写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展/KG+】西村勇人「Commons」、林敦子「水のかたち」@ヴォイスギャラリー

【写真展/KG+】西村勇人「Commons」、林敦子「水のかたち」@ヴォイスギャラリー

2つの「科学」が同じギャラリーで姿を現した。1つは研究所の奥で稼働する「科学」、もう1つは庶民、消費者にとって身近な「科学」だ。

 

 

 

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【時間】11:00~19:00 (最終日17:00まで)

【会期】2019.4/10(水)~4/21(日)
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◆西村勇人「Commons」

作者は自然科学の研究現場を撮り続けてきた。本作の被写体は、カラフルな筐体と、夥しい配線だ。得体が知れないが、研究とは縁のない文系出身者、事務職員の目にも、これが手に負えないぐらい高度な演算装置だということはすぐに分かる。

 

科学ほど、生活に関わるものでありながら、一般の生活者から見えていないものもない。

科学は暮らしの全ての土台であり、社会を牽引し、経済を大きく左右する。多くの者にとっては、科学はその原理も真価も全く分からないものだが、同時に憧れの的、何か魅力的で興奮を誘うものでもある。研究に華々しい成果があれば沸き立ち、失敗やデータ捏造の報を聞けば怒り、落胆する。TV越しにしか「科学」に触れない庶民にとっては、プロ野球やサッカーの試合みたいなところがある。

 

科学について、今も印象に強く残る光景がある。2014年、理化学研究所の小保方氏(当時)が発表したSTAP細胞の論文について、その真偽が問われた時期のことだ。TVのワイドショーでは連日のように誰かが声を荒げていた。白い割烹着とは裏腹に状況は真っ黒なグレーで、怪しさだけが募っていて、事の分かりやすさをーー正義を求めて、吠える者がいた。「STAP細胞は結局あるんか、ないんか、どっちや」「嘘か本当か知りたいんや」。

強い違和感を覚えた。科学は、ハサミではない。物事の白か黒かを気持ち良く裁定するものではないのではないか。グレーの濃淡、確率の話を煮詰めていく作業なのではないのか。白か黒かを付けるのは司法の仕事だ。プロ野球と違って勝ち負けがすっきり決まる世界ではない。

 

では科学とは何なのか?

 

西村勇人の作品では、配線が生き物のように、いや、生き物よりももっと複雑に入り組み、膨らんでいる。カオティックながら秩序を持った様子が客観的に、フラットに写し出されている。これは国内外の科学者らに貸し出される実験機器を捉えたもので、科学者らは各自の研究課題の必要に応じてその配線を繋ぎ変えるという。

タイトルの「Commons」とは、「入会地」(村落共同体で総有される土地)の意味が込められている。科学者らにとって実験器具やデータベースは、お互いが探求する世界のための共有地(知)なのだろう。

トーマス・シュトゥルートは、加速器の巨大な装置の中が、未来の宇宙ステーションのように続いている光景を撮った。西村は、科学者らが知の探求のために集い、交錯する場としてのメカニズムを撮った。これは「科学」という現場がどのように日々運営されているかを語る、真っ当なドキュメンタリーである。

 

科学とは、複雑極まりなく交錯するこの配線のように、とてつもない試行、仮説、迷子を繰り返しながら、グレーの霧の中を探ってゆく作業に他ならないのだと想像させられる。その想像の機会もないままに、私たち庶民は「科学」(科学者)に対して一方的な万能感を抱き、そして責任を押し付けてはいないだろうか。

 

会場には、様々な動物の「胚」の写真が卵の殻に転写された作品もある。作者の関心が、自然科学という壮大なものから、個別の「命」まで、ミクロとマクロに広く及ぶことを示しているようだ。 

 

 

◆林敦子「水のかたち」

もう1つの科学は庶民、エンドユーザーにとって非常に身近な世界の話だ。

とても鮮やかな透明のブルーの形が、ギャラリーの壁面を気持ち良く埋めている。水と光の間のようなブルーは美しい。

 

私はまずコンドームのタイポロジー作品だと思った。コンドーム百珍。いいですなあ。しかしそれにしてはあまりに先端が尖り過ぎている。これでは女性は傷だらけに。人類がほろんでしまう。それに妙にスマートすぎる。我々男性はこのような形状は有していない。もうちょっとこう。その。

次に発想したのはTENGAに代表される男性用のセクシュアルグッズである。だめだ。同じ話である。入口も先端も細すぎる。我々男性はこのような形状は。もっとその膨らみや凸がですね、あの、その。だめです。

ならば塔か。都市の建造物か。都市論か。否である。建築にしては基部の支えがなく、あまりにどこからも切り離されたモノである。単体で成立しているように見える。弾頭のような構造物は何だろうか弾頭ですか。しかし透明すぎる。うむ。

詰んだ。

 

そんなわけで作者氏に話を伺った。

これは私たちが普段手にしているペットボトルを、フォトグラムの技法で写し取ったものだという。像が青いのはサイアノタイプで作られているためだ。光を遮ったところだけが青く濃い色として残り、ペットボトルの形が透明感を伴って現れる。

 

作者の目の付け所が優れているのは、古典的技法を併せて用いつつも、技法の妙に走らず、現代の日用品であるペットボトルの造形を浮かび上がらせることに集中している点だ。

タイポロジーの要素と、ウォーホルのスープ缶の性質がクロスする。作品のフォーマットと大まかな形は統一されながら、一枚一枚の形の細部は全て異なる。

 

これらの形状の違いは、メーカーによって、また、同じ社であっても飲料の種類によって、例えば炭酸飲料と水との違いがあり、なおかつ同じ炭酸でもコーラ、ファンタなどと品種によっても異なるのだという。

 

これには理由がある。飲料を密閉した上で、長時間安置して販売するには、それぞれの液体の性質に応じた素材や形状が必要なためだ。炭酸飲料なら、炭酸の圧に耐えられるよう、果汁系の高温殺菌処理が必要な飲料なら、加熱と冷えたときの減圧に耐えられるよう、それぞれ科学的に適った形状を与えられる。

これに、マーケティングブランディングの観点から、消費者の嗜好と、各飲料ブランドのキャラ付けも加わる。最も有名なのは「コカ・コーラ」のグラスボトルだが、あの独特なくびれの形状は、暗闇で触ってもそれと判別できるように作られている。それと同様に、ペットボトルにおいても、それぞれのブランド戦略の一貫として、平面の取り方、くびれや丸みの取り方について、年単位の時間を掛けて開発が行われる。

 

こうしてペットボトルは「科学」の粋を集められつつ、普段は目に見えない系譜と多様性を獲得して、市場に出回っている。作者の手によって、光の魚拓としてその形状が可視化されてゆく。

既に100種を超える作品が展示されているが、まだまだあるということで、今後も、海外製品も含めながら、日々追加されていくことだろう。

 

 

( ´ - ` ) 完。