写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】野村浩「"NOIR" and "Selfie MANBU"」@BLOOM GALLERY

【写真展】野村浩「"NOIR" and "Selfie MANBU"」@BLOOM GALLERY

噂に聞いてたアイツが登場。

都市の片隅。彼の名はマンブくん。光さす世界と、光を受ける写真との狭間に立っている。この坊や、平成末期のチャーリー・ブラウン? 主従関係の反転した犬の代わりに”カメラ犬”を引き連れ、「写真」を引き裂き、今や、神出鬼没のアイコンだ。

 

 

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【会期】2019.3/16(土)~4/13(土)

【時間】11:00~19:00(日、月、火はアポイントメント制)
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常に困り顔。こ憎たらしく愛らしい。くそっ。謎にカワイイ。なんだか悔しい。90年代は奈良美智が表わした不機嫌の時代。現代は当惑、困り顔の時代? 納得がいっていないようでもあるし、不満そうでもあるし、極めて記号的でありながら、彼の真意は揺らぎ続ける。きっと読み手によって異なるだろう。表情そのものが写真的だ。

 

 

彼の名はマンブくん。設定によると、失敗ばかりしているらしい。

もどかしい、困り顔。何気ない都市景のモノクロ写真に入り込んでいる。日常的な、都市景に、アイコンとして入り込んでいる。

だが、こちら側――物理世界の子ではない。これらは写真家がその場に立って撮った写真ではない。マンブくんも、その場にいた(パネル等を設置して撮られた)ものではない。

これらは「写真」の形はしているが、その成り立ちは大いに脱臼している。写真とは何か? 写真家が唯一無二のシャッターチャンスを捉えて掠め取る「現実」、なんて「写真」はもはやフィクションだ。そんな風にうそぶきながら、写真の「嘘」を戯れてゆく。「写真」のドッペルゲンガー、のような写真なのだ。

 

マンブくんは「写真」の意味を分離させる。秀逸なアイコンとしてのデザイン性ゆえに、「写真」をよくできた背景へと押しやり、アニメのワンシーンのように転化させてしまう。それは「写真」ではなく、リアルな背景として使われた写真素材と化す。一方でマンブくんが物理的モチーフ(子供サイズの板)として会場に掲示されたとき、これらの写真は「マンブくん」という物理的モチーフを取り込んだ演技的な「写真」として立ち上がる。マンブくんは「写真」の有意性と失効状態を同時に在らしめ、素の「写真」と写真の「ドッペルゲンガー」との2つを生み出している。 

 

大量に、のり弁のように真っ黒なカットを吐き出している部屋。光学的には何も写っていない、真っ黒の平面。しかしこれも「写真」(の絵)だ。では「写真」の定義とは何か。形式のことか感光後の印画紙のことか作品のことか行為のことか。それを絵にして積もらせているということは、またしても「写真」は二重三重に意味を遅らされ、相反する意味をも抱え持つのか。

ドッペルゲンガーと出会うと、死を迎えたり、殺されてしまうという逸話がある。ここで吐き出される「写真」は果たして死んだものなのか、それとも重複する意味が止揚された結果なのか、あるいは「展示」という「写真」行為の次のフェーズを巡る問い掛けなのか。

 

曖昧模糊とした「写真」のメタな形態を巡って、淡々と3コマ漫画でマンブくんワールドが繰り広げられ、そのワールドが物理のフロアを逆侵食している。溢れかえったマンブくんは更に自己増殖し、彼のイメージは拡散していく。

ここでは「写真」のフォーマットが先か、写真の元となる被写体が先か、すなわちタマゴが先かニワトリが先かといった写真評論めいた議論は迷宮入りする。タマゴからニワトリが孵り、ニワトリがタマゴを産み、そのタマゴからまたニワトリが生まれ、それがまたタマゴを産む、といった風に、世代が継承され受け継がれる遺伝形質がどんどん変わってゆく有り様を見ることになる。

日常生活にまんべんなく現れてくる / 憑依するマンブくんは、もはや現実を冒すウィルスか、あるいは写真家の視界において写真化されきらなかった写真のフォームの残滓、ゴーストのようなものとして蠢いている。

 

 

たまには写真を撮らずに、マンガ『CAMERAer(カメラー)』とともに、本展示で虚実を行き来しながら、「写真」のメタな意味世界を遊ぶのもよいでしょう。よいよい~。 

 

 

思わずグッズ(キーホルダー)を買ってしまった。くやしい。

 

( ´ - ` ) 完。