写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】北島敬三「UNTITLED RECORDS 2018」@ニコンプラザ大阪 THE GALLERY

【写真展】北島敬三「UNTITLED RECORDS 2018」@ニコンプラザ大阪 THE GALLERY

日本列島で建造物やそれらが立つ場を捉えた作品群。静かな重低音がずっと響いている。建造物や風景の写真というよりまるで「日本」のポートレートだ。

 【会期】2019.6/20(木)~7/3(水)

 

このシリーズは2013年3月より開始、「連続写真展」と「連続写真集」を同時発表し、年4回ペースで全20回が予定されている。(当初は全20回「以上」とされていたが、一旦区切りを付けることにしたのだろう)

 

会場では同シリーズの連載型写真集も展示・販売(1冊2,000円)されている。回によって着眼点、世界観がかなり異なるのが面白い。大きく分けると、311の被災地、滅びが濃厚な回と、もっと何気ない、日常でよく目にするような物件が淡々と撮られた回がある。Vol.3とVol.16が非常に良くて買った。今回の展示シリーズが収録されているものと、それに似た世界観のものだ。メッセージ性は薄く、その分、この国土の表情が濃厚だ。

 

作者は現代の世相を、特に国内では2011年の東日本大震災福島第一原発事故以降の状況を受けて、目の前の風景が一変してしまうことや、眼前の光景とメディアなどからもたらされるイメージとを区別することの困難さを語っている。日常と非日常、当事者と非当事者といった境界が定められなくなった状況下で、本シリーズは作者が「問い直し」を実践するための試み、行為として続けられている。

こうして会場風景として撮ると、一見クールな作品に見えてしまうが、実際に対峙しているとこれらは全くクールではない、ヘヴィだ。1枚1枚に写し込められた風景、物件の発する、低いうめき声のような、建物や地面が軋むような音が聴こえてくる。どの写真にも、濃い黒、影が付きまとう。日常のどこにでもあるようなブロック塀やコンクリート壁が、長年酷使された貌や体のように影を刻む。

 

ニュー・トポグラフィックスの写真と美術館などで対峙したときには「フラット」さを受ける。デッドパンの均質な、等価性に覆われることで浮かび上がるディテールからは、通常は「重さ」は感じない。

しかし本作はヘヴィである。ニュー・トポグラフィックスの文体に似ているが、陰影が重いというのか、撮影時期や気象もあろう、真冬の重く湿った雪混じりの風と、この国で人々の営みが経てきた老いや疲弊のようなものが、陰影として凝集されていて、それらが反射的に風景、物件に情感を与え、写真から声を発生させている。

畠山直哉小林のりお、柴田繁雄らの代表作との大きな違いは、やはり私たちが311以降の世界を生きているということに他ならないだろう。立場や職業や思想、信条に関係なく全員まるごと当事者になってしまったのが311以降の世界ではないだろうか。TwitterなどSNSの活用方法が激変したことも相まって。その上、単に被災というイベントだけでなく、少子高齢化やインフラの老朽化、社会保障制度の疲弊などあらゆる面において、私たちは無視は出来ても誰も逃れることができない。すなわち客観的観測の立場、デッドパンの視座には立つことが許されない時代にいる。AIや監視カメラを除けば。人間である写真(家)と「状況」は切り離すことができない。

 

そして都市景は、90年代までの開発、画一化、自然界への侵略といった「攻め」から一変して、滅びや綻びや老朽化といったそれぞれの私情を抱えていて、従来とは逆の脅威から持続可能な最小限の再生が命題となっている。 風景や建築に「死」や「老い」が濃厚に刻まれ、そのことを自覚せざるを得なくなった日本の状況。そういったものが本作には写っている。

 

日常生活のレベルでは、確かに311から立ち直り、次のイベントに向けて着実に準備を進めている、かのように見える。

実際には見えていない。見る機会がない。それだけだ。被災地の話題が格段に減少し、現地が今どうなっているか分からない(知らない)せいでもあるし、目にフィルターが掛かっているせいでもある。眼前の景色及び話題を無意識のうちに選別するフィルターである。情報源がTwitterであろうがニュースや新聞であろうが同じことだ。フィルタリング後の視座は、個々人の生活に最適な情報が取捨選択された後のものだ。

 

つまり根本的に矛盾があって、全員が当事者という土台は共有したはずが、その上に再建された「その後」の生活はバラバラで、格差と分断の「壁」が出来上がっている。作者はその状況に対して、被災地及びそれ以外の日本各地のハードウェアとその痕跡を撮り歩きながら、311後の圧倒的当事者感と、その後永く続く老朽化や疲弊と、再び立ち上がった「壁」、そしてそれらもまた緩慢に風化してゆく姿を表しているように感じた。作者は決して被災地の状況をドキュメンタリー的に伝えたいのではない。我々の置かれている状況、 あの日を境にして変わってしまったことと、なおもまた取り戻されてゆく分断の日常のさなかで、着実に老いてゆく、この国の人相のポートレイトを撮っているのだと思う。

 

( ´ -`) 完。