖昧に「とまどっている」と表現している。

 

会場向かって左側の壁面は海外(ヨーロッパ?)の街で撮られたもの、右側は日本・恐らく大阪で撮られたものに分かれている。前者はまさに静かなスナップで、街中の光景に人や車、木々をバランスよく配して撮られている。

だが大阪の光景は独特の気持ちの悪さを見せる。逆さを向いて口を開く露悪的な人形のオブジェ。大量の宝石を散りばめた高級車。結婚式なのか、パーティーの準備が施されたテーブルの群れと、スクリーンに映されたえらく時代外れな映画のワンシーン。ヨドバシカメラの前でカーブを曲がる最中の高速バス。それらの光景はまさに、須田一政の捉えた日常景のように、捉えどころのない日本の隙間が蛇のように佇んでいる。

 

 

◆山下隆博「イディンダカライに沈む夕日」@大阪ニコンサロン

入場すると白手袋が置いてあるが、ポートフォリオの閲覧のためではなく、写真の合間に立てかけてあるパネルを持ち上げて見るためのものだった。撮影の舞台はインドのイディンダカライという漁村である。パネルには被写体となった現地人による直筆のメッセージが挟んであるが、当然、読めない。パネルの裏にはその日本語訳が掲示されている。

 

テキストを読まずに、まず写真だけを鑑賞すると、描写のきれいな、異国ののどかな村落を写した作品だ、と思う。そしてそれ以上のことは見いだせず、旅先のノスタルジー、あるいはモノクロ写真そのもののノスタルジーを愛でた写真なのかな、と思うだろう。写真は温和なトーンで統一されている。だがキャノンやオリンパスのギャラリーならまだしも、ニコンサロンでただ単に「村人の笑顔が良い」「素朴な暮らしが良い」といった展示が企画されるものだろうか。

 

最後の壁面で作者のステートメントを見るか、直筆文の日本語訳を読むと、この村の置かれている状況が分かる。この村は原子力発電所とともにあるのだった。90年代からロシア企業によって建設された原子力発電所は2011年に完成し、試運転が行われ、2014年にはついに商業運転が開始された。奇しくも、東日本大震災と同じ年に、原発との暮らしを本格的に強いられることとなった村なのである。その一点だけで、何か他人事でない繋がりを感じてしまう。

住民らは州首相の意向に振り回され、デモや道路封鎖などの反対運動を実施したが、強権発動によって武装警官が投入されたり、一方的に国家反逆罪の罪状をかけられている。村民約1万人に対して8,856人が21件の事件を起こしたとされているが、ほとんどの人がその事実を聞かされておらず、証明書も見ていないという。

手書きのメッセージには、個々の村人の生活の様子、原発への不安、原発が動いてからの村の異変――魚が減ったことや、丈夫なはずの漁師が謎の病気で死んでいることなどが綴られる。

作者は311以降、日本だけでなく、世界の原発を訪れ、原発とともにある土地の風景を撮っている。写真集も置いてあり、見てみたが、言われなければ「原発」の二文字は思い浮かばない。特別ではない、普通の、我々と地続きのどこか、のように見える。

こうした風景を、言葉の情報・声とともに改めて見るとき、穏やかで、ノスタルジックですらある写真は突如として、現在進行形の問題を語るドキュメンタリーとして立ち上がる。本展示には写真の特質がモロに出ている。写真は言葉によって意味を一変する。「真実」を伝えるメディアとして信頼されるが、実際には添えられた言葉ひとつで、写真はいかようにも我々を裏切る。その意味でも面白い展示である。

 

( ´ - ` ) 完。